確証はない。それを信じるしかない。

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2009年 11月 08日

つながっていけ、どこまでも

一つの石が波紋となってどこまでも、広がるような。
一つの星の輝きが他の星を照らすような。
編む込むことに方向性があるんじゃなく、
そうやってつながっていく。
終着点なんかありゃしない。

それを探っていく六道輪廻のような旅。

150年先のことを考える。
写真が誕生して、150年で、何を撮るということは
手元に落ちて、手品があふれ出した。

150年後はどうなるだろう。
シャッターすら目に内蔵されるかな。
ボタン一つで感覚が同期化されるかな。

そのときに、何が残っていくのだろう。
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by stoneroses8010 | 2009-11-08 23:19 | photo
2009年 10月 29日

ほっとするのは、一瞬でいい。

見つめなおすこと。
反芻すること。
それを怠けてはいけない。
言い訳してはいけない。

ほっとするのは、一瞬でいい。

近々、展示の案内が、またできそうです。今は内緒。
冴えないことも多いけど、なんだかノッてきてもいる。
捨てる神ありゃ、拾う神あり。
今回の件を受けて、ブログのスタイルを変えるかも。

鉱脈をはやく突き詰める。
最近、「欲」というものが、やっとわかってきた。
俗っぽいものじゃなく、純粋な「欲」って、本当に繊細なもんなんだな。

ジャームッシュの「リミッツ・オブ・コントロール」を観た。
謎だらけでも、筋が通る。世の中そんなもの。
映画を観ている人が、なんでもわからなきゃならないと思うのは傲慢だ。
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by stoneroses8010 | 2009-10-29 21:55 | photo
2009年 07月 10日

TOKYO PHOTO2009

http://www.tokyophoto.org/

これは行かねば。
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by stoneroses8010 | 2009-07-10 23:49 | photo
2009年 05月 27日

お知らせ

業務連絡、というかお知らせ。
このたび、作品が「トーキョーワンダーウォール公募2009」に入選しましたので、
ご報告いたします。(入賞かどうかは、まだわかんない)

作品は6月6日~6月28日まで東京都現代美術館で展示される予定です。

ご高覧下さい。
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by stoneroses8010 | 2009-05-27 20:26 | photo
2008年 12月 28日

野口里佳さんのレクチャ イメージについて

今更ながらの11月末日にあった写真家野口里佳さのんレクチャの話。
写真新世紀の審査員もやっているので、その関係で来日。それに合わせうちにも来てもらっていたようだ。

自分のこれまでの作品に対しての解説や試行錯誤をお話しされていた。
その内容はわかりやすく、普段会話するような柔らかさがあった。
なんとなくだが、野口さんの作品全体には、まず知りたいということ、そしてイメージがあって、それにたどりつく行為として写真があるのかと思った。
それにたどり着けなれば方法を変えるし、自分が予期せぬところにたどりつくこともある。

野口さんのおじいさんの話が興味深かった。
おじいさんは毎日縁側で庭を見ていて、過ごしている。その風景は、ほかの人が見たら毎日変わりないように見える。しかし、おじいさんはあるとき、「今日はうちのすずめが来ている」と言ったそうだ。同じように見えるものでも、おじいさんには毎日違う展開が見えているのである。
その場でじっとしていても、絶えずその場は変化し続ける。その場にいることだけで自分だけに見えてくるものがある。
自分だけにこう見えるということ。それを形にするということ。

最近、イメージということをよく考えさせられる。
自分がこう見えていて、全身に感じさせること(視覚から知覚へ。その経験)があって、それを頭の中で考え、見え方を抽出して形とする。
しかし、イメージが強いと、視覚や知覚はそれに影響を受けてしまい、このプロセスの入り口から違ってしまうものにもなる。それは危険でもあり、またとんでもない変化を起こすときもある。

いくつかシリーズを撮っていて、このイメージを強くしたものについては、なぜだか外からの評価がいい。イメージを強くすれば、そのイメージに近い知覚体験をすると体が反射する。その反射で撮ったものは、考えや意識が介在しないので、たまにとんでもないものが撮れたりする。外から受け取った決定的瞬間でもなく、じっくり見すえたコンセプチュアルなものでもなく。

