カテゴリ:我思ふ( 58 )


2005年 08月 06日

ここ2週間

Blogを久々に更新。
仕事に時間的に追われてわけではないのですが、精神的にプレッシャーの日々が連続し、かつレポートと夏季に向けての研究の発表の詰めを、仕事終わりや休日にせっせと取り組んでおりましたら、かなり疲労困憊してしまった。
写真撮ってたり、何かしらのビジュアルを作製している時は、100時間も力入れれば、それなりのカタチが見えてきて、体力的なつらさに見舞われながらも半笑いをかみ締めて、まだまだ改善できるという上昇志向の充実感に取り込まれる絶頂の気分が味わえた。しかし、一つのことに細部にわたって深く取り組んでいく研究という作業は、少しの時間ではビジュアルとして形にならないので、自分の立ち位置見失いストレスが溜まることが多い。また、そういったことをイメージできていない現状に問題があるとわかっているので、さらに自己嫌悪という悪循環に陥る。
現在はある程度アウトラインが形作られてきたので、精神的な平静を保っていられるが、今度はやるべき作業量の多さに愕然としている。
サーベイリサーチの必要を作業を進めるたびに感じていたので、そのためのアンケートを作成し、ようやく近日中に発送というところまで漕ぎつけることが出来た。

一つのことに集中しすぎると今まで活動していたことが疎かになってしまうのはよくあること。自動車も一年も運転しなければ、カンを取り戻すのに時間がかかるわけだし、カンを取り戻したとしても、それは以前の自分に戻ったわけではない。
ここに継続することの大切さを痛感している。というわけで、自分にとって好きなことや楽しいことを、「仕事」や「趣味」にするのではなく、「離れられないもの」とすることを計画中。
生きるということは求め続けるということに等しい。

夏になると色々あるもので、私が計画したわけでないが、行かなければならない泊まりの遠出を今月2本抱えている。この手続きもそろそろ進めなければならない。
出費も当然増えるわけだが、自分への投資と思って割り切っている。何が回収できているかは今のところよくわからないが、人生も終盤となった時に「回収」が実感できているのだろうな。そうありたいと思う。
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by stoneroses8010 | 2005-08-06 23:44 | 我思ふ
2005年 07月 03日

雨とチョムスキー

雨。
日曜しかまともに睡眠がとれないので、午前中はずっと寝ておくことにする。生活のための雑事をこなしてから、レポートを2本仕上げる。所要時間3時間。雨が小康状態となったので、スタバへ出掛けて、昨日買ったチョムスキーの本を読む。実は昨日、「映画日本国憲法」を観た後、「チョムスキー9.11」が上映されるので、続けて観た。なんといったらいいのだろうか、コメントできない。圧倒的な思想のスケールに直面したかのようだ。2時間にも満たないドキュメンタリだったが、映画だけでは、自分の中でなにかが蓄積されているのがわかるが、それをどう言語化すればわからない。ただ直観でなにかに触れたような気がして、もう少し深くゆっくり考えて見る必要がある。

最近、もう一つ興味がある分野として、「知識創造」「知識経営」という経営学のパラダイムがある。知識とは暗黙知と形式知の相互作用により創造されるという理論である。暗黙知は共同化、表出化、連結化、内面化の知識変換モードを経て、形式知に至り、それがやがて新たに暗黙知となり、スパイラル状に新たな知識が生まれるというものである。これを研究に援用したいと考えるが果たしてうまくいくかどうか。ただ、この理論をもう少し前に知っていて事業に活用できれば、ちっとはマシになったかもということは経験上、なんとなくわかる。果たして・・・。
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by stoneroses8010 | 2005-07-03 23:52 | 我思ふ
2005年 07月 02日

とある見解

いやー、心地いい。
ある教授の見解。
研究なんてのはね、主観でいいですよ。言い切る形でかまわない。言い切って他人と差がでたときに、なぜその差で出たのか考えればいい。大学生に要約なんてやらせてもダメ。それなら、授業のなにが面白かったかとかつまらなかったかとか考えさせる方がマシですよ。

