確証はない。それを信じるしかない。

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2005年 08月 21日

cave

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by stoneroses8010 | 2005-08-21 23:10 | photo
2005年 08月 19日

suffering

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by stoneroses8010 | 2005-08-19 23:57 | photo
2005年 08月 14日

Green day

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by stoneroses8010 | 2005-08-14 16:10 | photo
2005年 07月 18日

remaining

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by stoneroses8010 | 2005-07-18 01:22 | photo
2005年 07月 09日

wander

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by stoneroses8010 | 2005-07-09 21:22 | photo
2005年 05月 12日

シャッターを切ることについての考察

ついこの間、フラフラ写真を撮りながら考えたことについて少々・・・。

毎度のことながら何度シャッターを切っても納得がいかないと思っていたその時、そもそもシャッターを切るとはどういうことなのだろうと問いを立てた。
厳密に言えば、ある被写体に対して、カメラを構えた時、それを撮らないという選択肢も十分にありえる。構えたら最後、シャッターを100%の確率で切るとはならないハズ。
ならば、その切ること、切らないこととは一体なんなのだろうかということである。
まず、私が考えたのは、シャッターを切るという行動は、潜在的であれ、意識的であれ、構えるところからシャッターを切るまでの動作の間に無数の「何故」という自問自答によるものだということである。
「何故」というその後ろには「(何故)この角度で撮るのか」「(何故)これに惹かれたのか」「(何故)この距離感なのか」など様々な問いとその解答が続く。解答が導かれるまでに撮る人は構図を変えたり、露出を考慮したりする。今まで自分が撮ってきたもの、テーマを思い出すこともあるだろう。その自問自答と記憶のデータベースとの照合により、自分がシャッターを切ることを許可するのである。問いが無数というのは個人差によるものである。問いが多ければ、より多くの思考をしたことになるが、それが自分の思いを表現できることにつながることに直結するものではない。

また、シャッターを切るということは思考によるものだけでもない。今まで自分が見て素晴らしいと感じたモノ、空間、時間がシャッターを切ろうとする動作の間にフラッシュバックのように体内に駆け巡ることもある。経験があまりないのに、(少なくとも私が驚くぐらいの)完成度の高い写真を撮る人間がいる。「センスで撮っている」と言われるのだが、その評価に全面的に私は賛同できない。おそらく、ここでいう無数の「問い」とそれに対する解答が無意識に、そして驚くぐらいのスピードで「センスで撮る」と評される人間の中で完了したものであり、それに加えて、この非言語的フラッシュバックの活動領域が思考領域の活動を本人に認知させないぐらい体内で包括的に膨張し体外に表出した結果と私は考える。

その思考による自問自答は千変万化する。自分の見てきたモノ、体験した空間が同一であることはない。その過程を経て、シャッターを切るという動作とそれから生じる写真も常に変化する。他人には、まったくその変化を感じてもらえないこともある。「撮っているものが変わっていない」と指摘されるわけだが、その評価は素直に受け止めるしかない。しかし、それは結果である。自問自答と体内を駆け巡るビジュアル、空間、時間のフラッシュバックの対流が止まらない、あるいは止めない限り常に自分がシャッターを切るという動作に内的変化がある。仕上がる写真も変化していると思ってもいい。他人の受け止め方と評価は、普遍性を伴うものではない。

シャッターを切るというのは、被写体に対して自問自答とフラッシュバックがパズルのピースのようにマッチングした自分の内的整合性のとれた結果伴う動作であると私は思う。
自問自答というピースは、さらに無数の何故いう問いで構成され、フラッシュバックというピースには時間、空間、ビジュアルといったもので構成されている。思考かフラッシュバックかどちらが幅を利かすかは個人によるものである。トレードオフの関係にあるわけではない。おそらく、まだ違う要素(ピース)がシャッターを切るという動作にあるのかもしれない。
因みにその動作から外部の評価、市場に対しても(外的)整合性を獲得しようと努力するのはプロを呼ばれる人の仕事であると思う。
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by stoneroses8010 | 2005-05-12 22:33 | photo
2005年 05月 05日

カメラ片手に・・・

朝からカメラを片手に外に出る。行き先は特に決めてない。が、夕方から映画を観ることは決めていたので、ひとまず梅田に向かってチケットを入手することにする。土日は整理券配布の劇場が多く、早めにチケットを確保しておく必要がある。配布された整理券番号30番以上になると観る気をなくすためでもある。整理券を入手した後、梅田から四ツ橋筋を南下して、あてもなくカメラを構えながらフラフラ歩く。

c0017549_2128341.jpg40枚ほど撮ったら昼過ぎになったため、北堀江のカフェに入る。このあたりに来ると人が多く、空いている場所を探すのに苦労した。これからどこへ行って撮ろうかと思案しているうちに、なんだか海が見たくなってきたので、大阪港に向かう。
アーツアポリアの築港赤レンガ倉庫に向かうが何もやってないみたいだ。隣のCASOに入り、展示を鑑賞。今日は鑑賞モードでなく、撮影モードになっているため、頭が切り替わらず上手く展示作品を消化できない。その後、天保山ミュージアムに入り、アンドレ・ケルテスの図録を衝動買いし、大阪港をしばし眺める。それにしても人が多いし暑い。
映画の上映時間が気になり始める時間になったので、梅田に戻る。

なお、ある程度真剣に撮ったものは、モノクロ(NEOPAN ACROS)を使用した。現像したものをBlogにUPするかどうかはデキによるものとする。
あー、一眼レフデジカメが欲しくなってきた・・・。
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by stoneroses8010 | 2005-05-05 16:35 | photo
2005年 05月 01日

toward

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by stoneroses8010 | 2005-05-01 23:01 | photo
2005年 04月 24日

アンドレ・ケルテス再考

午前中は雑務。午後の数時間が最近もっともゆっくりと時間が流れているような気がする。これも今のうちだけかも。少しのんびりした後、買う前に目を通しておきたい書籍があったので、地元の図書館に向かう。

目当ての書籍を借りることができたのだが、ふとアンドレ・ケルテスの写真集が目に止まったので、手に取る。一つ一つの彼の作品を目にしながら、そういや、写真を始めたころ、目標としていたのは彼の作品に見られる無駄のなさだったなと思い出す。年を重ねるごとに、多くのものを目にするようになってから彼の作品に物足りなさを感じ、もっと感情表現の強いものに憧れるようになった。それからしばらくは、彼の作品を目にすることはなかった。
しかし、今こうして見ると、あの時とはまたちがった印象を受ける。抽象的な被写体の捉え方は、くどいメッセージ性を排除し徹底した記録を感じさせる。しかし、面白みがないわけでなく、ちょっとした工夫でその場の空気を感じさせるように心がけてある。それは読み手のことを配慮しながら書いてあるBlogのようと言えば、そんな的外れでないかも。いや、洗練された日常空間のオプティカルデザインと言いたい。などなど。
自分の中で学生時代の回顧と何かを発見したときのような興奮が渦巻き、なんだかわからない心的状況になっていた。

その後は、スタバでカフェモカshortとマシュマロチョコレートクッキーをオーダーして読書。
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by stoneroses8010 | 2005-04-24 22:24 | photo
2005年 02月 14日

とある一枚

c0017549_2394652.jpgバレンタインデーのせいでしょうか。カウント数があまり伸びません。

とある港での一枚。画面中央部の何重にもなった手すりに見える黒い点々は、南京錠。カップルが「二人が決して離れることがないように」と願いを込めて、そこに施錠するらしいです。
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by stoneroses8010 | 2005-02-14 23:18 | photo