2008年 05月 04日

見るということ

まぁ、年度替りというのはいろいろあるもので、そしてやっかいなもので。

この時期は、シゴトがやはり混んでまして、それなりにやられながらも前進です。
公募も募集が多いのがこの時期で、創りながら仕上げながらを繰り返す。
4月末の土曜は、午前中にシゴトして、午後から作品の上がりをチェックして、発送。いったん家に戻って着替えて、大学の先輩の結婚式の二次会に行くというなんとも忙しい日であった。

今年度は、とあるギャラリストの方に写真を観てもらうことになった。いい加減早く打って出たいのだけど、その方は最初がいかに肝心であるかを説く。
確かに、最初に確たるスタイルを持つ場合は、ほぼ一生それを繰り返して、世を渡っていくことが出来る。石内都さんとか金村修さんとかもそうだ。しかし、焦る。いよいよ正念場か。

この間、竹内万里子さんのレクチャを聞いた。大変面白かった。
どんな話かというとまずは「見る」ということについて。
「見る」とは「目」というハードを使って、脳というソフトで変換することによって、「見る」が成立しているということ。
つまり、人間は見たいというものしか見ず、たとえ「目」というハードでものを見ていたとしても(科学的に可視であったとしても)、脳で変換されないと「見る」ということにならない。
人間は、経験、環境によっても影響を受ける「脳」の働きが「見る」ということと相関的と言える。

写真は、平面に落とされたとき、すべてが可視となって現れる。しかし、ものを見て撮ったときは、そのすべてを見ているわけでない。ここで「見る」と写真を「見る」ということには大きなズレがある。
人間の「見る」ものが、脳の選別によって振り分けられるなら、すべてを露わにする写真は、「見たいもの」からの逸脱といえる。

竹内さんはブレッソンの「目と心と頭の照準を合わせて撮る」というコトバを出して、目はフォルムを見るということ、頭は知識、心は共鳴。そのすべての照準を合わせて撮ることが、いまやなんでもかんでも映ってしまう写真と「よい写真」との差異ではないかと言っていた(ように思う)。同感である。

加えて、私は「見る」ということについて、同然だが、構造的にもカメラとフィジカルの「目」というのは差異があると思う。
目で「見る」というのは、ある部分にしか注意していないが、どこか感じている部分があるものだとも思っている。(つまり、すべてがはっきりと同時に見えているわけじゃない)
カメラは、注意している一点だけでなく、その周辺すべてをシャープにさせ、リアルタイムで「見たもの」とのズレがある。
そんなことを考えていた。

そのレクチャの後、写真のクラスで飲み。
[PR]

by stoneroses8010 | 2008-05-04 22:37 | photo


<< 飲んで飲んで      プロセッサが遠のく >>