あと、こんなことも言っていた。
私はね、企業で働いたことがないですがね、イメージするんですよ、そういう状況がどういうことかということを。自然科学は実験を繰り替えすでしょ、(社会科学は)それを事例を踏まえて頭でやる。そういう訓練が重要なんですよ。訓練してください、訓練。
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by stoneroses8010 | 2005-07-02 12:03 | 我思ふ
2005年 06月 19日

披露宴のライブ感

今日は友人の結婚式に出席。総じてスピーチ重視のオーソドックスな式で、滞りなく終わったので良かったと思う。
式に出席するたびに思うことは、音楽との間である。披露宴会場に新郎新婦が入場してくる時に、彼らの選択した音楽が場内に響く。響きだすと同時に扉が開き、彼らが入場してくる。大抵の式がそうなのだから違和感を感じる。

彼らが音楽を選択するということは、その音楽とともに入場していくイメージができており、カップルごとにイメージの差は当然生じる。なのに、ほとんどの式で新郎新婦が入場するときは、「音楽が鳴り響くと同時に入場」である。
たとえば、私は年に数回ぐらいしか舞台を観にいかないのだが、舞台にいる役者の身体の動きとBGMや音響とのマッチングや動き出すタイミングがやたら気になるタチである。観てよかったと思うものは、そういったことに細かい神経が行き届いているように感じる。
私が言いたいのは、なにも入場音楽のジャンルが偏る(ゆるめのR&B)ためにそうなるとはいえ、音楽が鳴り響いても、来賓のすべての注目が集まって5秒ぐらい経つ「間」があってもいいのではないかということである。少し焦らしつつも、BGMとリズムとマッチングした入場。

披露宴はある程度制約された時間であり、かつスピーチやらで長時間にわたるので、少しでも時間の短縮を心がけたいところであるのはわかるが、何か慌しさを感じるので、試しに各所にそういった演出をほどこし「間」を取りながら、時間に寛容になって披露宴をやったらどうかと思われた。しかし、これは良くない。簡単に言うとダレる。映画も舞台も設定された時間の中で、観客と作品が一体となって成立するものである。披露宴もそれに似ており、来賓と新郎新婦が同じ空間で、決められた席で、新郎新婦、親族、友人、会社の同僚といった決められた慣習的役割を演じなければならない。全員が一体となって(意識するかしないかと別として)成立する行事と言えるからだ。とすると、映画や舞台同様に時間に対してシビアになって参加する人間がどう感じるかを常に考える必要がある。そういった状況の中で、先ほど述べた「間」が考慮されている披露宴は高度に演出されたものと私は思う。
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by stoneroses8010 | 2005-06-19 23:29 | 我思ふ
2005年 06月 19日

自戒の意味も込めて

以前どこかのblogで「ブログでは皆自分が特別の人間のように物事を語る」と評している人がいて、思わずディスプレイの前で膝を打った。

皆が皆そうであるとは言えないが、なぜそう自分を特別視したがると疑問に思うものも存在する。一日の出来事やそのとき思ったことを淡々と語っているものや、匿名性を犠牲にして自らのスタンスを示し思想を語ることは大いに敬服するものがある。そこまで明らかにしないでも、自らの職域や経験を活かし、物事を冷静に分析する、あるいは評するブログにも秀逸なるものが多く、これも良しとする。

一番散見されるのは、一時の村上春樹を気取ったようなよくわからないものだ。(これは別に村上春樹がよくわからないというわけでない。あれは立派なオリジナリティのある文学です。念のため。)いわゆる亜流というヤツである。写真では、知識の大小の加減でだれの何の影響を受けているか明確にできずとも、コンセプト、思想が借り物かどうかなんとなくわかる。それは、ブログにも通ずるものがあり、それなりにBlogを巡っている人間なら誰でも見抜くことができるだろう。なのに、書き手はそれを意識しない。内田樹氏に言わせれば、ラカンを引き合いにだされて、「私が語っているときに私の中で語っていることは、まず、そのかなりの部分が「他人の言葉」とみなして大過ありません」ということ。それも理解できるがどうも気に入らない。あらゆる分野で明らかに素人からみてもパクリを思えるようなものが、大成した試しはないだろ。
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by stoneroses8010 | 2005-06-19 00:48 | 我思ふ
2005年 06月 13日

