カテゴリ:我思ふ( 58 )


2006年 07月 29日

発表終わって、解放感と寂寥感

中間発表の日。まだレジメがすれてなかったので、朝ゆっくりプリントアウトしようと思ったらプリンタの調子が恐ろしく悪い。インクを2度買いに行ったり、メンテを色々施したりで、時間がギリギリだった。

で、なんとか中間発表が終わった。月曜の予行演習では、ダラダラと1時間近くしゃべっていたのをよりコンパクトにまとめてみた。予想通りの時間配分で、予想通りの点を突っ込まれた。
最後に指摘を戴いた先生のおっしゃっていることは、以前から考えていたことだ。そこに触れるとまた無尽蔵に論を展開する必要があるので、あまり触れないで置こうとしていたのが、知りたい理由もわかるし、触れる必要性もわかる。
(私は、事例紹介とか、そこからわかることをまとめることにあまり関心がなく、やはり論を立てるということを優先したい。)
まあ、なんとか終わった。

発表のあと、親睦会、二次会とあった(会ったこともないM1と色々話したり、同期の近況聞いたりとかなり有意義だった)のだが、やはり感じたことは、その研究を実践活動に継続して現場で活かせるということが、ものすごく素晴らしいということだ。それが、たとえコトバにならなくても、研究や実践から何かが見ている。そしてそれを(カラダに染み付いたものが)どこかで活かせる。いいなぁ。そう考えると今の自分の状況に寂寥感を感じたり。

ただ、私自身も、今後どこかにつながっていくと思う(と、信じたい)。
こういうのはなんだか恋愛に似ている。
付き合っている最中は、結果なんか求めない。ただ、好きだから無我夢中。
その恋が終わるとなにも残らないんだけど、確証もないのに次の恋愛に活かせるみたいな。
(あれ?ちょっとちがう?)

あー、なんか解放感(まだ終わってないんだけど)。
とりあえず、8月は写真にシフトできそうだ。いや、その前に映画。全然見てない(私としてはこの段階で20本も見てないなんてあり得ない)。しこたま見たい。
劇場にも行きたいなぁ。この間「シベリア少女鉄道」だっけ。見てかなり面白かったし。
[PR]

by stoneroses8010 | 2006-07-29 23:55 | 我思ふ
2006年 05月 20日

結婚式というイベントを経て

知人の結婚式、披露宴に参加。二次会は幹事という長い一日を過ごす。

結婚とはおめでたいことではあるし、幸せになってほしいと思う。それは無条件に思うのだが、結婚式はともかく、披露宴はなにかうそ臭さを感じてしまう。なぜだろう。

司会の言葉は当事者である二人を特別視させるためにある。
コトバによって、二人の過去が明るみにされ、メディアで味付けしながら、それは誇張される。そして、結ばれることがさも運命付けられたかのような誇張。
関係者の祝辞はいいとこ取りの言葉で、「優秀な」二人は「幸せ」な家庭を持つだろうと核心で締めくくられる。形式化したそれは、親族を除く他の参加者には伝わらずはやく終わってくれと願うばかり。
他の参加者は、「お幸せに」ウソか本当かわからないことを言いつつ、料理に目を白黒させる。

どう取り繕われても、主役の二人の過去や今日という日が第三者には内面化されないのである。だから、リアリティがない。「本当に二人が夫婦になるの?まあ、式挙げるからそうなんだろう。」と言い聞かせる。というよりも、それ以上考える必要性がない。
まだ、「いやー、昨日実は○○しちゃってさ」とか「今日、頭痛いわ」というなんともない話題のほうが、なぜかリアルだ。

祝事であるし、夫婦になることはまぎれもない事実なんだろうけど、なぜかリアルでない。それが、矛盾している。外見とは曖昧なものだ。編集された言葉と形式化した空間がそれを助長させる。

逆に葬式はリアルだ。あげられるお経、黒い参列者、悲しむという取り繕いようのないストレートな感情、そして、自分に内面化される死。

が、最近葬儀も競馬葬とか、生前の趣味などを反映させた葬儀を行う葬儀屋もいるとか。そういったものを目の当たりにしたらどうなるのだろう。その死すらうそ臭くなるのか。
そうはならないと思うが。
[PR]

by stoneroses8010 | 2006-05-20 23:53 | 我思ふ
2006年 04月 28日

在るということ

院の授業で、パブリックアートによる経済性に関する授業があった。

(この授業は、まずある一つの問題定義があって、それに対する理想を掲げ、それに対して、どうアプローチするかということを、経済学を吟味しながら一つの結論に達するところに特徴がある。ただし、それが文化や芸術を扱っているにもかかわらず、論文めいた直線的な見解がどうかとたまに思うが、それは一つの意見として拝聴し、それに対する賛成や反対論を私の頭の中で巡らせるにはちょうどいい材料を提示してくれていると好意的に考える)

