確証はない。それを信じるしかない。

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カテゴリ:我思ふ( 58 )


2006年 02月 01日

写真集に関するボヤキ

「写真集を選んで買う。」
これが出来る書店が関西にはあまりないように思う。私が知らないだけかもしれないが。よく立ち寄る京都のmedia shopは写真集のコーナーが寄るたびに縮小されつつあり、最新刊や売れ筋しかそのうち置かなくなるのではと心配である。
心斎橋のアセンスは、写真に限らず、かなりの数のアート系の書籍を有している。
しかし、つい先日、ふと覗いてみたら、東松照明すら置いてない。東松の写真集は持ってないし、彼の写真をじっくり見たかったので、あれば即購入だったのだが、残念。
セーフティネットとして、彩都メディア図書館がある。当然会員であるのだが、そう何度も赴くことも出来ないし、写真集を購入できるわけでもない。
やはり、amazonが写真集を購入する最も有効な手段となりうるのか。しかし、CDを試聴するかのように、内容と作家を事前調査しているならいざ知らず、私としては、調査が済んでいても、その場で一度ぐらいは内容をパラパラ見ないと購入する決心がつかない。
とすると、図書館で内容をパラパラ確認して、amazonを利用するのが現段階で最も有効な手段と言えそうである。めんどくさいなぁ。
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by stoneroses8010 | 2006-02-01 00:43 | 我思ふ
2006年 01月 21日

飲み会も、経験重ねりゃ、話題も変わる

昼起床。体が少し軽くなったような気もする。
生活関連にまったく手がつけられない状態だったので、少し時間を割くが、ほどなくして家を出る。写真撮りながら今日の店の下見。

夜からは、大学時代の友人16,7人集まって飲み。非常に楽しめた。
印象に残った点は3つ。
一つは、自分の年齢は同期の友人の生活環境を把握することで、客観視できること。自己評価とは、自分で自分を評価することであるが、それは内面によるものではなく、他者からのインパクトで見直すことが私には有効のようだ。(自己評価というより単なる比較だな)

二つは、会社経営をしている友人からラスキンが言うような言葉を発したことに対する感動。私はいま、レポートで「福祉国家の危機と労働の二極化、NEETなどの新現象の相関を考察する上での視点」とやらをお題にもらっているので、酔っ払いながらも耳を傾ける。
その友人は、いまのニューエコノミー社会に対して、終身雇用をはじめとした労働者の生活環境あっての経営基盤の重要さを指摘していた。ここまでは、そう論説する風潮も多少あるので驚かない。労働と努力に対する報いと能力を発揮することで保証される希望の提示を取り戻す。ライシュは「ネオ・ラッダイト運動」と名づけているらしい。
しかし、彼は続けて、経営者は労働者の生活、社会全体の利益に対しての道義的責任を自覚するべきだという。これはラスキンの経営者は社会から信託された立場にあり、雇用者は被雇用者の発達保障をコーディネイトする立場でもあるという主張に似ているのではないかと勝手に解釈する。これを教えてくださった教授は「こんなことを言えば世間から袋叩きにあうかもしれんが」と言っていたが、現場でそう実感し戦っている人間がいる。

三つ目は、福祉担当の行政職の先輩から、国民年金は制度的に破綻しない仕組みになっていると断言されたこと。その主張の詳細が思い出せないのだが(酩酊)、そのシステムとしての破綻は円の国際的信用と相関性が強いとのことで、共倒れにならないように税、他の社会保険からの運用で破綻しないように設計されているらしい。本当かどうかは今でもよくわからないが。こんなサイトも教えてもらったり。
http://www.takarabe-hrj.co.jp/takarabe/clock/about.htm
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by stoneroses8010 | 2006-01-21 23:30 | 我思ふ
2006年 01月 02日

予測不能な楽しさ

元日から今日にかけて、写真を焼くことと資料に目を通すことを交互に行う。
合間に年賀状を出していない方から年賀状が届いたので、あわてて準備しながら。
(年賀状を出しに郵便局に車を走らせたら駐車場で駐車待ちさせられる有様。皆様も同じ状況らしい。)

焼きあがった自分の写真は、自分でも笑ってしまうぐらい、いろいろな発見が今なおあって面白い。一眼レフデジカメで撮った時にはない感覚。
私は中判であろうとコンパクトであろうと、デジカメであろうと「これでなくては」というこだわりはない。ただ、自分で感じたイメージ、視覚体験などにできるだけ近づけ複写できる機材をテーマや状況に応じて選択することがこだわりよりも重要だと思っている。
といいつつも、デジカメで撮ったものよりも銀塩で仕上がったものには、予測不可能な「何か」が写っているようで、自分はこんなことを考えているのかとセルフイメージを客観視できるような気がする。なぜかはわからない。
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by stoneroses8010 | 2006-01-02 23:35 | 我思ふ
2005年 12月 03日

