カテゴリ:映画( 54 )


2009年 08月 08日

久々に映画のこと。

先ほど、映画を見てきた。
「レスラー」 ミッキー・ロークである。なんだか元気づけて欲しくて。

かつて栄光に満たされ、今はおちぶれたレスラーが、そろそろ年だし、孤独だし、家族とヨリ戻そうとしたり、安楽を求めようとするも、やはり孤独だろうとなんだろうと自分の居場所はリングであり、ファンが家族なのだという話。

孤独なミッキーが心臓手術をうけた後、トレーニングを再開したとき、やはり無理がたたって、ロードワーク中に、枯れ果てた雑木林のなかでうずくまる。なんだかいたたまれなくなり、身にもつまされる。

が、紆余曲折して、やはり自分のやりたいこと、居場所を明確にし、ラストファイト、ラストシーンまで帰結していく流れはよかった。

なんだか久々に爽快な映画。

内容的にはまあまあなんだけど、爽快に感じた理由は、(自分の環境はさておき)最近邦画に食傷気味だったというのもある。

最近、テレビ的味付けがされた邦画が多くなってきて、どれも期待はずれだった。

「剣岳」は、ヤマにハマり気味だったんで、かなり期待したが、割とフツー。ロケ地も実際の土地らしいが、
なんだか、きれいなだけで、現地行かなくてもいいじゃんと思った。
こういうとき、監督らが口にする「リアル」って何?と思う。

「ディア・ドクター」は、西川美和作品はすべて見てきたので、漏らさず見ようと行ってみた。
が、自分の予備知識(上映前の広報的な)が多かったせいか、まあまあという印象。

西川さんは、今回いろんなところに出て、作品について、コメントされてた。たぶん、本人も不本意だったと思う。そんなコメントより作品見ろよと言いたかったと思う。
でも、作品をプレゼンする以上、なんらかのわかりやすい言葉が求めれ、そのコメントもまた逸脱してないから、その言葉の印象が強く,作品を見ても、なるほどとしかならない。

鶴瓶が八千草薫を身を隠しながらも、訪ねていくラストがよかった。なんで?というわからなさがあるけど、物語に伏線らしきものがある。
でも、わからないというギリギリのところ。

2時間というところで、変に帰結させようとするから、わかりやすくしようとするから、なんだかしぼんだ感じになる。
これがなんだが、テレビ的に感じる。

なんというか、前もいったかもしれないけど、セリフやら、場面展開などがなくても、間や空気や光のゆらぎ、
人物がだまっていても、もどかしさを覚えてしまいそうなぐらいの、こちらがいろんなことを想起できそうなぐらいの心のゆらぎが
描かれるものが好みだ。結局、すべてはわからなくてもいいので。

久々に映画のこと、書いたな。
図書館で、フェデリコ・フェリーニを借りに行く。
[PR]

by stoneroses8010 | 2009-08-08 01:39 | 映画
2009年 01月 13日

年末は映画でした。


年末にやったことと言えば、写真を焼くことと映画見ること、大掃除、忘年会。

暗室で友人と一緒になり、お互いたいそうに考えてもないのに、来年の抱負を言い合う。
ほぼ妄想に近い。焼きおさめ。

映画は「未来を写した子供たち」「トウキョウソナタ」「青い鳥」
「未来を写した子供たち」では、インドの赤線地帯に住むこどもたちに写真家がワークショップ形式で写真を教え、
表現することとその可能性を教える。
教わった子供の一人(彼は、その後ニューヨークの大学で映像を学ぶことになるのだが)が、写真の国際大会みたいな
ところで、一枚の写真について、感じうるところを語りだすシーンがあって、その表現の巧みさに凄味を感じた。
そんなに教わって、年月もあるもんでもないし、子供のいうところだが、リテラシーの瞬発力というのか、反応というのか
そういったものは必要で、一枚の写真を強くしたいなら、一枚にどれだけ感じうるところがあって、それをどう言葉にして表現できるのか
ということは筋肉としてつけておくことも大事と思った。