さて、このパブリックアートに関することだが、それには、パブリックアートがある地域への外部性としては3つあるとのこと。
○地域への愛着心、アイデンティティの回帰、
○アート設置にかかる経済効果(芸術家、事務スタッフの雇用、観光産業の活性化
○地域住民への教育効果(触れる機会の提示)

しかし、そういったポジティブな外部性だけでなく、ネガティブな外部性もある
○企画、選定、設置段階における方針の不明確さ、住民参加のプロセス、対話のなさ、作品への不理解などから生じる「公害」

また、家計消費モデルによる芸術消費として、以下のように述べる
住民が芸術サービス消費者として考える場合、パブリックアートを公共財とするには、住民のアートに対する享受能力を高める必要があって、その能力があり、初めて、芸術と認知されうる。それがない場合は、価値の押し付けにすぎないとのこと。

私は、経済学的なアプローチを拝聴していて、批判する云々よりも、他のことを考えていた。(パブクックアートが抱えている現状を理解したうえで、無責任に語っていきます)
それはパブリックアートがそこにあるということである。
南條史生は、パブリックアートについて、芸術は社会や都市とは異なった独自の歴史的、文化的文脈を持っていて、それが、社会や都市に作品を置いた時に、生じる記号的価値の顕在化に意味があるといっている。
また、パブリックアートには、その設置地域の文化的歴史的な経緯に基づいたサイトシペシフィックな作品が提示されることが多い。
つまり、作品が、設置される空間と密接な関係性を持っており、それがそこに「在る」ということに価値があるということである。
この「在る」ということは、重要なポイントで、たとえば、ホワイトキューブないれものに作品が一つあるということでも、その空間に何らかの意味を持たせる。モノがその空間をある波動で振動させているのである。ただ、その波動は作品から発するものだけでなく、その空間によってもたらされるものでもある。

確か、エリナ・プロテへスという写真家は、「the new painting」というシリーズで、自らの身体を部屋に存在させ、空間と身体の影響関係を表現していた。それは自らの部屋でもあり、自然でもあり、また、自分は裸でもあり、衣服着用でもありと。ここでも「在る」ということの波動がどういったことなのかが考えられていたように思う。

そうすると、パブリックアートは、経済性という観点もあるし、作品自体が、そこに存在することで、意味を成す記号的価値を生み出すことができるが、それだけでなく、パブリックアート独自のその作品が「在る」こと自体に、周りに波動を与え、またその反響を受ける空間の「たわみ」みたいなのがあるんじゃないだろうか。と考えたりもする。

それがいかなるものかということはわからないが、(見るだけでわかるような代物でもなさそうだが)、長野重一が、三島由紀夫の割腹自殺の事件で、朝日新聞の、亡き三島氏の首を含めた全体風景を移した写真を見て、「不確かな確かさ」を感じたと言っていたように、私もパブリックアートが在るということ自体にその風景から生じる不確かな確かさを感じてしまう。
(すべてがそうであるということではないのはいうまでもなく)
[PR]

by stoneroses8010 | 2006-04-28 03:14 | 我思ふ
2006年 04月 09日

目的は一つでも手段は無限

土曜日、発熱。

外出の予定を変更する。来週から院の授業も始まるので、いくつか買っておきたい書籍もあったのだが断念。
安静にしていなければならないほどでもなかったので、友人の結婚式二次会案内状のデザインの続きをする。
二次会といっても1.5次会という位置づけで、結構きっちりとした場所と内容になりつつあったので、ある程度ハメはずさない程度のデザインとなる。綺麗な仕上がりだがおもしろくない。
横尾忠則が「作りたかったのはキレイなものではなく、強いもの。強いものこそ美だという考え。最初から美しいものをつくろうと思うと、花鳥風月的になって面白みがない」とある雑誌で語っていたのを思い出す。
「強さこそ美」

本日。
天気もよかったので、コンパクトカメラを持って自宅周辺を歩く。(6×7は置いておく)
無責任に撮る感覚が新鮮。
近くの公園で花見をやっている。
花見客は老人~子どもまで年齢層が幅広い。
桜に対する各年齢層の受け止め方の温度差が微妙に見えて面白い。