多元的な解釈への志向は己を開く

院生のダンスビデオによる発表を見て少し考えた。

テーマに沿って作品化(表現)するアプローチとは、「点」に向かっていく作業になるのではないかということ。

その場合、自分の撮っているものを作品として完成させるためには、どのような発表形態にするのか、どうやって自分の持っているテーマを見せるかを意識しなければならない。それによって、自分が使用する機材やフィルム、出掛ける時間帯、場所などが方向付けられる。
森山大道のような作風であるならば、中判カメラを持ち歩く必要もないし、カラーフィルムを使う必要もない。(使ったら使ったで面白いものができるかもしれないが)
また、Ansel Adamsのような作品にするのであれば、大判カメラだけでなく、撮影場所や時期も計算に入れて撮影に取り掛からなければならない。(Ansel Adamsの写真術はある意味科学)

テーマと作品の発表形態に応じて写真を撮るということは、見ている人間に説得力を持たせる反面、撮影する被写体の造形や見ている人の感情をテーマに引っ張り込むという一点だけを注視させる表現方法にもなる。
そしてそれは一つの点に向かっての表現方法は芯が強い反面先細りしてしまい、一つのイメージしか見ている人に与えかねない。
また、テーマに沿った作品化ための表現の取捨選択方法は、相当の注意を払わないと安直になってしまう。
たとえば、テーマ「街」の「カラフルな一面」を見せるとか、造形で見せるとか。
時間が限られてしまったら安直な取捨選択を迫られることになるデメリットもある。
しかし、そうやって構成された作品は鑑賞者側からすれば、製作意図がわかりやすく、感想を「お持ち帰り」しやすい。

そうではなく、私は、撮って作品化したものはそこで自己完結し、撮影者の手を放れて、観ている人間に多元的な解釈を提供する表現こそが大切だと今は思う。
テーマに沿った表面的な編集作業ではなく、それに加えられる「深み」だ。
表現者は受け手がどう感じるかなど考えるのではなく、むしろ自分がそれをなぜテーマにしたか、なぜそのテーマに対する表現方法をこれだと決定したのか、そしてそのなかの「美」とは何なのかを考えなければならない。
それを考え込んで、明確なビジョンを手に入れるまでは途方もない時間がかかるだろうが、時間をかけるだけの価値はある。
そういった手法によるアプローチには、自分でディテールまできっちり詰め込む必要はないのではないだろう。
受けての自由な解釈や作り手も予想しない効果を発揮できる場所は空けておいた方がいい。極端な話、自分も実はよくわからないままに創ってもいいと思う。そうすることで、見ている人間が自由に解釈できる道が開けるような気がする。
しかし、そういったものは理解されにくい。わからない人には一生わからない。観ている側は感想をお持ち帰りしにくく不満足で文句たらたらとなりうるかもしれないが、そういった作品は想像力を働かせる、もしくは想像力を膨らませるポテンシャルに溢れていると思う。

(付記)
映画の話になるけど、David Lynchの「マルホランド・ドライブ」ってそういった意味ですごい傑作だと思う。
そういや、杉本博司が「頭のなかにヴィジョンがある。映画一本分撮ったらどうなるかという観念を頭が頭にきて、その頭で見えたものをいかにして現実にするか、その技術的な手段として写真がある」と言っていた。
リンチの世界観と杉本のヴィジュアライゼーションのアプローチはなかなか素敵なコラボだと思ったりする。
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by stoneroses8010 | 2005-12-03 22:39 | 我思ふ
2005年 11月 07日

Blogの写真の方向性。

最近blogに掲載している写真に面白みがない。

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by stoneroses8010 | 2005-11-07 01:20 | 我思ふ
2005年 10月 26日

日本シリーズ2005

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日本シリーズ第4戦に行って来ました。
結果はロッテの31年ぶりの日本一。

併殺多いわ、バントは決まらないわ、打球が外野に飛ばないわでは勝てません。
仕方ないですね。来シーズンに期待しましょう。
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by stoneroses8010 | 2005-10-26 21:46 | 我思ふ
2005年 08月 30日