志賀理江子さんなんかはイメージが形として爆発したような写真を撮る人で最新のPHOTOGRAPHICAの記事を読むとイメージのことをさらに深く考えさせられる。
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by stoneroses8010 | 2008-12-28 22:39 | photo
2008年 11月 13日

勝又邦彦さんのレクチャ

今更ながら、9月下旬にあった勝又邦彦さんのレクチャの話。

勝又さんと話ができる。ということで、来られる前から私のテンションはちょい上がっていた。PFも一つ持ってきた。むろん見てもらうために。
勝又さんは、自然の現象(夜やら光やら)をただ、視覚的に見た現象として捉えるのでなく、そういった現象が我々にもたらすものを歴史的に、文化的に捉え、形にする。そして、それを美術史や写真の文脈にどうおくことができるかということを行っている方で、実はファンである。
レクチャの内容も、ただ自分が見たということや自分のなかで自然発生的にでてきた興味をどう概念として捉え、それを写真として形にできるかというものだった。
なんか、わかりにくいけど、感覚をそのまま平面にトレースするってもんじゃないんだよなぁ。そうした感覚や視覚の体験を、どうしてそう見えるのかということを学術のようなアプローチで探っていって、解釈し、美術史のなかに接続しようとしている。(ような気がする)
形ってのは結果であって、それを形として成立させるための思考や作業のディテールに重きを感じた。

私は、技術的な面の話をよく聞いた。大判なのに夜がよくとれますね。それは、蛇腹のコントロールが目視できるときに行うのですよとか
PFに対しては、最初は無言のまま、パラパラとずっと繰り返し見ていただいて、「あれ〜、ちょっと反応薄いなぁ」と思っていたら、これは完成度が高いねとのお言葉、今度展示の機会あれば、教えてくださいとのお言葉をいただいたので、レクチャの後の飲みで名刺交換させていただいた。
私はそのとき、名刺を持ってなかったので、仲間の協力によって急遽手書き名刺を作った。いや〜ありがたいねぇ。

● 写真一枚には、一つの時間が定着している。違う時間違う角度を同一の空間で接続するとどうなるのだろう
● 自然の中には時間の概念がなく、時間は人間が管理するものでしかない。昨日の10:00と今日の10:00はどうちがうのだろう。
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by stoneroses8010 | 2008-11-13 22:07 | photo
2008年 11月 07日

山本昌夫展

ぼちぼち時間も出来始めたので、少しずつ更新。
色々あって、時系列ごとに書くことができればいいのだけれど、そうなってくると後追いの整理に追われているようなので、思い出しつつ、一つずつ書く。
アメリカでもいろいろあったんだけど、時間がなくまとめきれてないので、また後日。

山本昌夫展@Gallery OUT of PLACE
私がmio用の額を探しているときに、相談に乗ってもらった学校のスタッフの方の勧めで行ってみた。その方も言ってたけど、目からウロコの展示方法だった。
大小さまざまなイメージ群(写真)が理解しがたいあるのかどうかもわからない規則性をもって配置(?)されている。
各イメージの隣接する関係性とか色などはなかなか読めないのだが、一つの空間を作り上げることに見事に成功している。
ティルマンスとはまた別の空間。日本的というのだろうか。
大阪府立現代美術センター「gallerism」でも出展するので見たいところ。

現在、個展を見据えてギャラリストの方に写真を見てもらいながら、進めている。時期は未定なれど、最低でも来年の今頃までにはと考えている。

この間、大学時代の後輩の披露宴(?)の二次会で、フリーランスのカメラマンをやっている後輩に久々に会って、色々話した。仕事のことやら撮るということやら。
現場は9割デジタルなので、持っているCP32を譲って欲しいと(強制的に)言ってみるも、そうなると商業カメラマンになるのでそれだけはという。まあ、当然は当然なのだが、考えさせられるものだった。
そのとき、写真仲間のことを思い出す。彼らはかなり自分のつくっているものを世に出そうとすることに精力的で、いつも刺激をうける。
好きなことに向き合い続けることは、悩ましくも楽しい。
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by stoneroses8010 | 2008-11-07 01:12 | photo
2008年 05月 04日

