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2007年 11月 04日

犯さん哉 ルイス・ボルツ

今週末の金曜。淡路島で園芸の勉強をしている友人が再び仕事場に訪問してくれた。
本当に律儀なヤツである。仕事をすぐ切り上げて、いったん自宅に戻り、友人と先輩と待ち合わせて、カフェで談。その友人の後輩も仕事をやめて、同じ学校で園芸をやるために淡路島へ渡るそうだ。ブームなのか、淡路島。

土曜は友人と観劇「犯さん哉」作・演出ケラリーノ・サンドロビッチ
まったくコントに近い感じだった。でも好きです、こういうテイスト。笑いに走りながらも、「お笑い」と違う。カーテンコールでケラが出てきたのはちょっとびっくりした。客席にもおーっと歓声。なんだか儲けた気がした。
大倉孝二はホントに素敵な役者だなぁと思う。友達に欲しいぐらい。
その後は、カフェで談。楽しいひと時でした。

今日は写真のクラスへ。
先月大判で撮ったものを皿現像する。これってタンクの攪拌現像よりラクやなぁ。ただ手を液体につけっぱなしだから冬になるとキツイだろな。教えてもらった写真家の方は、ハンガーを使って、手を使わずにやってるそうだ。なるほど。
自分自身のポートレートを大判でクラスメートに撮ってもらっていたのでそのネガをもらう。遺影にちょうどいい。
そう喜んでいると、先生に君はまだ事を成していないのに遺影?といい感じでプレッシャをかけられた。
それはさておき、遺影ぐらいは自分で撮り、プリントしておきたいとホントに思う。それが自分の最後の写真であり、葬式は他者と写真でコミュニケートする最後の場であると思っているからだ。

川崎市民ミュージアムの学芸員深川雅文さんの書いた「光のプロジェクト」(青弓社)を最近読み進めている。この方の写真評論は、歴史的な文脈を踏まえ、近年の動向を読み、次代の写真はどうあるのかを丁寧に論説する稀有な方だと思う。感覚的でなければ、学術でもない。写真の見方というものをどう伝えたらいいのかが大きな活動のテーマにあるのでは?と思えるぐらいだ。そのなかでルイス・ボルツのシリーズを取り上げて、ボルツの活動を通じて、人が風景を写真として撮るという風景との向き合い方に変化をもらしたことを述べている。
(以下、引用)P196
「この新たな傾向の風景表現は、作者と対象の単純な二項対立の上に成り立つのではない。視覚的な外観と媒体あるいは跳躍台として、見る者の想像力を意識や精神と呼ばれるような表象や思念のより広い領域へと解放し、そこにはたらきかけるイメージの創造こそがその動向が切り開いた表現の豊かな地平なのである。言い換えれば、そこでは、「場」の外観はなにか普遍的なもののシンボルとして作用するものではない。そうではなく、「場」はなにか目に見えないあるものを視覚を通して告げ知らせる「徴候」としての役割を果たしているといえるだろう。」
(引用終わり)

こうしたボルツの写真は、見せることを創造している。以前のエントリでも書いたけど、その視覚を通じて、なにか見えないもの、その風景が存在することの時代、社会、風俗、などなど告発的な意味でなく、空間を取り巻く状況すべての背骨を掴むような何かがある。
だから、最近はボルツの写真集に釘付けである。しかし、それだけでなく、ボルツは写真の展示の方法も面白い。
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by stoneroses8010 | 2007-11-04 23:48 | photo


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