「トウキョウソナタ」は年末でレイトとあってか、私一人。はじめてじゃないのか、独占。
経済や社会の変化によって、一戸建ての核家族のそれまでよしとされてきたような価値観が揺らいでいる現在を
見ているような気がした。それはある意味痛快であり、ある意味外因的なもので簡単に揺さぶられる怖さをはらんでいる。
いや、違うかもなぁ。仮に父親が、リストラされずに給料もらって、家に帰ったとしても、長男は海外に行っただろうし、
次男はこっそりピアノをならい、母親も同じような気分だったかも。
どうであれ、家族はお互いを知らなくなってきているのだな。そして、お互いのことを話せなくなってきているのかな。
俺はこう思うとか、言い合うんじゃなくて、ああ、もうわかんないだろうなぁと言って、話すことをショートカットして
コミュニケーションをシャットアウトしちゃう。
でも、ミクシィとか、バーチャルなコミュニケーションの場では、結構ぶっちゃけたりする。
SNSは話す相手が、実物を知らない限り、イメージでしかないのに、そのイメージの相手に対して、ぶっちゃける。
でも、そばにいる実体ある相手には、ショートカットしたりする。
たぶん、長男もイメージだけで、海外に行くものだから、実際に異なる現状を見て違和感を覚え、最後に実態と向き合うために「海外に残って考える」ことを選択する。

「スクラップヘブン」という映画で、オダギリジョーが、想像が足らないために、どうでもいい事件が起こると言うシーンが
あった(ように思う)
これは、(実体どうしの)コミュニケーションで、互いのことをもっと想像しないために(まあ、こういったら怒るかなとか、
こうしてほしいのだなとか)、フリクションが起きるということをいっている。

実体どうしのコミュニケーションでは、イメージがおぼつかないのに、どうしてバーチャルなコミュニケーションではこうも
イメージをもって、コミュニケーションするんだろう。いいか悪いかも含め、よくわからなくないけど。

黒沢清さん、アエラのなかで、面白い予言してたな。

「青い鳥」
事件の起こった後、先生のとった態度によって、生徒たちの心が揺らいでいく、動いていく。
これといったことは起こらないのだけど、心のゆらぎだけで表現できる映画っていい。
間に挿入していく映像が空気感を作る。
「天然コケッコー」もそんな感じだった。
[PR]

by stoneroses8010 | 2009-01-13 23:16 | 映画
2008年 02月 10日

露出計 祝い 歓喜の歌

2月も、はや10日。
展示の準備しつつ、来年度の構想を固めつつ、一方で一つまとめておいて、春先の新世紀や清里などに出して行きたいシリーズがあったので、それを構成を組みなおしながら、ブラッシュアップする。
まあ、フォトプレミオなどに選出されずとも、自力で個展かなんらかの形式で表に出したいものなので、あまり焦りはないけど、とりあえずやることはやっておく。
その合間に今回のDMをギャラリーなどに配りに行ったり、ポートフォリオ用の冊子が注文どおりに届かなかったので、調整したりと細々なにかと忙しい。
でもって、シゴトは当然休めない。

最近ビルダーの使い方をマスターしつつあるので、来年度は自分のワークを紹介できるWebを立ち上げようと画策中。
京都の中古カメラ屋で入射・反射両用のセコニックの露出計を中古で手に入れた。なかなか使い勝手がよい。

最近は、職場の後輩のコが結婚したので、それを職場の連中とお祝いしたり、4月から教師になる友達のお祝いしたりとその他細々飲み尽くし。2月に入って連続で何回か飲みがあったのだが、1月は全く飲んでなかったことに気づく。とりあえず酔っている時間がもったいない。(それでなくてもあまりないのに)

今年初めて映画を観た。「歓喜の歌」
非常に面白かった。
文化会館の職員のダメっぷりを見て、こういう職員は現実に存在する
と凹まされる思いがした。もっともこういう輩はどこの業界にも存在する。
まあ、そんなことよりも、素晴らしいと思ったのは、人がそれぞれ好きなもの(こと)に対して持つ「想い」だ。物語では、パート勤めのママさんたちが仕事終わりに、または合間を縫って自分の好きなコーラスに参加する。忙しいからこと好きなことに打ち込む。それは端から見れば、文化会館の職員が最初に感じていたような「たかがママさんコーラス」とされるものに見られる。だが、その「想い」を高ぶらせ、ブラッシュアップしながら、人に伝えようとする姿は、プロであれ、アマであれ、なんであれ素晴らしい。
文化会館の職員が、自分たちのミスに誠意を持って対処することが足りなかったことに気づき、とんでもなく大晦日のイベントを成立させようと尽力する。そうしようとしたのは「誠意」が発端でありながらも、コーラスのメンバーの「想い」をしだいに受け止め、なんとかその「想い」を汲んでやりたいとスライドさせるところにこの映画の心打たれるところがある。(「あなたは出なくちゃならないんです」というセリフにシビれた)
小林薫演じる主人公がダメながらも奮闘する姿がなんとも言えない。とりあえず、DVDは買う。
[PR]

