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2005年 02月 17日

デジハリ大学化から、美への思考を叫ぶ


こっちのBlogでデジタルコンテンツ業界についての面白いレポートがある。ここでは、デジタルハリウッドの大学化をテーマとして、現在のデジタル専門学校のあり方やら、その業界でのデジタルクリエータの実態やらをレポートしている。ここのBlogでは論点が沢山ありすぎるので、デジタルハリウッド大学(以下、デジハリ)は大学で見られる基礎研究を重視していない(その手の研究室を設置しない)ことに特化して少し考察してみたい。

まず、デジハリが大学化することについてのメリットは、デジハリやそれに通う生徒のステータスアップに他ならない。デジハリ側は業界に人材をより多く送り込み、同業の専門学校もしくは大学との生徒獲得競争の勝ち抜きやデジタルコンテンツ業界に対して優秀な人材供給先であるという信用の獲得を狙う。通学する生徒にとっても、デジハリの大学化は、卒業することで大学卒業資格を取得できるし、また大学卒業見込み者としてより多くの就職先選別の可能性が期待できる。ここで重視されているのはなんとかして業界との結びつきを強くしたいということだ。

しかし、そうならば、先ほど述べた基礎研究の省略はマイナスとなるだろう。
なぜか。昔から、デジタル、デザイン系専門学校生と基礎研究を習得してきた理系、美大系の学生との比較や就労後のあり方はネットでも論じられてきたのだ。そこで、結論として、やはり理系、美大系出身者にはかなわないと結ばれる。同感である。両者では、各々の分野に対する思考や表現技術鍛錬の時間、深さが違いすぎるのだ。美大生は入学のために表現技術を鍛錬するし、入学後も各々で美に対して試行錯誤を基礎研究の中で繰り返す。理系についても同様だ。「大学進学に興味を示さない生徒」がいきなり、クリエーターやデザイナーになる!と言い出すのとは次元が違うのだ。(無論これには個人差が当然あるし、すべての優劣をつけるものではない。)

「自分の個性を表現できる」というのは、こうした思考の熟成や技術鍛錬の失敗の繰り返しのもとで成り立つ。上面の業界の顔色を伺った専門学校で教える「コンセプトの組み立て方」などは歯が立たないと言っていいのではないかと思う。業界はそうした「自分の個性を表現できる」人間が欲しいのであって、舗装された道を歩いてきた人間はいらない。

さて、こういったことはすでに暗黙知としてすでに成立しているはずなのだが、デジハリではそれを重要視してないようだ。デジタル業界を見続けそれに応じた学校づくりを進めている。この先どうなるかは経過を見てみないとわからないが、ただ言えることは、メディアリテラシーが進み、テクノロジーが進化し誰もがPCに触れることができ様々な表現ができるようになった今、ソフト頼みの小手先の「手品」は通用しないということだ。
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by stoneroses8010 | 2005-02-17 23:36 | Blog関連
2005年 02月 16日

プチ権力者について

内田さんのBlogでこんなエントリを見つける。
芸術活動と行政がコミットメントすることで芸術活動と行政のパイプ役になる人間が、行政の事業やそれに関連した施設運営に対しても、芸術活動に対してもある一定の権力を持ちつづける。

個人的な経験から、ここで述べられているプチ権力者についても、そしてそれに対する内田さんの嫌悪感も理解できる。

では、なぜこのプチ権力者が影響力を持ち続けることができるか。
それは、行政とプチ権力者のギブアンドテイクの関係を考えればわかる。プチ権力者はたいてい、その分野(芸術、スポーツ、教育などなど)の市民団体やNPOに顔が利く者が多く、それを束ねる立場にあるものもいる。行政は事業や施設の諮問機関に彼らを委員として行政に参画させる、またはプチ権力者の属する団体に事業や施設に対する既得権を暗黙に保証する代わりに、その分野の市民の任意団体との意見調整を暗黙にプチ権力者との協力によって行うことができる。また、プチ権力者がその分野の専門家であれば、事業や施設運営のアドバイザー、もしくは講師などで活躍してもらうこともできる。こうして行政は、「市民に開かれた」事業、施設運営を担保することができるし、安価で人材をストックすることもできるというわけだ。

しかし、こうしたプチ権力者と行政との関係は、今後の市民参画の事業に違和感を与えることになりうる。近年では、芸術の分野においても、行政の主催のもと、公立の施設などを使って観る人間と造る人間の壁を取っ払って芸術環境創造の事業をしようという動きが多い。この動きの中でプチ権力者とその周辺が特権化すると、素直に創造事業に参加したい、またはサポートしたいという市民は、その業界について何も知らないために、もうすでにできあがってしまっている人間関係や組織、その業界にいる人間しか理解できない専門用語などに居場所を失い離れていってしまうことが考えられる。酷な言い方をすれば内輪だけで盛り上がっている排他的な雰囲気である。(あるBlogではこういった組織の人間たちを「プロ市民」と表現していた)。また、意見交換や価値観も均質化しているので予定調和の事業生産に結びつくことにもなりかねない。

これは、観る人間と造る人間の壁を取っ払いお互いがその立場を体験し合う双方向性の流れや、様々な人間が交じり合い、異なった価値観から生まれる意見や考えをぶつけ合う対話の弊害になりはしないだろうか。そういった環境が用意されてこそ、市民による事業と呼べるだろうし、芸術に関していえば、平田オリザのいう「芸術の公共性」につながっていくと思えるのに。
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by stoneroses8010 | 2005-02-16 21:27 | Blog関連
2005年 02月 01日

読み手になりつつある今日このごろ。

いやー、最近大学教員のBlogを読みふけてしまい、すっかり自分のblogの更新を忘れがちになる。とりあえず、今、目を通しているのは、こちら。ただいま、都立大の廃校とそれに替わる首都大学東京の設立に関する話題が展開されている。それに応じて こちらのblogにも首都大学に対する一つの論説がある。現在は「公立大学民業圧迫論」がエントリされ、興味深く読んでいる。

もう一つはこちら
京都でアーツマネージメントを教えておられる方で、あちこちでのアーツの現場の体験を綴っている。こういえば、芸術の敷居を低くすることとは逆になってしまうな気もするのだが、個人的に「美」というものは身銭きって、痛い目に多少あうことで目を肥やし、思考するものだと思っている。ここでは、様々な著者の体験が一つの思考につながっていく様が少し見えるようなので、じっくり読ませてもらっている。
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by stoneroses8010 | 2005-02-01 21:27 | Blog関連