確証はない。それを信じるしかない。

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2008年 03月 10日

ひとまず、区切り

展示がおわりました。
週末は、各方面から多数来ていただいて、色々な意見やアドバイスをいただきました。
自分の見え、身体感覚、アプローチ、痕跡、思考。そのすべてを伝えていこうとするならば、もっとわがままであって、もっと極端であったほうがちょうどいいことがわかった。
そして、それを観てもらう人に(サービス精神と言ったらおかしいけど)、よりわかるように、予備知識ゼロからそれが100に近づくようにするには、自分自身のコンセプト、ビジュアライズ、見せ方を300ほど出すぐらいがいい。
わかっているんだけど、それが実行できてない。

知り合いの写真家の方には、そういった点プラス、人間の目で見せるのではなく、機械の目で見せる系統の作品だから、もっとクオリティを高くしないと…との注文を受け、ギャラリストの方には、これはこれでいいけど、今後はもっとなぜなのかという根源的な問いを突き詰めていく必要性をアドバイスしていただいた。
作家の方には、ルールを作って世界を観るんじゃなく、世界を受け入れる姿勢の重要さを説かれた。
久々に会った大学の先輩からは、空間の使い方をもっと上手く、これじゃもったいないとご指摘を受けた。

どれもこれもありがたいご意見。

最近思うのは、自分の写真で世界をどうこうしてやるとか、ものの見方を変えてやるとか、そんなこと、マジどうでもよくて、それよりも、展示という形態で観てくれる人、あるいは、雑誌やその他の媒体で観てくれるであろう人に、いかに自分の表現をよりわかるように伝えていくかということがすべてのような気がする。
観てもらってなんぼであるので、いま、その場でやるべきことをやることですべてがつながっていくような気がする。

本当に貴重な機会でした。これだからやめられない。
課題も見えた。まだまだ、いける。
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by stoneroses8010 | 2008-03-10 00:21 | photo
2008年 03月 06日

展示中

ちょっとひと段落つきました。ただいま、展示の最中です。

日曜は搬入。実は、搬入、祭りのような雰囲気が好きで普段使わない筋肉酷使したため、終わった後はもうカラダがガタガタ。いい疲労感ではあるんだけども。
前日に本を返すついでに、いつもお世話になっている写真家の方に、今回出す作品のことを少し話したら、「んー、まぁまぁの大きさじゃない」とのこと。
それなりにはしたけど、やはり会場で見ると「まぁまぁ」かも。
まあ、私としては、コンセプトなき大きさはムダにデカイだけなので、計算はしている。

火曜は院の時の友人が見に来てくれて、いろいろお話。自分の作品に対しても、他の作品に対しても、気づかないところを色々指摘してくれて、かなり新鮮だった。
その後も、少しお茶して、いろいろお話。楽しいひと時でした。
別れた後、地理的にも時間的も、「≒草間弥生」が観れる!と思ったので、さっそく映画館へ。
草間弥生のドキュメンタリ。時々、草間弥生が自分の詩を朗読するのだけど、詩の内容が素晴らしくて、目を閉じて聴いていたりした。普段からわかっているハズなのに、彼女の作品の曲線的な部分がやたらと目に付いて、グリッドを好んできた私にとって、グリッドのなかに曲線をくんずほぐれつしながら集約させていくことって単純に面白いなと思った。

水曜。職場で数少ない私はこういうこともしているということを知っている友人らをギャラリーに連れて、仕事帰りに写真を観てもらう。以前も見てもらったことがあるのだけど、今回は以前よりも好感触だった。わかりやすかったというのもあるだろう。
その後、飲み。私自身、久々に飲み。酒で酔う時間がもったいないと思いつつも、たまにはいい。

木曜。大丸ミュージアムで、「20世紀の巨匠」と銘打った展示を観に行った。たいそうだが、要はキャパやアンセル・アダムス、ケルテスら20世紀のメジャーどころの展示。そうとは予想しつつも、やはりプリントが観たくて行った。
最近、思っていたけど、やはり絶対的な白って不要かもと思った。まあ、ごくわずかな部分で絶対的な白はあるんだろうけど、それが目立つのって、少なくもとも今の私にとってはどうなのかなと。エルンスト・ハースのカラーは、今主流の明るく淡いカラーの真逆でそれがなにかものすごく新鮮に見えた。

