2005年 04月 22日

採算性と教育

教育委員会の職員の方と飲む。今回の職場異動で前の税務関係の職場から教育に出戻りした形となった。最初はどうでもいいような愚痴から楽しく始まったが、そのうち、教育委員会の持つ施設の指定管理者制度へ論点が移る。興味があるだけに思わぬ展開にちと熱くなる。

その方がいうには、持っている施設が指定管理者制度によって、業務運営管理者を募るなら、施設が都市に近いという利便性もあって、候補者が殺到するだろうとのこと。私としては、民間の参入もやぶさかでないが、地域のボランタリー団体(NPOなど)もそれに参入して欲しいところであると意見すると、採算性がとれるかどうかが鍵になるという。私としては公立施設がボランタリー団体との協働によって、地域の個人の潜在能力を開放させ、市民の自主的な運営参加と課題の提示、そして批評と創造の場の確保が見込まれるのではないかとの論旨を展開した。しかし、その方は税務関係の職場にて、ある程度「底」の生活も見てきている経験もあってか、民間にしろ、NPOにしろ、即時的に採算性が取れるプレゼンできないようでは、市民は納得しない。現在の直営による、地域の任意団体とのゆるやかな協働は、もはや持ちつ持たれつのなれあいとなり、指定管理者制度がその延長にあっては困るとの反論を頂いた。詳しい話は書けないが、それもある程度は納得せざる得ない現状が理解できた。19世紀の経済学者W.モリスは市民の小住宅の中に芸術文化のデザイン性に富んだ調度品を導入することで、生活(生命)を豊かにすると言ったが、「底」の生活は、それすら適わない現実があることを、私も知っている。

だからと言って、この方の言い分にも了承しがたい。それでは、いつまで経っても、施設の運営が採算性の有無に限定されてしまい、施設の本来の教育機能を発揮できずに終わってしまう。芸術文化の話に限定してしまうが、市民が美の享受能力を発達させるには、その学習と教育が必要とJ.ラスキンは言う。そうであれば、施設はその教育のための行政の財源投資の場として存在するべきではなかろうか。地域のボランタリー団体による指定管理者との実践的協働で、行政はラスキンの言う教育的役割を果せるだろうし、その指定管理者が芸術文化への享受能力の底上げを運営の大儀として掲げるならば、二重三重の相乗効果も期待できる。それでかつ採算性が取れるならばもちろん言うことはない。
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by stoneroses8010 | 2005-04-22 23:12 | 我思ふ


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