2008年 03月 25日

写真の美術・美術の写真 アニー・リーボヴィッツ

長い間、更新をサボり気味。まぁ、いろいろあったというわけで。

大阪市立近代美術館心斎橋展示室で「写真の美術、美術の写真」の担当学芸員による公開レクチャがあったので、それを聴きに行った。もちろん展示も観れたが、それ自体は、あまり驚きもなく。
森村泰昌ややなぎみわの作品に対して、あの展示室小さすぎる。杉本博司の作品も、もったいない置きかたしているなぁと。
さて、レクチャですが、今回の展示の後に続く表現のあり方がどうあってというよりも、学芸員たちはどう見ているのかを知りたくて聴きに来た。
レクチャの内容自体は、1930年代からの世界、日本の写真のあり方をスライドを観ながら進む。ストレートフォトグラフィ、シュルレアリズム、ジャーナリズム、フィールドワーク的作品云々。まぁ、このあたりは置いておくとして、1990年代以降、どう見ているのという話だ。
学芸員の方が言うには、デジタル系メディアにより通信が容易となって、参加型、レポート型のプロジェクト作品。現代美術と映像と写真の境界があいまいとなって、写真から「創る」作品。そして、ストレートフォトグラフィ(森山大道など)の逆襲などと大別されるとのこと。
ここで、印象的なのは、たとえば、澤田知子の、撮るという行為とできたものだけでなく、コスプレをすることにある行為に意味を持たせ、そしてそれをなぜ撮るのかということまで深く入り込んで、写真を撮る(この場合は、写真を撮らせるだが)という作品のように、つくる、撮る、撮らせるという行為自体に意味を含ませる「創り」、身体行為自体が作品として成立しつつあるということである。
他の作家では、撮ったものを描いて、それを撮って、またそれを描いてと繰り替えし、ビジョンの差異を見せるものもある。その作品自体のビジュアルの関係性もあるが、ビジュアルが生まれでた行為すらも見せることができる、意味を持たせる作品も写真としてある。

その学芸員の方は、安村崇さんの作品を観ては「気持ち悪いけどいい」と表現するように、「気持ち悪いけど」とよく使っていたように思う。それがいい悪いじゃなく、学芸員として観る側の率直なコトバだろう。それが妙にアタマに残った。

あと、和田問題にかかる杉本博司さんの話もあったけど、各ブログで既出なんで置いておく。

次。
映画「アニー・リーボビッツ レンズの向こう側の人生」を観る。写真家 アニー・リーボビッツのドキュメンタリ。
被写体の世界に入り込む若き時代。要は被写体と深い関係性を持つぐらい参与し。リーボビッツ自身の個のドキュメンタリとして撮って行くこと。
記録に徹し始めた「地に足のついた」その次の時代。戦地サラエボや家族を見つめる。
敬愛するスーザン・ゾンダグに対する親愛なる眼差しとその喪失感の表現。
仕事としての商業写真。
彼女は、その場でその被写体の何を撮りたいのか、それをどう受け入れ、どう表現をするのかということにすごく忠実だ。
そして、記録系はともかく、(商業写真は顕著だが)アンダーにして、硬く、色のりも重い写真が多いなと思った。写実はちがって、イメージをどう平面にのせていくのかということ。自分が被写体のこの部分を撮りたいということであれば、それをわかりやすく見せる。

次。
東京へ。狙いは撮影ももちろんだが、川崎市民ミュージアム、森美術館、東京都現代美術館。表参道のgallery white room tokyo、ギャラリー冬青。(続く)
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by stoneroses8010 | 2008-03-25 23:00 | photo


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