2005年 08月 13日

出会う人すべてが師匠

前の職場へ陣中見舞いに赴く。私が以前担当していた主催事業の真っ最中だからだ。
そこで、1年半ぶりぐらいに、私が担当していた時にカウンセラーをやっていたが、諸事情によりやめてしまったコに出会った。

大学のインターンシップの関係で再び施設で実習を受けているらしい。再会を喜びしばらく話す。彼女は大学に通学しながらモデルを目指すべく東京にも行ったり来たりの生活をしているという。定職があるわけでもないので、出費が重なるわけだが、自分への投資と割り切り、その道を目指す過程の苦しさとそこから生まれる楽しさに充実した毎日を送っているとうれしそうに話す。

そして、私に感謝しているというのだ。どうも彼女は、カウンセラーをやっていたときに、私と施設の仕事をしていて、インフォーマルに話した何気ない雑談の中で、私が彼女の背中を押す言葉を発したというのだ。実は私もこの言葉のやり取りをある程度覚えていたが、それが彼女を突き動かすほどのものになるとは思いもしなかった。

私は人に何かを伝えることができるというのは、自分自身が生きていく中で、もっとも大切な経験だと思っている。それが、「言葉」というもので伝えることができ、人を動かし、動かされたその人が何かを生み出そうとする事実に強く心が動き、これからの自分に対しての刺激となった。

人から教えを受けるというのは、なにも自分より年配の人間とは限らない。出会う人すべてが先生とはよくいうが、それを肌身に感じる。だからこそ、あらゆる場所に身をおいてみたい欲求に駆られてしまう。

金子郁容は「ボランティア」(岩波新書1992)の中でボランティアとは、結果や評価など関係なく自分の感情や関心が働くある状況のなかにコミットメントをはかり、自らの意見や考えや行動を提示することで自らを投げ出すバルネラブル(傷つきやすい)な存在だという。その反応は全面的に人に委ね、それに対して、さらに自分が情報や意見を提示して再び反応することでネットワークを築くことを「つながり」とした。

なぜこういったことを思い出したかというと、「あらゆる状況に身を置こうとすること」に、「バルネラビリティ」を感じたからだ。それなり、使命や責任、人間関係が生じ、労力と資力を要する時もあるのだから、すべてのことが楽しいという一言で済ませられないのは当然のことである。自分自身が傷つきやすい存在になり得るのである。
ひょっとして気軽に好きな活動に生涯学習の一環として参加する博物館などの文化ボランティアのコミットメントとはこういった心理作用なのだろうか。

また、一人カメラ屋でバイトしながら、IMI大学院に通学しているコを話す。彼女も「写真」に対して真剣になる楽しさを感じているようである。技術だけでは片付けられない自分の写真に対する思考の大切さを噛み締めているようだ。その場のノリで写真展でもやってみようかという話が浮上する。いい機会だと思うが、お互いの都合もあり、予定は未定といったところ。とりあえず、9月に撮影と互いの作品を見せ合う方向で話が進む。また予定が詰まってしまった。うれしい誤算でもある。
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by stoneroses8010 | 2005-08-13 23:21 | 我思ふ


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