コトバにする、人と話す、触れる。その場の空気。そのコトバになる前、もしくは後、ただ撮る。そういう身体と一体化したやり方がうらやましく思える半面、なんだか疑問にも思ったりする。私はそういうスタイルじゃないので。けど、それがコンセプトとしても、造形的にもバッチリと決まった時、とてつもない強さがある。
だったら、私はなぜそうしないのだろう。いったい何をしているのだろう。
ただ、その空間に対しての身体感覚、記憶、見え。対峙しているもののアプローチの痕跡、そんなものを機械の目によって再構築をしている。手段は異なれど、多少ベクトルは近いのかもと思ったりもしている。
今回出しているものは、実験的でもあり、反応がすごく楽しい。ある人には「ただの○○じゃん」とその人の視覚経験の中に納まってしまうこともあるだろうけど、それはそれで一つの感想として貴重でもある。
一方で、いやいや、わかりますよと感想を残してくれた全く知らない人もいたりして、今後どうするかを考える上で、重要な時間になりそう。
さらに観に来てくれる人が増える週末が楽しみである。
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by stoneroses8010 | 2008-03-06 23:42 | photo
2008年 02月 22日

嵐の前

昨日、3月展示用の写真を工房に出した。ラボじゃないよ、工房よ、工房。
同時並行で、別のポートフォリオも作っていたので、かなり時間的にも体力的にも金銭的にもムリをしている。
けど、この2日は少しリラックスできる状態にある。(家のことほったらかしで、やること列挙すると頭が痛いんだけど)
下旬からは、3月用のポートフォリオの修正、テスト撮影の続きなどなど。
年度途中で4×5にスイッチしたんだけど、まだまだ技術的に甘さが残るなぁ。

伊藤俊治の「20世紀写真史」
15年以上前からある名著を再び読む。
大学生のころは、一度読んでもあまりアタマに入らなかったが、今は一つ一つの言葉が沁みる。
最近、思うのは身体感覚。
客観視しようと、記録者として外部から主体を眺めようと、感情を排して淡々と記録、または参加しようと「いま-ここ」の身体感覚は無視できない。それは感覚というよりもメタファに近いんだろうな。

眠い。
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by stoneroses8010 | 2008-02-22 02:03 | photo
2008年 01月 28日

1月ももう終わりで

年始からの体調不良は、中旬にも来てました。手足の慢性的なしびれ、後頭部のしびれ、嘔吐感、頭痛。辛抱ならず、脳神経外科に。
久々のMRIと頸から肩にかけて七方向からのレントゲン。
幸い脳に異常はなかったので安心でしたが、頸肩腕症候群と診断されました。ちなみに私は人よりも頸部の骨が硬いらしく、頸を上下左右に動かしても、骨が撓らない(要は、ほぼ直線を保ったまま動いている)らしく、人よりも肩や頸の痛みやコリが残る体質らしいです。
基本的に、私は超チキンなので、異常がわかったらすぐ医者にいきます。医者にいかずに我慢している方もおられるようですが、カラダを労わらなかったために、周りの人がどれだけ悲しい想いをするのかを、目の当たりにしてきたものとしては、メンテナンスはしておきたいものですな。

