2005年 06月 19日

披露宴のライブ感

今日は友人の結婚式に出席。総じてスピーチ重視のオーソドックスな式で、滞りなく終わったので良かったと思う。
式に出席するたびに思うことは、音楽との間である。披露宴会場に新郎新婦が入場してくる時に、彼らの選択した音楽が場内に響く。響きだすと同時に扉が開き、彼らが入場してくる。大抵の式がそうなのだから違和感を感じる。

彼らが音楽を選択するということは、その音楽とともに入場していくイメージができており、カップルごとにイメージの差は当然生じる。なのに、ほとんどの式で新郎新婦が入場するときは、「音楽が鳴り響くと同時に入場」である。
たとえば、私は年に数回ぐらいしか舞台を観にいかないのだが、舞台にいる役者の身体の動きとBGMや音響とのマッチングや動き出すタイミングがやたら気になるタチである。観てよかったと思うものは、そういったことに細かい神経が行き届いているように感じる。
私が言いたいのは、なにも入場音楽のジャンルが偏る(ゆるめのR&B)ためにそうなるとはいえ、音楽が鳴り響いても、来賓のすべての注目が集まって5秒ぐらい経つ「間」があってもいいのではないかということである。少し焦らしつつも、BGMとリズムとマッチングした入場。

披露宴はある程度制約された時間であり、かつスピーチやらで長時間にわたるので、少しでも時間の短縮を心がけたいところであるのはわかるが、何か慌しさを感じるので、試しに各所にそういった演出をほどこし「間」を取りながら、時間に寛容になって披露宴をやったらどうかと思われた。しかし、これは良くない。簡単に言うとダレる。映画も舞台も設定された時間の中で、観客と作品が一体となって成立するものである。披露宴もそれに似ており、来賓と新郎新婦が同じ空間で、決められた席で、新郎新婦、親族、友人、会社の同僚といった決められた慣習的役割を演じなければならない。全員が一体となって(意識するかしないかと別として)成立する行事と言えるからだ。とすると、映画や舞台同様に時間に対してシビアになって参加する人間がどう感じるかを常に考える必要がある。そういった状況の中で、先ほど述べた「間」が考慮されている披露宴は高度に演出されたものと私は思う。
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by stoneroses8010 | 2005-06-19 23:29 | 我思ふ


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