セミナーⅡ

次に興味深かったのは、「文化政策と社会」というセッション。

元文部省現在大学教授の方が「政策評価」について、その導入の流れを小難しく語る。
流れとしては、テクノクラートの情報の独占とその非対称性があったのだが、メディアによる批判や市民参加の風潮、そして「公共」を「皆が自由に討議できる空間」と位置づける考えにより、政策に対する「評価」制度が導入され始めたとのこと。
ただ、公務員による内部評価制度が主流となり、国や地方のやっている事業を国や地方公共団体が望む評価方法を導入する流れとなっている。
国や地方公共団体は財政難に悩んでいる。よって効率的経営によりそれを打開しましょう。徹底的に経営の合理化をすすめ、「民」に任せられるものはドンドン渡していきましょうということでアウトソーシングも進むというのである。
この教授が言っていたところで面白かったのは、「モノに対する評価は、ある見方では悪く見えても、別の尺度では評価が異なる。角度の捉え方で評価は変わる」と述べ、「そういった別の見方ができなければ、公立施設は経営合理化の観点からすればほとんど廃止せざる得なくなる」と続けたところ。
要はいかなる「目的」を持った評価ができるか。それによって評価の指標も異なるということだ。
また、評価というのは得てして「政治的な力学」が働くものである。つまり何らかの目的を達成する前提で指標を編集する作用が働くことを述べていた。

文化庁の役人の方が、現在の文化政策の現状を述べる。
グラフと数値による文化振興の経緯の説明。
文化政策は、情報公開によって「官」の不振を招いているから「民」の力の導入が求められているというちょっとよくわからん論理とだからこそアカウンタビリティが必要という公務員の鑑のような見解。
地方公共団体においては、教育委員会は文化財関連を扱い、ソフト事業やパフォーミングアーツは市長部局に流れている傾向と人事異動による行政のパフォーマンスの低下を防ぐためのプロパー職員の配置による補充が必要という教科書に出てきそうな意見に「違う意味」で感動した。

この方の見解で面白かったのは、学者の方やNPOの方は税制について勉強された方がよろしいのではという指摘であるが、この指摘は後の質疑応答で猛反論を喰らう。
この方の考えでは、どうも文化をテーマにしている法人の税制の優遇化について、それぞれ対応がまちまちでいいのか、一元化すべきなのか、優遇するならどうコンセンサスを取り付ければよいのかということが頭にあるようである。
よって、税制についての見解として、国民がどういった税制を望んでいるのか意見を吸い上げ議論すべきである。税についても国民の希望も多様であろうとのこと。
また、税制とは政治的な力学で動くものであるという。よって文化庁は税制に対しての方針はないと述べた(これは方針を立てる必要を認識しているものの、今は立てていないということ)。だからこそ、その政治力に対抗できるような国民を中心とした政治的な組織が必要と続けた。

しかし、どうもこの方の考えはなじめない。まず、国民や法人が望む税制を考えれば「取られる税金は少ない方がいい」に決まっているわけで収拾がつかなくなる。控除がこうあるべきだとの議論は出来ても、芸術文化のために税制をどう導いたらよいかという議論はできない。
というのは、税についての、個人の情報の非対称性は圧倒的に根深い。
サラリーマンは会社が全部やってくれるので勉強しなくてもいいし、アルバイトは納税意識が希薄。企業でさえも、滞納することはある。確定申告を経験する自営業者のほうがまだ税に対する意識はある。
なぜこうなるかというと、税に対する教育が日本にはないためである。国民の義務として掲げられているも、なぜ納税するのか、はたまた何を納税すればいいのかわからない。
なぜそういった教育がなされていないかというと、日本の税制はかなり歪なものになっているからだ。たとえば、所得税は現年で源泉されるのに、地方税はなぜ前年所得を課税対象とするのかなど。そのあたり内容や理由を詳細に教育していくと、議論を呼び起こすことになるので、「寝た子は起こすな」というべきか、意図的に教育を施さずに大人しく納税を促しているような側面があるように思う。

まあ、とにかくこういったことで税に対するリテラシーがない限り、「(芸術文化のための)税に関する国民による議論」とやらは不可能に近いなと漠然と考えている。というよりも、税制が政治的な力学により左右される文化庁の力が及ばない領域であるという考えから、国民に議論を丸投げしているような感覚にすらなる。

そうそう。後の質疑応答でNPOの方が、NPOの芸術文化事業に対する行政のバックアップについて考慮して欲しいとの意見をやんわり述べられていたが、それに対する元文部省の教授は「NPOもそういった事業に対するパブリケーションが必要である。政治的な立場にある人間のリテラシーを育むような取り組み(政治家を招待してその素晴らしさを堪能させる)をすべきだ。アメリカを含め、国内の少ない施設の成功事例にはそういった努力がある」と述べた。

