確証はない。それを信じるしかない。

meetsall.exblog.jp
ブログトップ
2007年 04月 15日

違いを知り、動くことあるのみ

人の立ち位置の目線によって、面白さというものが、伝わる。
たとえば、身長の低い人の目線のオリジナリティ、高い人のオリジナリティ。
つまり、辺にあおったりするのではなく、その人のオリジナルの目線(?)が重要。

どのようなモチーフにおいても、線をきっちりしていることが大事。それは、顔ならば、目のライン、鼻のラインがきっちり通っているということ。

提示する写真に対して、共感するか、違和感を感じるかどちらか、または面白いと共感させること。写真作家は、自分だけが面白いとする視点の提示でなく、それを説明することが必要。

上記は、今日の飲みいったカメラマンの友人が言っていたコトバ。それなりにデカイシゴトをしているらしく、色々写真について語っていた。自分のなかで半分共感できたり、半分違和感を感じたり。

「面白い」ってコトバの意味がよくわからなかったけど、ようはシゴトとしてやっていくには、クライアントにどう共感してもらえるかが重要なわけでその意味でのクライアントが「面白い」と共感してもらえるもののことを言うのかなと勝手に思っていた。

共感させるか違和感を提示するかは、そのどちらかを提示することしか表現をやっている意味がないわけで、その二者択一の提示はどうかと思った。自分はどう思っているのかと考えた時、皆の既存の知覚で共感してもらうというのは、もうみんなわかっていることなんで、それよりも表現として成立させるには、彼のいう「違和感」が適当だと思う。それは「違和感」というよりも、見えなかったものの可視性であって、それを提示したときに生まれる今までの知覚をブレさせることであろうと思う。
それは見たら伝わるもので、説明すべきといっていたけど、説明したら、写真としての表現の意味がないと思った。まあ、それは作家がなんかを撮れば、すべてまかり通ってしまうネームバリューの抵抗感が見え隠れしたりしたんだけど。

線のきっちりというのは、なんか響いた。一見凝っているアングルやつくりに見えても、何が表現されているか根本が見えないとそれが写真や絵画であれ、ただ凝っているだけで、なにも伝わってこないと思う。モンドリアンなんかは、突き詰めて線の表現になったけど、それは、物事の必要最低限の構造を露呈したスタンスであり、そこから様々な空間を想起させる。

あと、かなりビジュアライズ優先的な発言が多かった。(つまりはコンセプト不要論)それで面白いと言わせたら勝ちという考えである。商売としてはそうなんだろうと思った。けど、幸い私は商売としていないので、ビジュアライズで写真をやっていたら、すでに辞めていたと思う。自分が何を考え、どう捉え、何を伝えたいのか、それを写真で表現し、第三者に見せる。それが写真による身体性と思っているからだ。その後のビジュアライズという手段であって、私の場合それが先んじると本末転倒もいいところになってしまう。

なんにせよ、彼は自己の思想をもって、それで地位をもち、身を立てているのであるから、賞賛に値する。彼と私の違い、それはどれが間違っているとかではなく、あくまで「違い」である。評価なんて時代が決める。
私はその場で反論はしなかった。すれば、互いに不快になりそうだったから。というよりも、一人が考える程度はしれているので、彼からなんか色々吸収したほうが得策だと思ったからだ。
議論を交わすことも時には必要だけど、それよりも今はどんな小さなことでもヒントはもらう。
そして、自分がそれに対しどう思っているかをそのあと考える。時間が無いので、余計なことを省いてショートカットで思考しよう。

なんでこういった展開になったかというと、九州に住んでいる友人が関西にやってきたからだ。そのため、大学時代の友人集めて飲み会をする。
まあ、皆それなり、結婚したり、仕事に勤しんだりしているので、悲喜こもごもの話をする。自分の仕事観と友人の仕事観の相違がわかって、まだ自分の仕事観はコドモかもと思ったり。まあ、それが何か?って感じですが。

さらに、その会よりも前、一緒に参加する友人と事前に待ち合わせして、色々話す。
彼女も自分のフィールドでいろいろ動いており、自分のアイディアでデカイところ相手にプレゼン仕掛ける様子。うーん、残業だのなんだので止まってられない。人を賛美したり、コケ下ろしたり、自分のなんともならん状況を卑下する前に、自分でまず、動いてみよう。
[PR]

by stoneroses8010 | 2007-04-15 01:01 | 我思ふ


<< 視点      杉本博司、都市学 >>