by stoneroses8010 | 2008-02-10 21:52 | 映画
2007年 08月 20日

デペイズマン ジャームッシュ

すっかりブログ更新ご無沙汰。
夏ですからいろいろあるんですといいたいけど、もっぱら仕事にやられ気味。盆など関係なくね。
あいている時間はもっぱら撮影。昼間はとてもじゃないが、体力持たないので、朝早めに出て、必要あれば夜も出ることを繰り返す。フィル現する時間も体力もないので、モノクロであってもラボに出すようになってきた。せっかくデベロッパー買ったのになぁ。
加えて、9月中旬にむけて、仕込まねばならん知識もあり、勉強中。

「デペイズマン」2つの異質なイメージが同一の場所に並置されることで生じる「驚き」とその美学。シュルレアリストのマックス・エルンストがコラージュなどで使っている。
最近フラフラ歩いてて思うのは、この「デペイズマン」。町中が「デペイズマン」の宝庫。
なんか単純なことを見失っているような気がする。

ジム・ジャームッシュ関連の映画を観続ける。
「ミステリートレイン」(1989)
以前、ジャームッシュがエグルストンらのニューカラーの影響うけているように思えないと書いたけど、撤回撤回。これ、影響が随所に見られるわ。
とくに、人物が町並みをバックに右から左へ歩いて行くシーンとか。
永瀬正敏や工藤有貴も出ている。若い若い。永瀬はとく声まで違うし。
「ナイト・オン・ザ・プラネット」(1991)
夜の街の風景が本当に美しい。視覚的な印象じゃなく、雰囲気全体が伝わってくる映像。
[PR]

by stoneroses8010 | 2007-08-20 00:22 | 映画
2007年 03月 18日

NARA:奈良美智との旅の記録

さてさて、院も無事修了しました。
昨日は、体調やや回復といったところだったのだが、シゴト帰りに呼び出しかかり、修了式やパーティには参加しなかったけど、9時ぐらいから三条京阪で飲んでいた。
(頼まれていた論文集のCDラベルデザインもウケよく、ほっとした)

今日。いろいろ立て込みながらも、病にも冒されてしまったので、立て直す必要があるなぁとゆっくり過ごそうと決める。
大学で借りた本を返しに行く。かつ、必要な書類を数点交付してもらう。
前の職場に搬入関連で借りたものを返しに行く。面倒見ていた学生らもいたので、長居してしまう。
そして、映画を観る「NARA:奈良美智との旅の記録」
AtoZまでのドキュメンタリ。AtoZ展(青森)での奈良とボランティアやgrafとのやり取りの過程がクローズアップされると勝手に思い込んでいたが、そうではなく、AtoZまでの奈良のワークや足跡をたどるものとなっていた。
小屋と作品の仕上がりを上手に映像として押えているも、やはり、実際見たものとは違いが出てるなぁと感じる。これは仕方ないこと。
大阪と横浜で実際に見たけど、それは小屋の中で作品に対峙する時間と空気を含めて作品なのであるから。そう考えるとこのワークは「いま-ここ」が重要になってくる。
展示的機能を有する空間に、「いま-ここ」空間を演出する小屋を作り、そこで作品があたかも、その小屋に以前からあったような、いわば、イコン的存在のように位置する。
一回性を展示するような感覚。
奈良は自分自身のワークが外部へのレスポンスや変化への期待で続いているのではなく、自分の内部を出し絞るためと言っていた。
それは続けるということを高める動機になりうる。また、出し絞るものは、出したものによって受ける環境が、また自分にインパクトを与え、出し絞るものや量を変化させるかもしれない。自分で妙に、ああ、そういうことだったのかと納得してしまった。
[PR]

by stoneroses8010 | 2007-03-18 00:04 | 映画
2006年 10月 05日

パビリオン山椒魚

日中は仕事。夜は昨日と同様に渋谷で映画を見る。ここまでくると日中の疲れがかなりたまっているのだが、ホテルで休むのもなんだか癪なので出かけることにした。

パビリオン山椒魚。

とあるレントゲン技師がパリ万博にも出展されたという生後150年を誇る山椒魚が本物なのかどうかを確認してほしいと依頼される。その依頼主は、山椒魚を管理している財団の敵対組織であり、山椒魚ごとその財団を乗っ取ろうとしている。
レントゲン技師はその財団に忍び込んで、山椒魚を強奪しようとするが、その財団の理事の妹と出会って・・・。

