2008年 01月 28日

1月ももう終わりで

年始からの体調不良は、中旬にも来てました。手足の慢性的なしびれ、後頭部のしびれ、嘔吐感、頭痛。辛抱ならず、脳神経外科に。
久々のMRIと頸から肩にかけて七方向からのレントゲン。
幸い脳に異常はなかったので安心でしたが、頸肩腕症候群と診断されました。ちなみに私は人よりも頸部の骨が硬いらしく、頸を上下左右に動かしても、骨が撓らない(要は、ほぼ直線を保ったまま動いている)らしく、人よりも肩や頸の痛みやコリが残る体質らしいです。
基本的に、私は超チキンなので、異常がわかったらすぐ医者にいきます。医者にいかずに我慢している方もおられるようですが、カラダを労わらなかったために、周りの人がどれだけ悲しい想いをするのかを、目の当たりにしてきたものとしては、メンテナンスはしておきたいものですな。

そんな最中に、ナイロン100℃の舞台を観ておく。最近映画すら観れてないので、いい息抜きになった。

作業をしながら、ラジオを聴くことが多いのですが、松任谷由美がMCしている番組でちょっと気になった話があった。とある音楽評論家との対話の中で、今後の音楽界(主にJPOP界を指しているのかと思うけど)は、どうなっていくのかというテーマがあり、そこでその評論家は、もう音楽は売れていかなくなるんじゃないかと言っていた。JPOPは、流行(たとえば、90年代のエイベックスレーベルなど)の音楽を形をかえどんどん生産していき、ひとつのブームをつくり、それをどう持たせていき、消費させていくのかが主流となっている。また、消費者もそのムーブメントの仕組みを理解しており、聴くためでなく、身にまとうために音楽を携帯に、ipodにその他メディアに取り入れ、なんとなく聴いている。
かたや、YouTubeに見られるように簡単にプロでもない人が、音楽を作り自分の作品としてアップロードすることができるようになり、PCソフトでも楽器なくして、自分の音楽を世に発信できることが可能となった。
とすれば、人は、あまり真剣に音楽を聴くという作業が必要なくなっていくんじゃないかということである。自分に「聴かせる音楽」がなく、自分で創れることが可能なら、もう聴く必要がないんじゃないか、それに皆気づき始めているんじゃないかということである。
この真偽はともかくとして、なんとなくアンテナに引っかかった。同じことが写真でも言えるなぁって。
写真でもデジカメはいうに及ばす、Photoshopなどのレタッチソフトの発展、そしてBlogというツールのおかげで、誰もが綺麗に写真を創る事ができ、そして、ネットで世界に発信することができるようになった。それが商売につながっていくとか、写真集が売れなくなるということは置いておいて(もともと日本では写真なんて売れないし)、写真で表現しようとすることとこれらとではなにがどう違うのか。
ちょっと考えたのは、これらのだれもが発信できる写真の意図するベクトルと、それを消費、評価する人間のベクトルに差があるということである。
つまり、これらのツールによる発信はとかく、シークエンスか、ダイジェスト、単体でしか受容できない。とすると、ピース(一枚一枚)のディテイルや強さしか評価軸がない。
(もっとも、小林のりおさんのような明確なコンセプト、デジタル、ネットでやる意味を噛み砕いて表現している人は別だが)
こうしたビジュアル面の評価に重きをもつ場合は、表現というよりも、商業的側面を踏まえた評価にシフトしていく。発信者が、表現を意図としても、こうした発信の方法では、作家としての消費よりも、商業的な消費に向かっていってしまうということである。
(ちょっとわかりにくいなぁ)
その評価軸は、すでに発信者にはわかっている。だから、より当世的な美意識に基づく写真が増えていく(いまのネットや雑誌はほとんどそう見える)
それがいい悪いとかではないけど、写真が向かっていくべき、また向いているフィールドは複数あって、純粋に作品として突き詰めていくもの、あるいは、雑誌など商業ベースに乗っかっていくもの、資料としてのものなどがあって、それに対して、自分がどれに向いているのかを考える必要はあると思う。
いま、自分の写真を見つめなおすことがなく、いっせいに作家のフィールドに多数向かっていく状態にあるから、なんだか飽和状態になっている。

まぁ、まだこの辺は思慮がまだ浅いところもあるからまた、考える。こんなことよく考えるから最近、ベンヤミンの「複製技術時代の芸術作品」を読み返している。

最近は夜から明け方にかけて、試験的に撮っている。3月の展示の分は、ほぼなんとかなりそう。プレスリリースで某有名雑誌で私の写真が使われるらしい。

東京へ学生ばりに夜行バスで向かう。撮影と展示を観に。
展示は、東京国立近代美術館の「わたしいまめまいしたわ」
自己と他者、それをどう作家が捕らえているのか。わたしは絶対的なわたしでありえることはなく、それが自己のなかでも他者とのなかでも錯綜する。
澤田知子、高嶺格、ビルヴィオラ、牛腸茂雄など。

牛腸茂雄の「SELF AND OTHERS」の60点。
牛腸と向き合う他者を撮りつづける。その他者は様々であり、撮っている牛腸との距離感が彼との関係性を想起させる。他者を撮り続けているのだが、そこに牛腸自身の被写体との向き合い方が現れている。最後に子どもたちが牛腸に背を向け霧のなかに向かって走っていくものは、牛腸がなにか人間との関係性から解き放たれたかのような、死をも想起させる昇天のイメージがあり、なんだか熱くなった。

日高理恵子、草間彌生、金明淑を取りまとめたシリーズには、人間の注意をどこかに注意させることで見えないものを感じさせるというキャプションがあった。
このキャプションと作品の関係はともかく、こういったビジュアライズ、コンセプトはこの一年アタマにあって、ちょっと「うわっ」て感じた。

なんにせよ、当たりの展示です。

つづけて、行った東京都庭園美術館の「建築の記憶」展では、畠山直哉さんや杉本博さんの写真があるので期待していたけど。なんというか、展示の仕方がなぁ…。
鈴木理策さんの青森県立美術館の写真はよかったけど。

撮影は朝と夜に行なったけど、もう無理だな。寒すぎる。

帰ってきた後、某写真家の方と談。大判でいかにフィルムをロスしないですむかということや、夜のアオリ、ピントあわせについて、いろいろ聴く。

写真つながりの友人とも会い、いろいろ話す。皆、追い込みなのね。

なんだかんだでもうはやくも2月。
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by stoneroses8010 | 2008-01-28 00:58 | photo


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