確証はない。それを信じるしかない。

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2005年 12月 03日

多元的な解釈への志向は己を開く

院生のダンスビデオによる発表を見て少し考えた。

テーマに沿って作品化(表現)するアプローチとは、「点」に向かっていく作業になるのではないかということ。

その場合、自分の撮っているものを作品として完成させるためには、どのような発表形態にするのか、どうやって自分の持っているテーマを見せるかを意識しなければならない。それによって、自分が使用する機材やフィルム、出掛ける時間帯、場所などが方向付けられる。
森山大道のような作風であるならば、中判カメラを持ち歩く必要もないし、カラーフィルムを使う必要もない。(使ったら使ったで面白いものができるかもしれないが)
また、Ansel Adamsのような作品にするのであれば、大判カメラだけでなく、撮影場所や時期も計算に入れて撮影に取り掛からなければならない。(Ansel Adamsの写真術はある意味科学)

テーマと作品の発表形態に応じて写真を撮るということは、見ている人間に説得力を持たせる反面、撮影する被写体の造形や見ている人の感情をテーマに引っ張り込むという一点だけを注視させる表現方法にもなる。
そしてそれは一つの点に向かっての表現方法は芯が強い反面先細りしてしまい、一つのイメージしか見ている人に与えかねない。
また、テーマに沿った作品化ための表現の取捨選択方法は、相当の注意を払わないと安直になってしまう。
たとえば、テーマ「街」の「カラフルな一面」を見せるとか、造形で見せるとか。
時間が限られてしまったら安直な取捨選択を迫られることになるデメリットもある。
しかし、そうやって構成された作品は鑑賞者側からすれば、製作意図がわかりやすく、感想を「お持ち帰り」しやすい。

そうではなく、私は、撮って作品化したものはそこで自己完結し、撮影者の手を放れて、観ている人間に多元的な解釈を提供する表現こそが大切だと今は思う。
テーマに沿った表面的な編集作業ではなく、それに加えられる「深み」だ。
表現者は受け手がどう感じるかなど考えるのではなく、むしろ自分がそれをなぜテーマにしたか、なぜそのテーマに対する表現方法をこれだと決定したのか、そしてそのなかの「美」とは何なのかを考えなければならない。
それを考え込んで、明確なビジョンを手に入れるまでは途方もない時間がかかるだろうが、時間をかけるだけの価値はある。
そういった手法によるアプローチには、自分でディテールまできっちり詰め込む必要はないのではないだろう。
受けての自由な解釈や作り手も予想しない効果を発揮できる場所は空けておいた方がいい。極端な話、自分も実はよくわからないままに創ってもいいと思う。そうすることで、見ている人間が自由に解釈できる道が開けるような気がする。
しかし、そういったものは理解されにくい。わからない人には一生わからない。観ている側は感想をお持ち帰りしにくく不満足で文句たらたらとなりうるかもしれないが、そういった作品は想像力を働かせる、もしくは想像力を膨らませるポテンシャルに溢れていると思う。

(付記)
映画の話になるけど、David Lynchの「マルホランド・ドライブ」ってそういった意味ですごい傑作だと思う。
そういや、杉本博司が「頭のなかにヴィジョンがある。映画一本分撮ったらどうなるかという観念を頭が頭にきて、その頭で見えたものをいかにして現実にするか、その技術的な手段として写真がある」と言っていた。
リンチの世界観と杉本のヴィジュアライゼーションのアプローチはなかなか素敵なコラボだと思ったりする。
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by stoneroses8010 | 2005-12-03 22:39 | 我思ふ


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