そんな最中に、ナイロン100℃の舞台を観ておく。最近映画すら観れてないので、いい息抜きになった。

作業をしながら、ラジオを聴くことが多いのですが、松任谷由美がMCしている番組でちょっと気になった話があった。とある音楽評論家との対話の中で、今後の音楽界(主にJPOP界を指しているのかと思うけど)は、どうなっていくのかというテーマがあり、そこでその評論家は、もう音楽は売れていかなくなるんじゃないかと言っていた。JPOPは、流行(たとえば、90年代のエイベックスレーベルなど)の音楽を形をかえどんどん生産していき、ひとつのブームをつくり、それをどう持たせていき、消費させていくのかが主流となっている。また、消費者もそのムーブメントの仕組みを理解しており、聴くためでなく、身にまとうために音楽を携帯に、ipodにその他メディアに取り入れ、なんとなく聴いている。
かたや、YouTubeに見られるように簡単にプロでもない人が、音楽を作り自分の作品としてアップロードすることができるようになり、PCソフトでも楽器なくして、自分の音楽を世に発信できることが可能となった。
とすれば、人は、あまり真剣に音楽を聴くという作業が必要なくなっていくんじゃないかということである。自分に「聴かせる音楽」がなく、自分で創れることが可能なら、もう聴く必要がないんじゃないか、それに皆気づき始めているんじゃないかということである。
この真偽はともかくとして、なんとなくアンテナに引っかかった。同じことが写真でも言えるなぁって。
写真でもデジカメはいうに及ばす、Photoshopなどのレタッチソフトの発展、そしてBlogというツールのおかげで、誰もが綺麗に写真を創る事ができ、そして、ネットで世界に発信することができるようになった。それが商売につながっていくとか、写真集が売れなくなるということは置いておいて(もともと日本では写真なんて売れないし)、写真で表現しようとすることとこれらとではなにがどう違うのか。
ちょっと考えたのは、これらのだれもが発信できる写真の意図するベクトルと、それを消費、評価する人間のベクトルに差があるということである。
つまり、これらのツールによる発信はとかく、シークエンスか、ダイジェスト、単体でしか受容できない。とすると、ピース(一枚一枚)のディテイルや強さしか評価軸がない。
(もっとも、小林のりおさんのような明確なコンセプト、デジタル、ネットでやる意味を噛み砕いて表現している人は別だが)
こうしたビジュアル面の評価に重きをもつ場合は、表現というよりも、商業的側面を踏まえた評価にシフトしていく。発信者が、表現を意図としても、こうした発信の方法では、作家としての消費よりも、商業的な消費に向かっていってしまうということである。
(ちょっとわかりにくいなぁ)
その評価軸は、すでに発信者にはわかっている。だから、より当世的な美意識に基づく写真が増えていく(いまのネットや雑誌はほとんどそう見える)
それがいい悪いとかではないけど、写真が向かっていくべき、また向いているフィールドは複数あって、純粋に作品として突き詰めていくもの、あるいは、雑誌など商業ベースに乗っかっていくもの、資料としてのものなどがあって、それに対して、自分がどれに向いているのかを考える必要はあると思う。
いま、自分の写真を見つめなおすことがなく、いっせいに作家のフィールドに多数向かっていく状態にあるから、なんだか飽和状態になっている。

まぁ、まだこの辺は思慮がまだ浅いところもあるからまた、考える。こんなことよく考えるから最近、ベンヤミンの「複製技術時代の芸術作品」を読み返している。

最近は夜から明け方にかけて、試験的に撮っている。3月の展示の分は、ほぼなんとかなりそう。プレスリリースで某有名雑誌で私の写真が使われるらしい。

東京へ学生ばりに夜行バスで向かう。撮影と展示を観に。
展示は、東京国立近代美術館の「わたしいまめまいしたわ」
自己と他者、それをどう作家が捕らえているのか。わたしは絶対的なわたしでありえることはなく、それが自己のなかでも他者とのなかでも錯綜する。
澤田知子、高嶺格、ビルヴィオラ、牛腸茂雄など。

牛腸茂雄の「SELF AND OTHERS」の60点。
牛腸と向き合う他者を撮りつづける。その他者は様々であり、撮っている牛腸との距離感が彼との関係性を想起させる。他者を撮り続けているのだが、そこに牛腸自身の被写体との向き合い方が現れている。最後に子どもたちが牛腸に背を向け霧のなかに向かって走っていくものは、牛腸がなにか人間との関係性から解き放たれたかのような、死をも想起させる昇天のイメージがあり、なんだか熱くなった。

日高理恵子、草間彌生、金明淑を取りまとめたシリーズには、人間の注意をどこかに注意させることで見えないものを感じさせるというキャプションがあった。
このキャプションと作品の関係はともかく、こういったビジュアライズ、コンセプトはこの一年アタマにあって、ちょっと「うわっ」て感じた。

なんにせよ、当たりの展示です。

つづけて、行った東京都庭園美術館の「建築の記憶」展では、畠山直哉さんや杉本博さんの写真があるので期待していたけど。なんというか、展示の仕方がなぁ…。
鈴木理策さんの青森県立美術館の写真はよかったけど。

撮影は朝と夜に行なったけど、もう無理だな。寒すぎる。

帰ってきた後、某写真家の方と談。大判でいかにフィルムをロスしないですむかということや、夜のアオリ、ピントあわせについて、いろいろ聴く。

写真つながりの友人とも会い、いろいろ話す。皆、追い込みなのね。

なんだかんだでもうはやくも2月。
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by stoneroses8010 | 2008-01-28 00:58 | photo
2007年 12月 14日

密度濃い半月

とにかく、密度が濃い半月だった。この半月はモノを見せるということを中心にし、その結果、自分が作り出してきたものの弱点が一気に露呈した。少しショックを受けた反面、前進を肌で感じた。

