確証はない。それを信じるしかない。

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2006年 04月 01日

実験作品の批評

今日は、ある写真家に作品を見てもらいにいった。といっても、合評に近い形式で、会場であるギャラリーには、私の他にも作品を持ち込んでいる人がいた。

私は、この半年、ある実験的なテーマで写真を撮り集めていた。それは、いっさいの「○○感」といった撮る側の主観を出来るだけ避け、また、写真表現につきものである「シャッタースピード」や光と影の組み合わせといったモチーフを魅力的に見せる手段も排するもので、どれだけ観ている他者に普段持っている「認識」を揺るがせる作用があるのかを見極めるものでもあった。
ビジュアルとしては、植物図鑑に近いものとなってしまっている。

さて、その写真家の方の批評であるが、結果を言えば、「理解できない、写真でなくてもいい」という手厳しいものになった。私は、この手の作品は「ホームランか三振か」と思っていたので、ある程度は予想できた。しかし、面白い気分にはならないことも正直である。

さらに、詳細にその先生の批評を書きとめておく。
○研究、論文の資料写真のようだ。ある言葉のレトリックがあって、それに付随する資料のよう。
○言葉から発する写真とかではなく、写真としての表現に重点をおくべき
○ドイツ写真としての世界観に近い。日本の物としてどう落とし込むかだ。
○被写体としていろいろあるも、自分の考えが先行して、表現が狭くなっている。
などなど。

「ドイツ写真」という言葉が出てきたことは、狙いがあったともいえる。この先生はよく聴くと、ドイツ写真があまり理解できないようなので、その習作とも言える私の作品をよく思うはずもない。

言葉と考えによって、自分の表現の幅が狭くなっているという指摘は納得できるものであった。私は、主観的な「写真」としてのアプローチを避けることで、観ている人の解釈の幅を広げようとしたが、それがどうも逆効果になっていたようだ。

他の人の作品の批評と聴いて。
トーンの統一性、テーマの整合性だけでなく、時代性、地域性の整合性をつけるべきと感じる。もっとピンポイントなテーマとして撮り続ける必要性。

ひょっとしたら、私は、撮る主体としての「私」と社会との関係性を勘違いしているのかもしれない。自分が内在している社会に対して、どう問題を持って撮るかというのではなく、社会にある一つの被写体の世界観があって、同じ社会にいる自分がどう撮るかということのほうが他者からは理解されやすい。いや、インパクトを与えやすいのかもしれない。
たとえば、とある場所の人を同じ場所で、ずっと同じ角度でポートレートを撮っている人がいたが、それはそれで撮る側の主観云々はなしとして見応えあるものだった。(まあ、分野が違うといえばそれまでだが)
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by stoneroses8010 | 2006-04-01 22:36 | photo


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