彩都メディア図書館へ。
気になる様々な写真集を見る。見るというよりも今日は写真に触れておきたかった気分。

以下はランダムな覚え書き。

〈佐内正史〉
以前見たときより、構図や主題が明確になっているように映る。エグルストンっぽさ。
細かい質感描写でリアリティを失わせる。日常の非日常。
「生きている」が一番面白い。

〈北島敬三〉
 「AD1991」建物と人物のポートレート
国別、時間別のスナップ。人物写真はバストアップで下からあおる様なアングル。人物写真は断って撮影しているとは思えない。
時間の区切りが時代性の記録。
収集により、見ているものに提示するスタイル。テーマ性の強い他者性を見込んだ作品

〈土田ヒロミ〉「俗神」
日本の地域のスナップ。習俗に触れる人々の生き様。
土田本人が、アートインレジデンスでその地域の滞在した時に、生み出した写真というサイトスペシフィックな雰囲気。医者が往診でその地域の患者を診ているような感じ。

〈アンドレアス・グルスキー〉1994~1998
テーマ性は地域やその時を主とするものでなく、イデオロギーに対するものである。それは資本主義。
直線を意識した造形は従であり、資本主義というテーマ性がマクロ的であれば、造形はミクロ的な位置づけ。造形の強さが面白い。

中島教「アンタイトルド・ランドスケープ」
テーマ性が薄い。陰影、質感による描写に力点有り。都会がモチーフであるも、その特定は不可能。造形的であり、シュルレアリズムの名残を感じる。
あとがきに
「確固とした存在と信じていた壁がすべて崩壊した後にあるおびただしい言葉の残骸」
「この亀裂と崩壊の響音の中で呪文のように意味ありげに撮った写真」とあり。
言葉、造形の意味の壁が崩れ落ちる時のスナップ

野口理佳 「予感」
テーマ性が強い。なにかが起こりうる予感。できあがりそうな予感の記録。その予感は主観でありながらも、引きのビジュアルで淡々と記録する。

ジャック・ピアソン 「the lonely life」
ブレ・ボケ・アレのカラー写真。テーマも不可解。場所も不明。ポートレートに風景。全体的にポスター集のような雰囲気。人のスナップさえもポスター。
フィクション。そう、「~って感じ」「~って見える」を広告として告知しているような。
瞬間系。

高橋恭司「the mad broom of life」
地域は世界各国でありながらも、その地域色を出した記録ではない。テーマとして「生命の残骸、ノスタルジック」を感じる。
「私」=撮影する主体でなく、主体は作者以外の第3者が演じているような気分。
主体を誤魔化す。

柴田俊夫「日本典型」
被写体は日本各地の造形的な人工物、自然。繰り返される記号。

金村修「I can tell」の文章はかなり哲学的だが読み応えあり。購入検討。

真正面撮影は一つの方法だが、弱い。
時間、光の意識、主体のごまかし。テーマ性は事の発端で、手段は偶発性で千差万別。
最初の思考を写真的な実践で否定する、もしくはブラッシュアップする。
そういえばティルマンスは「(興味あるものを追及した後に、)それを作品として落とし込むというのは、意味を成しているかどうかではなく、その興味をいじっていくことで見えてくるもの」という。

言葉や必然による出会いなどありえない。
何を捉えていくことが、表現となりうるのか。(時間、地域、質、色、動、静、イデオロギー)
[PR]

by stoneroses8010 | 2006-04-09 21:38 | 我思ふ
2006年 04月 05日

とりあえず、

自分の価値観にブレが少ないものの、以前指摘されたことをよく考える。

うまく表現できないのだが、もう少し濃い被写体との付き合い方があって、その方法としては、より感覚的でよいかもしれないということである。

90年代に代表される一部の写真は、被写体との関係を敢えて薄くしているクールな距離感があって、撮る主体との距離感で「唯一」を作り上げているように思う。
また、反対に被写体との関係性が濃密(たとえば家族)であることをテーマにして、方法一定化させる、もしくは、無責任に撮る、ウソっぽく見せるといったランダムさで、「私写真」の継承したものもある。

私が、この半年撮ってきたスタンスは、被写体との関係を排除し、かつ方法論は主観を排除すべく一つのあり方に絞ったものであった。そしてそれは(主観性を排除した結果)観念なり、思想なり、観ている人が身を置いている社会的集団の流れに訴え、他者性を獲得できると考えていた。(いまでもそう思っているが)