ちょっとした苦慮

最近、情報を編集して文字にする作業に追われているので、客観性が作用しているのか、何かを造っているときの火のついたような感覚にならない。ストレスでもある。見る目は失いたくないので、資力、労力、体力の続く限りは身体を動かすことにしている。しかし、それと同時並行して、思考を重ね、手を動かして「造る」ことをしないと身体が劣化していくような感覚になる。時間の余裕がないため、気合入れて取り掛かることにならないのだが、デジタル一眼レフ導入で、写真においては時間短縮と効率性が見込めそう。「見るものは大抵見たんで、ぼちぼち自分のもの造ります」と大学時代に思い出せないが、誰かが言っていた。そうそう、この青っちょろい背伸びにも似た感覚だよ。これが必要。それほど時間は残されていない。
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by stoneroses8010 | 2005-06-13 20:26 | 我思ふ
2005年 05月 27日

助ける、助けられる

業後、前の職場(社会教育施設)の後輩と飲む。しばらくして、前の職場のカウンセラーらが合流。酔いも適度に回ってきたところで、いきなりインタビュー敢行。お酒も入ってるので、簡単なものを一つ。「なぜカウンセラーしようと思ったの」ということである。回答として
1) 何か新しいものが発見できると思ったから
2) 子どもが好きだったから
3) 皆で騒ぐのが好きだったから(文化祭のようなノリ)
に大別されることがわかった。
普段、ボランティアと言えば、献身的に困っている人を助けるといった自己犠牲のイメージが短絡的に挙げられるが、少なくとも彼らはそう考えてないようだ。
「助ける」といえば、「助けられる」主体が存在するわけだが、それはなんだろう。施設の利用者か、それとも施設か。利用者の場合、リサーチしたわけではないのでなんとも確証あるものでないが、カウンセラーを依頼する理由は単に子どもと遊んで欲しいといったことから、プログラムの専門的総括まで幅広い。共通して言えるのは、利用者は、カウンセラーを施設の職員同様、プロとして見ているようで、講演会に外部講師を呼ぶような感覚に近いものがある。少なくとも、人手が足りないので助けて欲しいと懇願するものではない。では施設の場合はどうか。施設が、カウンセラーを養成して、助けられる部分もあるだろうが、ボランティアを維持するための予算取りから被服貸与などの実務的アプローチに加え、ボランティアとの信頼関係を築く時間を持つといった精神的なアプローチなど、事務量は格段に増加する。事務事業を助けとして安価な労働力と見なしカウンセラーを養成しているのではないと言える。
と考えると「助けられる」主体は存在しないことになる。その主体が存在しないと仮定すると「助ける」という主体も存在しないことになる。というより、「助ける」「助けられる」
という考察は無用となる。

ボランティアの古典的定義として、「自発性」「無報酬」「利他的」と挙げているボランティア研究がある。このうちの「利他的」とは他を利することを意味するのだが、別にボランティアする人間が利他的であると意識するわけでないし、活動することで自分を利していることもある。たとえば、普段体験できないような出来事に遭遇して、貴重な経験になったというエピソードは、ボランティアする人間にとっては、理由1)で挙げたものを現実化させ、カウンセラーになることの醍醐味を味わうことでその欲求を満たすことになり、自分を利することになると言える。とすると、「利他的」はこの場合「利己的」と同一になっていることにならないか。さきほどの「助けられる」「助ける」といった区分と「利他的」「利己的」であるという区分と同様に同一になっているのかもしれない。

*「カウンセラー」は「ボランティア」と読み替えても差し支えない。
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by stoneroses8010 | 2005-05-27 22:28 | 我思ふ
2005年 05月 17日

続けるということ

偶然、大学時代の後輩に出会う。彼とは6,7年は会ってなかったと思う。彼は博士後期過程まで進み、ひたすらハイデガー研究を行っていた。やはり哲学一筋ではなかなか職にありつけなかったようで、現在公務員をやっているとのことである。仕事の傍らで学会での発表も行っていくと語っていた。好きなことをやり続けた結果、職にならなくても、楽しくなくなっても悪いことではない。それが、自分が生きていく中で離れられない、続けなければならないと存在となればいいのではないか。(欲望と言えるかも)
ただ、「やっていく」 のみである。
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by stoneroses8010 | 2005-05-17 23:05 | 我思ふ
2005年 04月 22日

