2006年 07月 23日

撮る個人的動機とはなにか

中間発表のレジメがまだできない。
しかし、今日は行かなければならないところがあるのです。NPOがやっている合評に写真をもって行く。ギャラリストの方がコメントを付け加える。
そこで言われたのは、そのモチーフに対する個人的動機についてだ。
なぜそれを撮るのかという動機は存在する。私がそれを論じても一般的だとおっしゃられていたのだが、どこがどう一般論なのかわからなかった。そもそも個人的動機というもとはなんなのか。「幼少のころに、実はそれを使ってました」とか、「実はそこにずっと住んでいて」といった実体験に基づいたことなのか。必要なのだろうか。
私は必要ないと感じる。「なぜ」というアプローチとモチーフに対する自分のイメージを説明することは必要だ。しかし、その動機が個人的な嗜好を踏まえなければならない必要性はないと思う。
長い間やり取りするも話し合いつかず。

写真家の柴田敏雄氏が午後から来てくれた。自分の作品やテーマに対するアプローチについて語る。
留学後、海外で撮っていたものに対して、何を見てもおもしろくなく、何を見てもおもしろくなかったという意識があったという。それに対して、自分の国とは一体何かということを考えるようになる。
帰国後の1970年代の日本の都市は、「ごちゃごちゃした不特定の世界」だったという。つまり、すでにグローバルな流れが都市を対流させ、どこにいても似たような均質化があったものと思える。しかしそれに対して、「特定させることができる」「写真のなかに存在する世界」があるという。

そこで、柴田氏は、山などの自然に取り残されコンクリで固められた道路沿いにある山に出会う。それはデザインされなかった余分なもの。日本では土が軟質なので、そのままでは崩れてしまうから、コンクリで固める必要があるという。
日本の軟質の土、雨量の多い天候、それは日本の特徴であるらしく、人間が山と共存するために、自然のなかにも、コンクリで固められた物質(がけ崩れを防ぐ壁)がある。
自然のなかに存在するダムという人工物なども含め、それが自国の特殊性と言っていたように思う。
その後、海外でもダムなどを撮り始め、ダムや自然の中に存在するコンクリの人工物を撮る事が彼の代名詞になりつつある。

ん。なんかおかしい。
自国のアイデンティティとは(自分の留学経験)⇒日本の特性(気候、地質)⇒ダム
という流れなのに、海外で撮ったら、それは動機として成立するのか。

その後、一緒に飲む機会があったので、写真のテーマと動機についてとことん突いてみた。
彼によると、日本的な動機は当初はあったが、今はそうではなく、ダムと言うニッチなビジュアルに対して、感覚が引っ張られているという。
動機はどうなったのか。午後の語りでは、日本的特質の追求のほかに、現実と異なるイメージの世界があり、それをモノクロで提示したかった(モノクロはそれを助長させる)という違った動機も存在していた。
当初の個人的動機とも言える日本的特質の追求はどうなったのかというと、もうそういったものはないという。

つまり、動機はいくつにも存在し、それは撮る取っ掛かりになるが、ビジュアルで引っ張られたモチーフを撮り続けることで、動機は変化していくものだということである。
そうなると、海外でもダムを撮り続けるアプローチは納得いく。

ここまで来ると、全面的に柴田氏を支持するのであれば、私がギャラリストに言われたモチーフに対する個人的動機の必要性はなくとも全然不思議ではない。
(いや、個人的動機が全く存在しないことはなく、それは潜在化しているかもしれない)


「自信を持つより、足りないところを探す」か。オシムに感謝。




①場所を借りて自分の作品を作り上げるスタンスから写真はアートディレクションでもあるという
②バイテン使いながらも、撮影時間は長い必要ないとのこと。
③すべては撮り尽くされている。しかし、隙間は存在する。それをじわじわやっていく冗長性こそ必要
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by stoneroses8010 | 2006-07-23 23:55 | photo


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