確証はない。それを信じるしかない。

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2006年 04月 05日

とりあえず、

自分の価値観にブレが少ないものの、以前指摘されたことをよく考える。

うまく表現できないのだが、もう少し濃い被写体との付き合い方があって、その方法としては、より感覚的でよいかもしれないということである。

90年代に代表される一部の写真は、被写体との関係を敢えて薄くしているクールな距離感があって、撮る主体との距離感で「唯一」を作り上げているように思う。
また、反対に被写体との関係性が濃密(たとえば家族)であることをテーマにして、方法一定化させる、もしくは、無責任に撮る、ウソっぽく見せるといったランダムさで、「私写真」の継承したものもある。

私が、この半年撮ってきたスタンスは、被写体との関係を排除し、かつ方法論は主観を排除すべく一つのあり方に絞ったものであった。そしてそれは(主観性を排除した結果)観念なり、思想なり、観ている人が身を置いている社会的集団の流れに訴え、他者性を獲得できると考えていた。(いまでもそう思っているが)

そこで、今は、その撮影手段を増やすという意味で、もう少し緩やかな、「モノを観て、ハッとしたときに即座に撮る」という身体性があって、「この光がバーっと入っているものを捕まえる」というようなより感覚に近いものがあってもいいかもと考えている。
そのほうが、わかりやすいといえばわかりやすいのである。

複数の写真が並ぶ時、人はその写真の関連をどうしても見つけたがる。それが、「実は車の窓からすべて撮っているものなんです」とか、「これは、○○という地域でのポートレートです」というわかりやすさで、関連を理解することが出来る。
関連をよりよく理解させるためには、被写体とのある程度濃い関係性が必要となる。
私は、この濃い関係性が、どうも押し付けがましくて忌避していた面があるのだが、「ぶしゅ」とか「スーっ」といった自分の思想や観念、経験から発する感覚による関連では、逆に他者を遠ざけながら自己完結しているところが出てきているように感じる。

どうも上手く、まとめられていない。
とりあえず、気持ちのいい日が続いているので、土日あたりにカメラを握ろうと思う。
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by stoneroses8010 | 2006-04-05 22:46 | 我思ふ


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