見るということ

まぁ、年度替りというのはいろいろあるもので、そしてやっかいなもので。

この時期は、シゴトがやはり混んでまして、それなりにやられながらも前進です。
公募も募集が多いのがこの時期で、創りながら仕上げながらを繰り返す。
4月末の土曜は、午前中にシゴトして、午後から作品の上がりをチェックして、発送。いったん家に戻って着替えて、大学の先輩の結婚式の二次会に行くというなんとも忙しい日であった。

今年度は、とあるギャラリストの方に写真を観てもらうことになった。いい加減早く打って出たいのだけど、その方は最初がいかに肝心であるかを説く。
確かに、最初に確たるスタイルを持つ場合は、ほぼ一生それを繰り返して、世を渡っていくことが出来る。石内都さんとか金村修さんとかもそうだ。しかし、焦る。いよいよ正念場か。

この間、竹内万里子さんのレクチャを聞いた。大変面白かった。
どんな話かというとまずは「見る」ということについて。
「見る」とは「目」というハードを使って、脳というソフトで変換することによって、「見る」が成立しているということ。
つまり、人間は見たいというものしか見ず、たとえ「目」というハードでものを見ていたとしても(科学的に可視であったとしても)、脳で変換されないと「見る」ということにならない。
人間は、経験、環境によっても影響を受ける「脳」の働きが「見る」ということと相関的と言える。

写真は、平面に落とされたとき、すべてが可視となって現れる。しかし、ものを見て撮ったときは、そのすべてを見ているわけでない。ここで「見る」と写真を「見る」ということには大きなズレがある。
人間の「見る」ものが、脳の選別によって振り分けられるなら、すべてを露わにする写真は、「見たいもの」からの逸脱といえる。

竹内さんはブレッソンの「目と心と頭の照準を合わせて撮る」というコトバを出して、目はフォルムを見るということ、頭は知識、心は共鳴。そのすべての照準を合わせて撮ることが、いまやなんでもかんでも映ってしまう写真と「よい写真」との差異ではないかと言っていた(ように思う)。同感である。

加えて、私は「見る」ということについて、同然だが、構造的にもカメラとフィジカルの「目」というのは差異があると思う。
目で「見る」というのは、ある部分にしか注意していないが、どこか感じている部分があるものだとも思っている。(つまり、すべてがはっきりと同時に見えているわけじゃない)
カメラは、注意している一点だけでなく、その周辺すべてをシャープにさせ、リアルタイムで「見たもの」とのズレがある。
そんなことを考えていた。

そのレクチャの後、写真のクラスで飲み。
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by stoneroses8010 | 2008-05-04 22:37 | photo
2008年 04月 13日

プロセッサが遠のく

写真クラスのパーティ。
映像クラスのコンペ受賞作品などを観たり、自分の作品のプレゼンをしたり。

作品のプレゼンにも慣れてきたもので、どのような時間を与えられても対応できるようになってきた。指導していただいている写真家の方からは、とてもわかりやすかったとのお言葉。
お世話になりました。

その後の、飲みでは、仲間の一人が、ついにカラープリントを自宅で出来るようにすべて買ったとのこと。聴けば、プロセッサを作っているラッキーはケンコーに吸収されたらしく、いまや、カラー引き延ばし機、プロセッサは値段が2,3倍になっているらしい!
要するに、欲しけりゃ作って売ってやるという商売。ぐう。

銀塩。なくなることはないと思うけど、印画紙の販売が中止になることも多く(コダックのエンディラも中止になるとか…)、行く先が不安。
杉本博司さんは、イルフォードが印画紙生産をやめないように、生産ラインを止めずに済む印画紙の量をイルフォードから買っているらしい。