私がこの作品で言いたいのは、オダギリはやはり3枚目も演じきれるすばらしい役者だということ。
香椎由宇が複雑な人間関係を抱えていようが、シリアスな演技をしようが関係ない。

とくに、段ボールを頭から被せられたにも関わらず、自分が外で裸足になっていることに気づき、何事もなかったかのように、足袋を取り出し、履こうとするシーンは秀逸である。

レントゲン車のなかでの、高田純次との会話も身がなく面白い。
「もう、僕レントゲン技師をやめようと思っているんです。」
「じゃ、私を助けてくれないかな」
「いや、でも僕、レントゲンという仕事がありますし」
「いま、辞めるっつったじゃん」
というノリがずっと続くのである。

そして、何よりもオダギリが主役にも関わらず、話を全く牽引させていないのである。
オダギリは相手がどう思おうと自分が何か困っている人を助けることができるヒーローであり、その使命があると思い込んでおり、勝手にその組織に乗り込んだりするのである。
[PR]

by stoneroses8010 | 2006-10-05 23:02 | 映画
2006年 10月 04日

セプテンバーテープ(出張中)

東京出張中である。日中は当然職務に従事。夜空いた時間は、時間をつぶす。昨日は、一緒に来ている同僚と飲んでいた。また、私事で嫌なこともあったで、飲みたい気分でもあった。

今日は、せっかく東京に来ているので、渋谷で映画を見ることにした。

「セプテンバーテープ」
ドン・ラーソンという架空のアメリカ人映画監督が、少数のクルーをつれて、アフガニスタンに入り、ビンラディンの行方を追いながら、現地の住民や武器商人などと接触していくドキュメンタリという設定。(ただし、このドキュメンタリはフィクション)
そのラーソンが行方不明となり8本のビデオテープが発見された。そのテープを順番に回してみせるのが今回の作品内容。
実際に映像のつくりかたは、⒐11の一年後に実際の監督らがクルーとアフガニスタンに入り、あらかじめ決めていたシナリオ通りに台詞を現地人に投げかけ、行動していく。現地人のリアクションは予測不能であり、リアクションを受けての展開は、臨機的に対応するというものである。
だから、展開の成り行きによって、本物の武器商人が出てきたり、発砲されたり、予想もしない銃撃戦が周辺で起こったりする。

映像のミッションは、9.11の一年後をアメリカ側からの報道という姿勢ですべて示すのではなく、アフガンを通じて、そこの人々の様子に触れることで9.11の多角的な見方を提示するというものであると思う。

ミッションとしては面白いが、肝心な部分が国防総省に押収されているせいか、それが達成されていないように思う。
話の流れによって、架空の映画監督ラーソン監督はアフガンの最も危険な地区に入り込んで行くが、そこからは政情不安定なアフガニスタンという部分しか伝わってこない。しかも、ラーソンがアフガン入りしたのは、9.11で妻を殺されたため、ビンラディンの行方を探っている、いわば私怨のための行動という設定になっているため、本当にこの作品が作られた狙いと少しズレがあるんじゃないかと思ったりする。

「9.11はアメリカ側も原因がある。」「アメリカの狙いは中東の石油の利権である」「イスラム圏の侵害」という現地の人の見解が、アメリカ側からの見た9,11とは一線を画するものとして提示したいのだろうけど、この(アメリカの実際の行動に基づく)論理は、N.チョムスキーあたりが10年も前から展開している。ゆえに、それが、「多角的な見方の提示」としての手段であるならば、ややパンチにかけるような気もする。

ならせめて、国防総省に押収されたものがどういったものであるのかを、なんらかの形で示してほしいのだが、それはなかった。パンフレットには、「ムジャヒディンとのディスカッションがあり、そこでアメリカの戦術や戦争計画の意思」が暴露されているらしい。そこを知ることができるなら、新たな視点も生むことができるだろう。

まあ、なんにせよ、本当銃撃戦の渦中の映像はすごい。今まで見た中で本当に「生」を感じた。
[PR]

by stoneroses8010 | 2006-10-04 22:24 | 映画
2006年 08月 20日

ゆれるジダン

映画のはしご。(くっつけるとタイトルが変だ)