今月1日からそれは始まる。ニコンギャラリーであの敬愛する畠山直哉さんがポートフォリオを見てくれるというので、さっそく参加。写真のクラスメートも一人参加していた。畠山さんは、予想した以上に論理的で、かつ整然としており、その言葉運びに、よく陥りがちな感情的かつ抽象的表現は一切使わず、丁寧に一人一人の作品に指導していた。
私の場合も、いろいろ指導していただいた。その内容は、ここでは書かない。ただ、一言一句聞き逃さないためにICレコーダを忍ばせておいたので、その内容は自分のなかで明瞭にわかっている。
大きかったのは、自分が実際に撮る際に見ているイメージ(表象)と、紙に移行した表象との違い、それがどう移行していくのかを考える訓練が足りないということがわかったことだ。これは、偶然性をも加味した作品なら、どうかと思うが私の場合は、こういった訓練は必要不可欠だと思う。
あと、線の処理。概念としての直線というものは、この世に存在しない。だからこそ、表象上の線をどう受け入れ、どう拒絶していくのか。フォーマットを四角とするならば、それは必須の命題といえる。
因みに、畠山さんは、不遜かつ、もの言いが独善的な人に対しては、徹底的に掘り下げ論破していたところが爽快だった。なにかを伝える、それこそ、世の認識を変える大仕事をするならば、ビジュアルイメージであろうとなんであろうと言葉も使えて当然なのだな。それでかつ言葉を超えなければならない。
とにかく大きな大きな一日だった。

次の日、写真のクラスで飯沢さんが見てくれるというので、朝早めに行ったにも関わらず、昼前に見せることになった。画像(線)の処理、切り方がどうなんだということだった。昨日のことがなかったら、内容があまり明瞭でなかったため、消化できなかっただろうが、このとき、なにが欠けていたのかということが、パズルのピースが組み合わさるようにおぼろげに見えてきたようだった。
機材もそれ様に変える必要があるというのは、顔なじみの写真家の方から再三言われてきたけど、自分はそうじゃないだろと思って無視してきたが、そうでもなかったとわかり、さっそく午後から、シノゴの中古を探しにいき、情報収集。
もうかなりくたくただった。

月曜から、なじみの工房に支払いとこんなことありましたと談。ここなら現像、安くできるよ、ウチならこれくらいでやってやろうかとかいろいろ。ありがたい話です。さらに、通常のプリントで修正が効かないものはデジタル化して、すこし補正。これをどうするか。ラムダプリントをやったことがないので、テストプリントでそのシリーズは、ラムダに移行するかも。そんなことを試行錯誤しながら、週末、結婚した職場の気の許せる後輩を友人数人とお祝い。リラックスできたとき。お幸せに。

土曜は明日用のサムネイル程度の写真をつくり展示構成する。

日曜に写真のクラスに行って、午前中は、3月の展示のDM撮影と夜からパーティをするので、その買出し。文化祭前の準備を思いださせるこのワクワク感。ああたのしや。
展示についての最終調整。結果、点数少なめで行くことにした。確かに今回は、準備期間もさることながら、まだ自分で納得できない部分がコンセプトにも造形にも多少あったので、こんなものかと思ったり。ただ、量が増えれば質は必ず上がるものであるので、乞うご期待。いろいろやることも注文付けられた。あ~。
夜はパーティ。もうしゃべったし、聞いたし、久々に自分を解放気味にした。
そのほとんどが写真の話。作家としてのスタンス。つまり、つくり手として、観者にどうあったらよいのか。ストイックに作品を突き詰めるのか。それともまったくわからん人にもわからせるとてつもない努力が必要なのか。これは二者択一というのでなく、複合的問題でもあるし、この二つの道筋の立て方だけでもない。私は、つくり手と観る人のリテラシーの差(果たしてこれが正しいのかどうかわからんが)を埋め、享受層を増やす努力を作り手だけでなく、つなぎ手もしていかなくてはならないと思う。日本の写真表現って飯沢さんも行っていた世界的にかなり多様な国だと思う。(ただ、評価軸は相変わらず硬いが)たとえば、クラインのようなもの、アレブレボケもあれば、ベッヒャーやグルスキーを想起させるもの、ティルマンスに続くものもいれば、蜷川実花のような色彩で攻めるものもいる。それだけでなくいろいろ。だから、日本の写真家の写真集は本当に見ていて楽しい。だからこそ、その努力をしていかないと正直、もったいないのである。
ドクメンタの話、とある写真家の話。互いの作品の話。(ここで、あなたのコンセプトの立て方は、いつも感心すると評価され、ちょっとうれしくなる)
芸大出身のコは、芸術系ばっかり社会的視野がなかなか広がらない。だから、芸大出身であること、そうでないことは一長一短だといっていた。そういえば、井上雄彦さんも、マンガ描こうと思って、マンガ部に入ろうとしたけど、漫画ばっかりしかやらないので、これはダメだと思って、バスケはじめたというエピソードがあったな。やはり視野の広さは必要。それが遠回りだとしても。
写真家の先生は、複数のシリーズの同時進行はやったほうがいいと言う。なにが自分のアンテナに引っかかるかわからんし。それは同意だな。
思い返しても、いろいろ話したな。帰りにちょっと話しすぎて後悔したと友人に漏らしたくらいに。