翌日、知り合いのギャラリストの方のギャラリーに、顔見せがてら行ってみる。
そこでは、写真の展示が当然のようにやっていたのだが、興味深かった。
人間の視覚、こう見えるということをいろんな工夫で見せているようなもの。
色、ぼけ、フォーカスがボケていく連続写真。これはこれで、この人にとっての見え方なんだろう。身体感覚。展示の構成が上手く、単体で見せる方法、三枚連続で映像を見ているかのように見せる方法など、よく展示を勉強していると思った。
映像、絵画、写真それらを写真でありながら分けて展示している感じ。
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by stoneroses8010 | 2008-04-13 16:43 | photo
2008年 03月 25日

写真の美術・美術の写真 アニー・リーボヴィッツ

長い間、更新をサボり気味。まぁ、いろいろあったというわけで。

大阪市立近代美術館心斎橋展示室で「写真の美術、美術の写真」の担当学芸員による公開レクチャがあったので、それを聴きに行った。もちろん展示も観れたが、それ自体は、あまり驚きもなく。
森村泰昌ややなぎみわの作品に対して、あの展示室小さすぎる。杉本博司の作品も、もったいない置きかたしているなぁと。
さて、レクチャですが、今回の展示の後に続く表現のあり方がどうあってというよりも、学芸員たちはどう見ているのかを知りたくて聴きに来た。
レクチャの内容自体は、1930年代からの世界、日本の写真のあり方をスライドを観ながら進む。ストレートフォトグラフィ、シュルレアリズム、ジャーナリズム、フィールドワーク的作品云々。まぁ、このあたりは置いておくとして、1990年代以降、どう見ているのという話だ。
学芸員の方が言うには、デジタル系メディアにより通信が容易となって、参加型、レポート型のプロジェクト作品。現代美術と映像と写真の境界があいまいとなって、写真から「創る」作品。そして、ストレートフォトグラフィ(森山大道など)の逆襲などと大別されるとのこと。
ここで、印象的なのは、たとえば、澤田知子の、撮るという行為とできたものだけでなく、コスプレをすることにある行為に意味を持たせ、そしてそれをなぜ撮るのかということまで深く入り込んで、写真を撮る(この場合は、写真を撮らせるだが)という作品のように、つくる、撮る、撮らせるという行為自体に意味を含ませる「創り」、身体行為自体が作品として成立しつつあるということである。
他の作家では、撮ったものを描いて、それを撮って、またそれを描いてと繰り替えし、ビジョンの差異を見せるものもある。その作品自体のビジュアルの関係性もあるが、ビジュアルが生まれでた行為すらも見せることができる、意味を持たせる作品も写真としてある。

その学芸員の方は、安村崇さんの作品を観ては「気持ち悪いけどいい」と表現するように、「気持ち悪いけど」とよく使っていたように思う。それがいい悪いじゃなく、学芸員として観る側の率直なコトバだろう。それが妙にアタマに残った。

あと、和田問題にかかる杉本博司さんの話もあったけど、各ブログで既出なんで置いておく。

次。
映画「アニー・リーボビッツ レンズの向こう側の人生」を観る。写真家 アニー・リーボビッツのドキュメンタリ。
被写体の世界に入り込む若き時代。要は被写体と深い関係性を持つぐらい参与し。リーボビッツ自身の個のドキュメンタリとして撮って行くこと。
記録に徹し始めた「地に足のついた」その次の時代。戦地サラエボや家族を見つめる。
敬愛するスーザン・ゾンダグに対する親愛なる眼差しとその喪失感の表現。
仕事としての商業写真。
彼女は、その場でその被写体の何を撮りたいのか、それをどう受け入れ、どう表現をするのかということにすごく忠実だ。
そして、記録系はともかく、(商業写真は顕著だが)アンダーにして、硬く、色のりも重い写真が多いなと思った。写実はちがって、イメージをどう平面にのせていくのかということ。自分が被写体のこの部分を撮りたいということであれば、それをわかりやすく見せる。

次。
東京へ。狙いは撮影ももちろんだが、川崎市民ミュージアム、森美術館、東京都現代美術館。表参道のgallery white room tokyo、ギャラリー冬青。(続く)
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by stoneroses8010 | 2008-03-25 23:00 | photo