採算性と教育

教育委員会の職員の方と飲む。今回の職場異動で前の税務関係の職場から教育に出戻りした形となった。最初はどうでもいいような愚痴から楽しく始まったが、そのうち、教育委員会の持つ施設の指定管理者制度へ論点が移る。興味があるだけに思わぬ展開にちと熱くなる。

その方がいうには、持っている施設が指定管理者制度によって、業務運営管理者を募るなら、施設が都市に近いという利便性もあって、候補者が殺到するだろうとのこと。私としては、民間の参入もやぶさかでないが、地域のボランタリー団体(NPOなど)もそれに参入して欲しいところであると意見すると、採算性がとれるかどうかが鍵になるという。私としては公立施設がボランタリー団体との協働によって、地域の個人の潜在能力を開放させ、市民の自主的な運営参加と課題の提示、そして批評と創造の場の確保が見込まれるのではないかとの論旨を展開した。しかし、その方は税務関係の職場にて、ある程度「底」の生活も見てきている経験もあってか、民間にしろ、NPOにしろ、即時的に採算性が取れるプレゼンできないようでは、市民は納得しない。現在の直営による、地域の任意団体とのゆるやかな協働は、もはや持ちつ持たれつのなれあいとなり、指定管理者制度がその延長にあっては困るとの反論を頂いた。詳しい話は書けないが、それもある程度は納得せざる得ない現状が理解できた。19世紀の経済学者W.モリスは市民の小住宅の中に芸術文化のデザイン性に富んだ調度品を導入することで、生活(生命)を豊かにすると言ったが、「底」の生活は、それすら適わない現実があることを、私も知っている。

だからと言って、この方の言い分にも了承しがたい。それでは、いつまで経っても、施設の運営が採算性の有無に限定されてしまい、施設の本来の教育機能を発揮できずに終わってしまう。芸術文化の話に限定してしまうが、市民が美の享受能力を発達させるには、その学習と教育が必要とJ.ラスキンは言う。そうであれば、施設はその教育のための行政の財源投資の場として存在するべきではなかろうか。地域のボランタリー団体による指定管理者との実践的協働で、行政はラスキンの言う教育的役割を果せるだろうし、その指定管理者が芸術文化への享受能力の底上げを運営の大儀として掲げるならば、二重三重の相乗効果も期待できる。それでかつ採算性が取れるならばもちろん言うことはない。
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by stoneroses8010 | 2005-04-22 23:12 | 我思ふ
2005年 03月 30日

陣中見舞い

以前担当していたボランティア養成事業のボランティアの学生たちが30日、31日に自ら企画、運営している宿泊事業やっているというので、差し入れを持って陣中見舞いする。自分が担当していた時には、まだ初々しかった彼(彼女)たちが精悍な顔つきで周りを気遣いながら冷静に判断を下し事業を楽しむ姿を見ることができ、人間の成長を肌で感じうれしくなった。その反面、事業中にこういうところに気づいて欲しいという細かいことから、ボランティアの養成制度のあり方に至るまで、いろいろ改善したいところも見えつつ、口を挟めないもどかしさを感じた。

彼(彼女)らが今、「楽しんでいること」は非常にいい経験だと思う。自分が楽しくなっていると同時に、気づいたら周りが楽しんでいたという状況を作っているからだ。が、何かもったいない。深刻に考える必要はない。事業で見せる「笑いながら楽しむ」その裏で、もっと真剣さを持って、必要な知識の吸収やマネジメントに貪欲になり、「意見をぶつけながら」「悩みながら」対話して事業を組み立てることでちがった楽しみが生み出せるはずだ。そう思いながらも、彼(彼女)らの顔を見ると、こういうのもいいかと思ってしまうのである。
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by stoneroses8010 | 2005-03-30 21:12 | 我思ふ