確証はない。それを信じるしかない。

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2006年 05月 20日

結婚式というイベントを経て

知人の結婚式、披露宴に参加。二次会は幹事という長い一日を過ごす。

結婚とはおめでたいことではあるし、幸せになってほしいと思う。それは無条件に思うのだが、結婚式はともかく、披露宴はなにかうそ臭さを感じてしまう。なぜだろう。

司会の言葉は当事者である二人を特別視させるためにある。
コトバによって、二人の過去が明るみにされ、メディアで味付けしながら、それは誇張される。そして、結ばれることがさも運命付けられたかのような誇張。
関係者の祝辞はいいとこ取りの言葉で、「優秀な」二人は「幸せ」な家庭を持つだろうと核心で締めくくられる。形式化したそれは、親族を除く他の参加者には伝わらずはやく終わってくれと願うばかり。
他の参加者は、「お幸せに」ウソか本当かわからないことを言いつつ、料理に目を白黒させる。

どう取り繕われても、主役の二人の過去や今日という日が第三者には内面化されないのである。だから、リアリティがない。「本当に二人が夫婦になるの?まあ、式挙げるからそうなんだろう。」と言い聞かせる。というよりも、それ以上考える必要性がない。
まだ、「いやー、昨日実は○○しちゃってさ」とか「今日、頭痛いわ」というなんともない話題のほうが、なぜかリアルだ。

祝事であるし、夫婦になることはまぎれもない事実なんだろうけど、なぜかリアルでない。それが、矛盾している。外見とは曖昧なものだ。編集された言葉と形式化した空間がそれを助長させる。

逆に葬式はリアルだ。あげられるお経、黒い参列者、悲しむという取り繕いようのないストレートな感情、そして、自分に内面化される死。

が、最近葬儀も競馬葬とか、生前の趣味などを反映させた葬儀を行う葬儀屋もいるとか。そういったものを目の当たりにしたらどうなるのだろう。その死すらうそ臭くなるのか。
そうはならないと思うが。
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by stoneroses8010 | 2006-05-20 23:53 | 我思ふ


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