そして、次の日は、シゴトをさっさとすませて、友人たちがグループ展をやっており、オープニングパーティに呼ばれていたので、それに向かう。40分ほど遅れたが、ギャラリー内はすごい人。一つ一つの作品を見るのもしんどい。基本的に売っていくこと、新人を紹介することというコンセプトがあるので、写真をあまり知らない人が見ても楽しめそうなものがならんでいるなって印象。
なぜか、私が大判に触手を伸ばしつつあることが、久々に会った友人にも筒抜けで、それらの話や、畠山さんの話など。
中抜けして、友人と3人で、食事。
以前の金村さんとの飲みに最後までついていったという友人は、私が抜けたあとさらに金村さんはすごいことになっていたらしい。(ここで書けないぐらいの暴露。痛快!)
バイテン使いの友人にいろいろ大判で話を聞く。もううなづかされる話ばかり。

で、翌日。意を決して、ヨドバシをちら見したあと、目星の店でシノゴを見せてもらう。中古で一ついいかもと思っていたものがあったが、店の人自らこれはやめときという。(なんで売っている?)
一式が必要だったので,ルーペやカットフォルダを安くしてもらっているようだが、新品の単価がいまいちわからないので、比較しようがない。よって、見積もりだけ書いてもらって、ヨドバシでいろいろ価格を聴取する。そこでは、大判に詳しい店員がいなかったので、あまり詳細な回答はもらえなかったけど、知りたかったことだけ把握する。やはり最初にいった店の値段は、中古品が混じっていたとしてもかなり安いとわかり、再度、その店へ向かう。少し待った後、レンズやカットフォルダを調整してもらって、使用法等いろいろ聞く。クイックロードの中古もあったので、負けてもらって買っておく。いい買い物をした。

その日以降は、整理しきれていないネガが山のようにあったので、その整理。
家のこともほったらかしだったので、その対応に終われる。配達記録で届いたものすら取りいけてないというありさま。
実家で少し栄養補給。
カットフォルダにフィルム装填し、週末は一ヶ月ぶりに撮りに行く予定を立てる。胸が躍る!
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by stoneroses8010 | 2007-12-14 23:00 | photo
2007年 11月 20日

レクチャ(金村さん)

写真のクラスで金村修さんのレクチャがあったので、参加。

10月にお知り合いの方のギャラリーのオープニングでもパーティとかで一緒で、その語り口になかなか面白みを感じていたのだが、ここではさらに爆発といった感じで楽しめた。
終始冗談めいたこととか切れ味鋭い批評とか、自分で問題提起してそれを自分なりの回答を踏まえつつまとめるという漫談にも似たようだが、話の内容はクリアである。
以下は、内容の雑記
○(以前、どこかのWebのインタビューにもあったように、)写真には全然わかってくれない人にわからせようとすることが肝心であり、身内やら友人やらを前提にしても意味はない
○ある程度決め事はする。それも「~はしない」っていうような。自由というのは手に余る。制約することで生まれるものもある。
(昔、学校で猫なんか撮ったら、謝るまで2時間ぐらいしかられた。今は撮っても何も言われない。いい世の中ですよね。とチクリ)
○僕の撮っているものを同じことの繰り返しという人がいる。しかし、繰り返しと反復は違う。反復は前進もしないけど、後退もしない。よってゴールに向かわないし定めない。ステップアップって必要なことですかね?ゴールって終わっちゃうことでしょ。目標を定め、コンセプトしっかりして、その通り進めてってわかるけど、それじゃそれだけになってしまう。効率にやることがいいわけじゃない。

○(写真を膨大に撮って失敗することについて)、僕なんかかなり非効率。けど失敗する写真を出して言ってもいい。商業カメラマンとかはそれが許されないけど、そうじゃないし。
○好きなものを撮っているかといえばそうじゃない。嫌悪するもの、違和感を持つものを撮ることで、一体化せず距離感が持てる。

