2006年 02月 04日

Self and others

土曜日は、撮るということが優先されるようになってきた。それが、当面やらならなければならないことの負担になるとわかっていても。

この日も3時間ほど撮り、1時間かけて書店で目当ての書籍を購入した後、家に戻り、フィルム現像。最近は撮ったらすぐに現像が習慣となっている。撮る、見る、考える、撮るのサイクル。フィードバックすることによる発見が暗室で印画紙に像が浮かびあがる瞬間のようにスリリングである。

私が撮っている写真は、いわゆる瞬間的に発生する事象を「切り取り」、提示するものではないと思っている。
(Blogに掲載している写真では説得力はないと思うが。)
Henri Cartier-Bressonのように、主題の意味と構図を瞬間的に一致させるものでもなく、R.FrankのようにBressonのアンチテーゼのような瞬間の力強さがあるわけでもない。Capaのような社会性に富んでいるわけでもない。(もっともここに偉大な先人を出すこと自体何様気取りと言うような気もするが。)
かといって、90年代で一斉に活躍してきた日本の若手写真家が生み出したクールな私写真でもないような気もする。着地点がわからないだけに不安定であり、撮り続けるモチベーションにもなりうる。

こんな思索をめぐらすだけでも、自分の撮るものを見るという行為は、写真を撮るという実践に含まれた重要なファクタであるような気もする。
最近よく考えることがもう一つある。関連書籍でも多々触れられていることだが、それは「写真を撮る自己」という存在である。被写体と主題に対して外在的なのか内在的なのか。
W.Egglestonは自分を越えて、モノを見ること「アンユージュアルな見方」ついてに触れている。J.Meyerowitzは「自然」をテーマとして撮るにしても、都市生活者が撮る自然と自然愛好家が撮る自然に相違があり、そういった二面性を一人の自己の中で生成できることについて触れている。Lee Friedlanderは自己を実際に撮ったものに痕跡として残すことで、被写体との関係性を視覚化した。私は、すべての写真がそうであるとは言わないが、撮る自己と社会との関係性は逃れられないものであり、主体を取り巻く環境のインパクトがあった上で生成されるものは強度があると思う。それをどう撮るということに落とし込むか、それがわからない。牛腸茂雄は「self and others」でたくさんの「他者」を撮ることで、それを写真を見ている「自己」の記憶と共鳴させようとしているように思える。写っているのは他人のポートレートなのだが、それが、自分の過去の記憶のようにスライドさせるなにかを感じる。秀逸だ。
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by stoneroses8010 | 2006-02-04 22:41 | 我思ふ


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