2007年 01月 19日

コミカル&シニカル

シゴト帰りに写真展へ
「コミカル&シニカル 韓国と日本の現代写真/二人の女性のディレクターから見た一側面」
ここのディレクターの方には、写真のクラスでもお世話になっている。
ドーンセンターにある地下プールを使って、日韓16名の作家が写真、映像を展示している。
プールのタイルの色や模様がうるさくなく、写真展示を少し工夫すれば、こうも展示向きの空間になるのかと驚いた。また、通常の写真展なら、自分の立っている位置より下に写真が展示されていることなんてないのだが、それをプールの底を使うことによって、写真を見下ろし、作品と観ている自分との距離が十分にとれることは新鮮だった。
ランダムに展示されているように見えるが、動線は配慮されている。

波惹の「母のファッション 母の夢を見つける」が力強かった。ファッションモデルになりたがっていた母にモデルのような様々な姿をさせ、娘がそれを撮るというもの。
時間が刻み付けた身体の現実があったとしても、母の想いはそのままで、その毅然というべきか、想いをぶつけるようなオーラを娘は、尊敬の念で受け止めるかのように撮る。そこには、親子というだけでなく、撮るものと撮られるもの互いを認め合った関係性がある。
細江英公が写真は被写体との関係性といったことを思い出した。

盧順澤の「the strange ball」は、ある地域の平原(田んぼ)に立つ在韓米軍の軍用施設である「ボール」(本当に見た目、真っ白いボール)とその周辺に住む住民の生活を撮ったもの。
「ボール」を軸として、人々がどう営みを続けているのかをフィールドワークのように撮っている。そこには、韓国に米軍が存在する政治性や軍用施設(殺人)と隣合せで生活(活人)せざる得ないことの疑義の訴えを感じる。モノクロで撮っているので、ビジュアル的な対比も目を引く。

日本人では、浅田政志の「浅田家」が面白かった。家族で、ロックバンド、ガソリンスタンド、選挙活動、やくざなど様々な役を演じて家族全員出演の「家族写真」を撮る。
職業を演じるよりも、家族で作品を紡ぎだすプロセスの偉大さの勝利。モデルそろえて、形決めて、撮るということからは見えてこない「家族」という現実の関係性があるからこそ、コスプレが引き立つ。

大雑把なくくりだけど、日本の作家は他の視覚芸術との融合や、コンセプチュアルな立場、パワー系のスナップの系譜を引くものなどが目立つが、韓国の作家は、よく自分の国の文化事情や風土の歴史的文脈を考え、それに対する提案を行なっているような気がした。
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by stoneroses8010 | 2007-01-19 22:46 | photo


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