などなど、終始、同意と思わせる意見続出で、全然飽きなかった。ここでは書きたくても書けないが、in-betweenのこぼれ話とか、某作家の話(勝ち組論、お金)、ありゃなんの影響もないんじゃないのという作家の話とか、もうスゴかった。

後半は、2人ほど作品を公開評論する機会があり、私のクラスメートも選ばれていた。けっこうシビアにいうも的確で、全体的な世界観の作り方がカギなんだなと再確認した。
(それも、いたずらのような悪意的であったり、一枚一枚で見せるだけでなく全体で語るような何か)

その後は金村さんも一緒に飲む。昨日は表参道のギャラリー展示のパーティで二日酔いと言っていたのに、さらに飲む。レクチャでは虚弱だとか、写真家はマッチョだが、僕はそうじゃないとか言っていたけど、タフなんだなぁと思う。

そのパーティで土曜に個展を観に行った友人と会い、終始話す。ちょっと、自分のタイミングじゃなく戸惑ったとのこと。いろいろあるんですねぇ、
お知り合いのギャラリストの方から早く写真見せろとせっつかれる。
自分のタイミングでポートフォリオを創っているけど、なんだかそうも言ってられなくなってきた。講師の人には、12月に飯沢さん来てくれるから、見せれるようにしといてと軽く言われるし。んー、無理かも~。
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by stoneroses8010 | 2007-11-20 00:33 | photo
2007年 11月 04日

犯さん哉 ルイス・ボルツ

今週末の金曜。淡路島で園芸の勉強をしている友人が再び仕事場に訪問してくれた。
本当に律儀なヤツである。仕事をすぐ切り上げて、いったん自宅に戻り、友人と先輩と待ち合わせて、カフェで談。その友人の後輩も仕事をやめて、同じ学校で園芸をやるために淡路島へ渡るそうだ。ブームなのか、淡路島。

土曜は友人と観劇「犯さん哉」作・演出ケラリーノ・サンドロビッチ
まったくコントに近い感じだった。でも好きです、こういうテイスト。笑いに走りながらも、「お笑い」と違う。カーテンコールでケラが出てきたのはちょっとびっくりした。客席にもおーっと歓声。なんだか儲けた気がした。
大倉孝二はホントに素敵な役者だなぁと思う。友達に欲しいぐらい。
その後は、カフェで談。楽しいひと時でした。

今日は写真のクラスへ。
先月大判で撮ったものを皿現像する。これってタンクの攪拌現像よりラクやなぁ。ただ手を液体につけっぱなしだから冬になるとキツイだろな。教えてもらった写真家の方は、ハンガーを使って、手を使わずにやってるそうだ。なるほど。
自分自身のポートレートを大判でクラスメートに撮ってもらっていたのでそのネガをもらう。遺影にちょうどいい。
そう喜んでいると、先生に君はまだ事を成していないのに遺影?といい感じでプレッシャをかけられた。
それはさておき、遺影ぐらいは自分で撮り、プリントしておきたいとホントに思う。それが自分の最後の写真であり、葬式は他者と写真でコミュニケートする最後の場であると思っているからだ。

川崎市民ミュージアムの学芸員深川雅文さんの書いた「光のプロジェクト」(青弓社)を最近読み進めている。この方の写真評論は、歴史的な文脈を踏まえ、近年の動向を読み、次代の写真はどうあるのかを丁寧に論説する稀有な方だと思う。感覚的でなければ、学術でもない。写真の見方というものをどう伝えたらいいのかが大きな活動のテーマにあるのでは?と思えるぐらいだ。そのなかでルイス・ボルツのシリーズを取り上げて、ボルツの活動を通じて、人が風景を写真として撮るという風景との向き合い方に変化をもらしたことを述べている。
(以下、引用)P196
「この新たな傾向の風景表現は、作者と対象の単純な二項対立の上に成り立つのではない。視覚的な外観と媒体あるいは跳躍台として、見る者の想像力を意識や精神と呼ばれるような表象や思念のより広い領域へと解放し、そこにはたらきかけるイメージの創造こそがその動向が切り開いた表現の豊かな地平なのである。言い換えれば、そこでは、「場」の外観はなにか普遍的なもののシンボルとして作用するものではない。そうではなく、「場」はなにか目に見えないあるものを視覚を通して告げ知らせる「徴候」としての役割を果たしているといえるだろう。」
(引用終わり)