私は、どうやったらその政治的な立場の人間とリテラシーを育めるような仲になれるのかではなく、その成功事例において、どういった立場の人間が政治的立場にある人間とパイプを持つことが出来たのかに興味が沸いた。
というのは、事業やレセプションにそういった人たちを呼び込むには、それなりのパイプが前提となるからである。崇高な目的を持って完成度の高い事業や徹底した広報を行っても、パイプがなければ呼び込むことが出来ない。そういった人脈を築くには、どの人とつながりを持ったらよいのかは理解できても、どう手をつけていったらよいかというのが不鮮明であり、そういった情報も事業を行う側の政治的立場によって入る、入らないの差が出てしまうのではないだろうか。
だから、現状に即した「もっとパブリケーションをしなさい」という議論よりも、そうではなく、そういった力学が作用するからこそ行政がそれに対して、どうフォローできるかという議論のほうが建設的であると思える。
「文化は政治力」とは言うものの、そう政治力を持った人間などいるはずもなく、また、わんさといたらそれは政治力とは言わない。格差が生じるからこそ「政治力」は力を持つのである。
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by stoneroses8010 | 2005-08-30 12:57 | 我思ふ
2005年 08月 29日

セミナーⅠ

神奈川へセミナーのために泊りで出掛け、文化政策におけるシンポジウムや発表などをいくつか聴講する。内容はどれを取っても専門的でかつ難解な用語が連続で発せられたため、素人に近い私としては、噛み砕くというよりも、その言葉の波をどう色付けして整理していけばよいかを考えることで必死であった。しかし、そんな頼りない私でも2,3の疑問にぶちあたる。

「地域における文化政策と教育・研究機関」についての発表及びシンポ。ここでは、文化政策という分野を大学で学問として取り扱い、どう学生に教育を実践しているのかという現状報告と地域というフィールドに学生が飛び込み、デザインソースを提供しながら地域とのつながりを強化する。その活動をいかに発展させていくべきか、またそれを通じて個人の能力をいかに創造的に発揮させることができるかという試行錯誤の実践の報告が主だった。

そのため、各大学ではインターンシップ制度を設け、学生をバンバン公立施設、企業などに送り込むことになる。そこで、大学は、学生に世の中がどういった問題を抱え、どうそれに対して解決を図ろうとしているのかを知って欲しいと狙いを持っている。正解を発見させるのではなく、実践方法を感じ取れといったメッセージ性である。事業の表面だけでなく、その裏側の税務、契約、事業の持つ付加価値などを様々な角度から見てこさせようとするのである。報告者もそういった願望を訴えていた。

しかし、ちょっと待って欲しい。インターンシップの受入れを過去に担当したことのある私としては、大学の願望とそれに対する処理の仕方に疑問を感じる。
大学がインターンシップ受入を要請するときは、だいたい、時期や人数を明記した事務文書が届き、こちら側がその可否を伝えるという「出前の注文」のような作業で終わる。そこに大学のメッセージ性はない。
私が担当した時は、施設を動かす表面だけでなく、裏の仕事も見せようと契約や打ち合わせ関連の事務も極力肌で感じられるようにしたが、学生にインターンシップの意義が伝わっていないのか上の空状態。
結局、イベントの手伝いをさせた時が一番嬉々とした顔をしており、「あー楽しかった」という小学生の夏休みの思い出のような経験とともに終わってしまうのである。
そもそも大学がインターンシップ受入をさせる2週間というスパンでタイミングよく、大学側が期待するような局面に遭遇することは稀である。
また、受け入れ側も、大学のメッセージ性が弱いためか、はたまた、「インターンシップ」という制度の不理解のためか、学生がやってくることに対して、ほとんどナメきっている。
「遊びに来たのだから、楽しい思いだけさせりゃいいや。なに、学生を評価しろだって。まあ、単位落とすのもかわいそうだし、いいように書いてやるか」
大学のメッセージ性の弱さ、学生のモチベーションの希薄、受け入れ側の不理解というこの三位一体が作用して、「インターンシップ」制度の発展を妨げているといっていい。2週間というショートスパンがさらにネックとなる。もちろん、すべてがそうであるとは言わないがそういった現状もあるということの理解は必要である。
私はこのシンポでインターンシップの意義を十分に理解することができた。この熱意を実際にインターンシップ受け入れを要請する際に、受け入れ側に伝えるような工夫をして欲しい。
おそらく、各大学がインターシップ制度を導入し始めて、10年も経っていないと思う。いまなら修正ができる。
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by stoneroses8010 | 2005-08-29 17:55 | 我思ふ
2005年 08月 13日