そこで、今は、その撮影手段を増やすという意味で、もう少し緩やかな、「モノを観て、ハッとしたときに即座に撮る」という身体性があって、「この光がバーっと入っているものを捕まえる」というようなより感覚に近いものがあってもいいかもと考えている。
そのほうが、わかりやすいといえばわかりやすいのである。

複数の写真が並ぶ時、人はその写真の関連をどうしても見つけたがる。それが、「実は車の窓からすべて撮っているものなんです」とか、「これは、○○という地域でのポートレートです」というわかりやすさで、関連を理解することが出来る。
関連をよりよく理解させるためには、被写体とのある程度濃い関係性が必要となる。
私は、この濃い関係性が、どうも押し付けがましくて忌避していた面があるのだが、「ぶしゅ」とか「スーっ」といった自分の思想や観念、経験から発する感覚による関連では、逆に他者を遠ざけながら自己完結しているところが出てきているように感じる。

どうも上手く、まとめられていない。
とりあえず、気持ちのいい日が続いているので、土日あたりにカメラを握ろうと思う。
[PR]

by stoneroses8010 | 2006-04-05 22:46 | 我思ふ
2006年 03月 15日

イッセー尾形のWS

イッセー尾形と演出家の森田雄三が「素人を4日間の稽古で本番の舞台にあげる」というワークショップを行った。そのレポートがこちらで紹介されている。

「自分」の見せ方と題して、演ずるということは、舞台の上での役と自分の分離であることという演劇の原理。
人は、相手の話には興味はなく、他人〈第三者〉の話に興味を持つことという人間の特性。
「イヤ」「好ましい」と思ったりするときの他人とのズレ=「個性」
「名前」というものはその名づけられているものを立体化させる(想像させる)
などなど、演劇の基本原理から、実生活に活かせそうな自己啓発めいたものまで、考えさせられることの多い内容である。

私が、ここで注目しているのは「想像」である。表現者ではなく、表現を観る他者の「想像」。これって、表現者が己の表現を他者に見せる上で常に気にとめておくべきものでもあるまいか。
このワークショップを見て、真っ先に思い出したのは、写真家の中平卓馬の主張。
大雑把も甚だしく恐縮なのだが、彼は、写真に生きることの「記録」や自己と世界との出会いを見出し、普遍性を求めることなくその切り取られた限定的な時間、空間を他者にぶつけるという。
つまり、表現による投げかけは、なんらかの形で他者に勝手な想像を与えるものじゃないかということ。
さらに付け加えるなら、それが他者の生きている世界、文脈で培われた概念をブレさせることが面白いんじゃないかと思っている。
大げさに言えば「表現の社会化」

演劇で役者と観劇者の距離感(生きている次元)が乖離してはならないのと同様に、平面芸術においても、その表現者と観ている者のそれも乖離してはならないハズだ。
独善的な美しさ、世界観の主張には私は今のところ興味はない。
[PR]

by stoneroses8010 | 2006-03-15 01:56 | 我思ふ
2006年 02月 24日

手に入れておきたい写真集

手に入れておきたい写真集。

"Uncommon Places:The Complete Works " Stephane Shore
"Friedlander" Lee Friedlander
"Andreas Gursky Photographs from 1984 to Present" Andreas Gursky
"Thomas Struth:1977‐2002"  Thomas Struth
"Nudes" Thomas Ruff
"Politics of Bacteria Docile Bodies" Lewis Baltz
"Safety in Numbers"Nick Waplington

Joel Meyerowitzrの"Wild Flower "はもう手に入らないのか。
[PR]

by stoneroses8010 | 2006-02-24 04:23 | 我思ふ
2006年 02月 15日

デジタルである理由

私がBlogで掲載している写真の多くは、ビジュアルから入ったものが多い。これにコンセプトを練りこんで、一つの表現として作品化することが、杉本博司のいう「ヴィジュアライゼーション」に近似のものであると思う。

しかし。私のBlogで掲載している写真はビジュアル止まりである。単一の作品としてもコンセプトが十分であると思っていない。私が気になるところは、これが一眼レフデジカメで撮られているということである。デジタル技術を否定するつもりは毛頭ない。そういった技術は80年代より作品として使用されている。Jeff Wallなんかは現代美術志向でもあるから積極的に使っている。現在のドイツ写真もその傾向がある。

私が言いたいのは、「なぜデジタルを表現する上で使うのか」ということの説明がなく、デジタルが使われることに対する疑問である。そこをこれからはもう少し考え、訴えていく必要があるかと。もちろん第一戦で活躍する人はそのへんを弁えている。小林のりおなんかがそう。