こうしたボルツの写真は、見せることを創造している。以前のエントリでも書いたけど、その視覚を通じて、なにか見えないもの、その風景が存在することの時代、社会、風俗、などなど告発的な意味でなく、空間を取り巻く状況すべての背骨を掴むような何かがある。
だから、最近はボルツの写真集に釘付けである。しかし、それだけでなく、ボルツは写真の展示の方法も面白い。
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by stoneroses8010 | 2007-11-04 23:48 | photo
2007年 10月 22日

関東 鈴木理策 などなど

Blogを更新し続けることって結構、気力、体力がいるもんだなと思う今日この頃。いや、自己管理がなっているんだろうな。

10月中旬は、関東へ。写美でやっていた鈴木理策の「熊野 雪 桜」展を観る。
展示構成、作品、点数ともに申し分ない。複数の友人や竹内さんからよかったよと聴いていたが、まさしくその通り!
部屋は、前半は暗い部屋の「熊野」を通り抜け、後半に真っ白な部屋の「雪」「桜」へと続く。雪の白い表情には、白の無限の表現性を感じ、桜のクセを感じさせない前ボケと突き抜けるような空の青さには、なにかその空間に包まれているように思わせる。
「熊野」の火のシリーズは、展示構成の妙もあってか、そこにうごめく火と人が立体的に見える。

エプサイトでは、石塚元太良が展示をやっていたので観に行ったが、これは彼の意思だったのか、エプソンとのタイアップでこうなったのかわからないけど、なんだか拍子抜けした。彼の「WWWWW」という写真集は、若手とされる写真家のなかでも、かなり抜けていて衝撃を受けてただけになんだか。

森美術館では、友人が作品を出していたので、それも見ておく。帰り際にその友人とばったり。人連れだったので、ほとんど話せず。数時間後に電話で少し話した。

関東旅行の後半はもっぱら撮影。でも天気がすぐれない。が気力を振り絞って2日間撮り倒した。帰って現像、プリントしたら使えるものが多少あるかないかと言う程度。まあ、そんなもの。

先週は、知り合いの方のギャラリーがOPENだったので、手土産持参で、夜参加。オープニングは金村修というのだから、スゴイとしか言いようがない。しかも、夜にトークだなんてなんと贅沢な計らい。雨のなかギャラリーにシゴト終わりに向かうと、当然人は一杯。
金村さんのいい意味での脱力系のトークで場が和む。以前から彼のインタビューやらに目を通したことがあったから、別段目新しいことはなかった。写真のクラスの面々もチラホラ参加していて、手伝いをしている人もいた。その後は、皆入り乱れてギャラリーでパーティ。久々に会った人もいて楽しめた。特に私と同年代の友人がいて、来月個展をやるので来て欲しいという。彼の写真を観るのはスゴイ楽しみ。いろいろ話したなぁ。
(私も負けてられんのだけどね。)

最近は、夜になるとかなり冷え込む。夜撮るのも、あと1ヶ月で限界かもね。
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by stoneroses8010 | 2007-10-22 00:04 | photo
2007年 10月 09日

胃カメラ 鈴木理策

少し健康問題に悩まされた今日この頃、大したことないことがわかりほっと安心。久々に飲んだ胃カメラ。最近は、鼻から入れることができるらしいけど、私には、入らなかった。カメラがぶっとすぎ。アレじゃ無理無理。

9月末に写真関連で知り合った友人が個展をやっていたので、仕事帰りに観に行った。もう閉まりかけだったのか、ギャラリー内にはその友人しかいなかったので、本当にゆっくり、いろいろ話することが出来た。あまり、お互いを知っていなかったので、いろんな話が聴けた。私は、この友人の写真が好きで、その友人自身も何回か個展を打っている。そのうち突き抜けるかも。展示構成とかも参考になったな。

写真のクラスでは、今年度構成するべきシリーズの構想と、テストパターンも、講師である写真家の人と相談して見えてきた。いろいろ最近フィードバックして、冷静に何度か考え直しているんだけど、今回は、結構長く、そして、自分でも想像できない展開を見せるんじゃないかと少し期待している。やってみなけりゃわからないというのが楽しいところ。

先日、紹介してもらい手紙を出した私にとっての「時の人」に今日、電話してみた。多忙らしく、やはり手紙には目を通してなかったようだった。でも、まあ会ってくれそうなんでちょっと安心。

来週から、撮影兼ねて、また関東方面へ。写真美術館で鈴木理策展がやっているので、それは必ず観る予定。竹内さんも言っていたけど、あれは観ておいたほうがいい。

あー、それにしても大判欲しいな。
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by stoneroses8010 | 2007-10-09 00:10 | photo
2007年 10月 01日