出会う人すべてが師匠

前の職場へ陣中見舞いに赴く。私が以前担当していた主催事業の真っ最中だからだ。
そこで、1年半ぶりぐらいに、私が担当していた時にカウンセラーをやっていたが、諸事情によりやめてしまったコに出会った。

大学のインターンシップの関係で再び施設で実習を受けているらしい。再会を喜びしばらく話す。彼女は大学に通学しながらモデルを目指すべく東京にも行ったり来たりの生活をしているという。定職があるわけでもないので、出費が重なるわけだが、自分への投資と割り切り、その道を目指す過程の苦しさとそこから生まれる楽しさに充実した毎日を送っているとうれしそうに話す。

そして、私に感謝しているというのだ。どうも彼女は、カウンセラーをやっていたときに、私と施設の仕事をしていて、インフォーマルに話した何気ない雑談の中で、私が彼女の背中を押す言葉を発したというのだ。実は私もこの言葉のやり取りをある程度覚えていたが、それが彼女を突き動かすほどのものになるとは思いもしなかった。

私は人に何かを伝えることができるというのは、自分自身が生きていく中で、もっとも大切な経験だと思っている。それが、「言葉」というもので伝えることができ、人を動かし、動かされたその人が何かを生み出そうとする事実に強く心が動き、これからの自分に対しての刺激となった。

人から教えを受けるというのは、なにも自分より年配の人間とは限らない。出会う人すべてが先生とはよくいうが、それを肌身に感じる。だからこそ、あらゆる場所に身をおいてみたい欲求に駆られてしまう。

金子郁容は「ボランティア」(岩波新書1992)の中でボランティアとは、結果や評価など関係なく自分の感情や関心が働くある状況のなかにコミットメントをはかり、自らの意見や考えや行動を提示することで自らを投げ出すバルネラブル(傷つきやすい)な存在だという。その反応は全面的に人に委ね、それに対して、さらに自分が情報や意見を提示して再び反応することでネットワークを築くことを「つながり」とした。

なぜこういったことを思い出したかというと、「あらゆる状況に身を置こうとすること」に、「バルネラビリティ」を感じたからだ。それなり、使命や責任、人間関係が生じ、労力と資力を要する時もあるのだから、すべてのことが楽しいという一言で済ませられないのは当然のことである。自分自身が傷つきやすい存在になり得るのである。
ひょっとして気軽に好きな活動に生涯学習の一環として参加する博物館などの文化ボランティアのコミットメントとはこういった心理作用なのだろうか。

また、一人カメラ屋でバイトしながら、IMI大学院に通学しているコを話す。彼女も「写真」に対して真剣になる楽しさを感じているようである。技術だけでは片付けられない自分の写真に対する思考の大切さを噛み締めているようだ。その場のノリで写真展でもやってみようかという話が浮上する。いい機会だと思うが、お互いの都合もあり、予定は未定といったところ。とりあえず、9月に撮影と互いの作品を見せ合う方向で話が進む。また予定が詰まってしまった。うれしい誤算でもある。
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by stoneroses8010 | 2005-08-13 23:21 | 我思ふ
2005年 08月 10日

首位決戦

阪神ネタ。

明日より名古屋ドームに向かい、首位決戦を観てくる。毎年恒例のロード阪神応援ツアーである。10日の試合は、先発の福原が6回までなんとか粘りこんで、継投の末、勝利をもぎ取った。

当初、私の予想は今日の試合も落として、首位から転落するものの、翌日の試合の猛反撃によって、早くも首位を奪還し、甲子園のライトスタンドよろしく、六甲おろしが鳴り止まぬドームで、日ごろストレスを晴らし、美酒に浸りつつホテルで就寝というものであった。しかし、首位堅持ということで、さらにゲーム差を離しての美酒となりそうである。
と、書きつつも、中日の明日の先発は川上だろうから、勝算は薄いと考えている。

現在手作りスタジオを部屋に作製している。暗室を少し改造したものである。夏場どころか、最近暗室を起動させていないので、いっそ静物が撮れる小規模のスタジオにしたらと考えたのである。ライティングの勉強も再度してみたかったので。

ライトは一灯のみしかなく、レフを少々持っている程度であるが、天面と側面へのライティングの当て方による光の回り方が必要かと思ってもう一灯購入が必要かも。そうなれば、部屋に置いてあるものの位置も微妙に調整する必要があり、この暑い中、そして研究を進めながらなのでなかなか遅々として進まない。8月もあっという間にバタバタで終わりそうである。
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by stoneroses8010 | 2005-08-10 23:35 | 我思ふ