デジカメは手軽である、紙、ディスプレイとあらゆる媒体にも転用しやすい。低コストでもある。しかし、これは理由にならない。
私のBlogで掲載されている写真はそれに答えていない。よって私の基準では表現として認めるわけにはいかない。自分で自分を批判するのもどうかと思うが。
しかし、最近は、それを(反省し)回避するためのデジタルを使う理由というのを徐々にだが写真に含ませている。いわゆる実験でもある。もう少し試行錯誤が必要かも。

なんだか、愚痴っぽくなってしまった。
というのも、富士フィルムがカラー、モノクロフィルム等の値上げに踏み切ったこともその原因にある。富士はその理由を、デジタル化による需要の低下や原材料の高騰という状況のなかで、今までの品質を維持して供給するために必要なことであると説明している。コニカミノルタが、カメラ事業から全面撤退してしまったことで、国内フィルムは富士とコダックが主流を占めることになる(元々そうであるという話もあるが)。真偽は別として富士はこれからもフィルム文化を死守すると企業をあげて訴えているから、それに乗っかってもよかろうかとも思う。
[PR]

by stoneroses8010 | 2006-02-15 23:50 | 我思ふ
2006年 02月 08日

CONTACTS.

DVD「CONTACTS.」を最近良く見ている。
Nan Goldin Thomas Ruff Jeff Wall ら11人の写真家が自らの作品を語る。
技術論や写真史的見解はなく、何を生み出したかったのか、その動機や経過を詳細に語るのである。
何が気に入っているのかというと、それは作家自身の私はこう生きてきたし、こう考えてきたというメッセージ性が強くあり、その上で写真がこうあるのだと語られている点である。私には「楽しくて写真を撮る」ということがいまだにわからないが、こういった作家の姿勢は激しく同調させられるものがあるし、写真と馴染み易い。
[PR]

by stoneroses8010 | 2006-02-08 02:16 | 我思ふ
2006年 02月 04日

Self and others

土曜日は、撮るということが優先されるようになってきた。それが、当面やらならなければならないことの負担になるとわかっていても。

この日も3時間ほど撮り、1時間かけて書店で目当ての書籍を購入した後、家に戻り、フィルム現像。最近は撮ったらすぐに現像が習慣となっている。撮る、見る、考える、撮るのサイクル。フィードバックすることによる発見が暗室で印画紙に像が浮かびあがる瞬間のようにスリリングである。

私が撮っている写真は、いわゆる瞬間的に発生する事象を「切り取り」、提示するものではないと思っている。
(Blogに掲載している写真では説得力はないと思うが。)
Henri Cartier-Bressonのように、主題の意味と構図を瞬間的に一致させるものでもなく、R.FrankのようにBressonのアンチテーゼのような瞬間の力強さがあるわけでもない。Capaのような社会性に富んでいるわけでもない。(もっともここに偉大な先人を出すこと自体何様気取りと言うような気もするが。)
かといって、90年代で一斉に活躍してきた日本の若手写真家が生み出したクールな私写真でもないような気もする。着地点がわからないだけに不安定であり、撮り続けるモチベーションにもなりうる。

こんな思索をめぐらすだけでも、自分の撮るものを見るという行為は、写真を撮るという実践に含まれた重要なファクタであるような気もする。
最近よく考えることがもう一つある。関連書籍でも多々触れられていることだが、それは「写真を撮る自己」という存在である。被写体と主題に対して外在的なのか内在的なのか。
W.Egglestonは自分を越えて、モノを見ること「アンユージュアルな見方」ついてに触れている。J.Meyerowitzは「自然」をテーマとして撮るにしても、都市生活者が撮る自然と自然愛好家が撮る自然に相違があり、そういった二面性を一人の自己の中で生成できることについて触れている。Lee Friedlanderは自己を実際に撮ったものに痕跡として残すことで、被写体との関係性を視覚化した。私は、すべての写真がそうであるとは言わないが、撮る自己と社会との関係性は逃れられないものであり、主体を取り巻く環境のインパクトがあった上で生成されるものは強度があると思う。それをどう撮るということに落とし込むか、それがわからない。牛腸茂雄は「self and others」でたくさんの「他者」を撮ることで、それを写真を見ている「自己」の記憶と共鳴させようとしているように思える。写っているのは他人のポートレートなのだが、それが、自分の過去の記憶のようにスライドさせるなにかを感じる。秀逸だ。
[PR]

by stoneroses8010 | 2006-02-04 22:41 | 我思ふ