竹内さんのレクチャ mio

写真のクラスに竹内万里子さんがレクチャに来てくれた。テーマは、世界のフォトフェスティバルを中心とした現代の動向。
フランスのアルルでは、アルル国際フォトフェスティバルが毎年開かれている。気になってはいたけど、それがどんな状況なのか、いろいろレクチャしていただいた。
アルルの街全体を使って、様々な場所で展示が行なわれる。(歴史的建造物など)まあ、ここまでは、日本でもできそう(実は、日本で、町全体で画期的に動いているところは北海道東川ぐらいしかないと思うんだけど)なんだけど、展示だけでなく人の熱意がなんだか違う。まあ、いたるところから、ギャラリストやらキュレータが集まるので、当然写真を売り込みに来る人もいる。ついでにゲリラ的に展示を始める人もいる。さらに公式として黙認されている非公式な若手写真家の上映会もあったりする。見る人、つくる人が出会える場所なのだ。アルルには、国立の写真学校があって、一年だけでも聴講生として参加することが可能らしい。

中国の平遙国際写真フェスティバルでの話は面白かった。というよりも半分あきれた、主催者側に。まず、開催2日前でも展示がまったく出来ていない(これは奇跡的に間に合ったらしい)
そして、招待されたヨーロッパ側とアジア側のキュレータの扱いに差があったということ。さらに、当日になって、地元の政治家や財界の人間が現れ、我が物顔で、式典やらに現れ、現場側の人間そっちのけの話なんか。これらは、フランスのとある都市と姉妹都市の関係上、そこを盛り上げるためにどうしたらと仏に相談したところ、写真フェスが決まったという背景があるらしい。
これに関しては、もうこれ以上書きません。なんか書いてて腹立ってきた。

後は、散文的になるけど、
パリ写真月間が隔年であり、camera obscuraチェック要。
Hype Galleryのインターネットによる参加展示などなど。

写真家。
ライアン・マッギンレイ
ジェームス・ウェリング
リネク・ダイクストラ
クリスティナ・ガルシア・ロデロ

あら、結構メモしたのに、失念しているな。後で、またビデオ見返そう。
とりあえず、来年はアルル決定。

こういう写真フェスは、竹内さんは観光性があって、地域活性化につながっていると世界の実績を少し述べていたけど、日本では、まだ無理だろうなぁと思う。日本では、写真は撮っている人同士が、極端なところ、いい、悪いと言っているだけで、その他、大多数の人は、写真を「観る」という扱いにどう接していけばいいかわからない。まあ、いうなれば、作り手と受け手がいて、その繋ぎ手が不在の状態。じゃあ、写真評論家はどうなのかというと、おそらく、繋ぎ手ではないと思う。作り手がつくった者をコミュニケートできるような場所を与える、もしくはともにつくるという支援側にいるんじゃないかな、つまり、よりつくり手に近いところ。
とすると、繋ぎ手は、どうあればいいのかということになるが、これは海外の事例は、参照程度にとどめるほうがいいのではないかと思う。海外と日本の博物館や美術館の役割(ちょっと極端かな)が異なるように、日本では、教育、財源的支援、文化行政などが海外と異なることから、写真に対する意識も違う。だから、そういった土壌を踏まえた独自の繋ぎ手が必要になってくる。
いまさら、国立の写真学校つくって、教育機関を充実させて、さらに写真フェスやって、行政はそれに町全体で応援って望ましいとは思うけど、実現性は低い。そういった完全移入ではない繋ぎ手が必要。(しまった、そのあたり質問しておけばよかった)

その後、楽しく飲み。写真のクラスで可愛がってもらっている(というか、いぢめられている?)方が、10月中旬にギャラリーOPEN。行かねばね。

Mioの奨励賞展を観に行く。
それなりに高い賞もらっている人は、やはりクオリティ高いね。作品構成とか参考になった。入選系では、「ん?」と思うものもあった。そのあたりの差が激しい。このあたりは審査員の好みだけど。

あ、最近観た映画、「サッドヴァケイション」
これ、なかなか深い。人を許すというのは、ここまで深いのかと思う。
浅野忠信は、以前、青山真治と寺島進とともにテレビに出てて、2人は浅野が、素で演技していると言ってるけど、「演技していない」彼と「演技している」彼は全く違うと言っていた。映画を観て、それを思い出した。
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by stoneroses8010 | 2007-10-01 22:56 | photo