2005年 05月 27日

助ける、助けられる

業後、前の職場(社会教育施設)の後輩と飲む。しばらくして、前の職場のカウンセラーらが合流。酔いも適度に回ってきたところで、いきなりインタビュー敢行。お酒も入ってるので、簡単なものを一つ。「なぜカウンセラーしようと思ったの」ということである。回答として
1) 何か新しいものが発見できると思ったから
2) 子どもが好きだったから
3) 皆で騒ぐのが好きだったから(文化祭のようなノリ)
に大別されることがわかった。
普段、ボランティアと言えば、献身的に困っている人を助けるといった自己犠牲のイメージが短絡的に挙げられるが、少なくとも彼らはそう考えてないようだ。
「助ける」といえば、「助けられる」主体が存在するわけだが、それはなんだろう。施設の利用者か、それとも施設か。利用者の場合、リサーチしたわけではないのでなんとも確証あるものでないが、カウンセラーを依頼する理由は単に子どもと遊んで欲しいといったことから、プログラムの専門的総括まで幅広い。共通して言えるのは、利用者は、カウンセラーを施設の職員同様、プロとして見ているようで、講演会に外部講師を呼ぶような感覚に近いものがある。少なくとも、人手が足りないので助けて欲しいと懇願するものではない。では施設の場合はどうか。施設が、カウンセラーを養成して、助けられる部分もあるだろうが、ボランティアを維持するための予算取りから被服貸与などの実務的アプローチに加え、ボランティアとの信頼関係を築く時間を持つといった精神的なアプローチなど、事務量は格段に増加する。事務事業を助けとして安価な労働力と見なしカウンセラーを養成しているのではないと言える。
と考えると「助けられる」主体は存在しないことになる。その主体が存在しないと仮定すると「助ける」という主体も存在しないことになる。というより、「助ける」「助けられる」
という考察は無用となる。

ボランティアの古典的定義として、「自発性」「無報酬」「利他的」と挙げているボランティア研究がある。このうちの「利他的」とは他を利することを意味するのだが、別にボランティアする人間が利他的であると意識するわけでないし、活動することで自分を利していることもある。たとえば、普段体験できないような出来事に遭遇して、貴重な経験になったというエピソードは、ボランティアする人間にとっては、理由1)で挙げたものを現実化させ、カウンセラーになることの醍醐味を味わうことでその欲求を満たすことになり、自分を利することになると言える。とすると、「利他的」はこの場合「利己的」と同一になっていることにならないか。さきほどの「助けられる」「助ける」といった区分と「利他的」「利己的」であるという区分と同様に同一になっているのかもしれない。

*「カウンセラー」は「ボランティア」と読み替えても差し支えない。
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by stoneroses8010 | 2005-05-27 22:28 | 我思ふ


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