「ゆれる」
(ストーリ)東京で写真家として成功した猛は母の一周忌で久しぶりに帰郷し、実家に残り父親と暮らしている兄の稔、幼なじみの智恵子との3人で近くの渓谷に足をのばすことにする。懐かしい場所にはしゃぐ稔。稔のいない所で、猛と一緒に東京へ行くと言い出す智恵子。だが渓谷にかかった吊り橋から流れの激しい渓流へ、智恵子が落下してしまう。その時そばにいたのは、稔ひとりだった。事故だったのか、事件なのか。裁判が始められるが、次第にこれまでとは違う一面を見せるようになる兄を前にして猛の心はゆれていく。やがて猛が選択した行為は、誰もが思いもよらないことだった・・・

この作品の印象的なところは、弟が罪の意識に苛まれたかのように見え、裁判を受ける兄のコトバとその本音の両方を耳にすることで、当初は兄を救うために尽力するも次第に違和感をもち、ゆれる「気持ち」である。それは目にした事実さえも左右させるということだ。
私は最後まで、兄が智恵子を突き落としたのか、事故なのかわからなかった。というのも、その映像は、弟から見たビジョンによるものが大きいからだ。つまり、兄が智恵子を落としたかのように見え、落下して行く場面を目にしながらも、兄を庇いたいという気持ちがあるから、事故だと事実を認識する。

しかし、最初は罪に苛まれ自白したかのように見えた聖人のような兄が、弟と面談した時、「実はおまえのために殺した」と殺人の動機を人に擦り付けるようなニュアンスをほのめかしたり、裁判中に、俗っぽい巧妙な(弟が見た事実とは異なるような)ウソの供述をすることから、弟は「私の知っている救いたい優しい兄とは違う」と違和感、憎悪を感じ始める(弟は、「優しい兄」を殺害したであれ、事故であれ救いたいために手助けするが、実は考えていることが俗っぽい兄を救っていることが許せなくなってくる)。すると、今度は兄が殺害したような記憶が弟のなかで「真実」として展開する。それは、最後に裁判で無罪までたどり着きそうな兄に対して不利な供述をさせる。
そんな兄を見たくない。昔の優しい兄を取り戻したかったというところだろう。

兄が7年服役したあと、弟は、幼いころ、兄や父母と遊んだ8mmを見る。そこに映っていたのは、困っている弟に手を差し伸べるまぎれもない「優しい兄」だった。すると、そこでまた、事故の場面がフラッシュバックする。それは足を滑らした智恵子に対して、手を差し伸べる「優しい兄」だった。弟は出所した兄を迎えに行くつもりはなかった。しかし、コトバやウソがどうだろうと、今も昔も弟を守ろうとしていた「優しい兄」には変わりないと知った時、弟は兄を迎えに行くべく、家を出る。

記憶というものは、人の取り巻く環境によって、なにかしらの影響を受ける。それは「事実」と呼ばれているものも左右させるといえる。では、事実とは何か。目にしたものすべてと言えるかもしれないが、弟が事故(殺害)を目撃したのは、はるか遠くの場所からであり、かといってすべてが見えないわけでもない。こういった微妙な距離感が目にしたものがすべてということの「不安定」さを作品全体で助長させている。それを補完しうるのは、兄のこと、智恵子のこと、そしてそのときの現場の弟の「記憶」のみだったと思う。

「ジダン 神が愛した男」
2005年4月23日のジダンが出場した試合のすべてで、ジダンがピッチでボールを蹴る、走る音が響き、すさまじいディテールの描写でジダンの肌を滴る汗を捉える。全てジダンを捉えたものであるから、試合展開はわかりづらいが、映画の意図はそこにはない。

はじまって30分ほどは、映像、音が普段のサッカーで見られない斬新なものだったので、「おお」と感嘆していたが、それがずっと続くため次第に飽きてくる。ジダンのモノローグも流れるがわずかなので、新たな展開はほとんどない。次第に視点は、プレイを見るようになり、「ああ、トラップうまいなぁ」とか思ったりするようになる。さらに進むと他のちらちら映る選手を見るようになる。ベッカム、ロベルトカルロス、グティなど。当然彼とポジションが近いと映る頻度も高い。
[PR]

by stoneroses8010 | 2006-08-20 23:16 | 映画
2006年 08月 13日

ユナイテッド93

NY関連の手続きを済ませる。
イギリスのテロ未遂のせいで、機内に液体物が持ち込めない。フライトは12,3時間。
まったくいい迷惑である。

映画を観る「ユナイテッド93」
9.11事件でハイジャックされた飛行機の一つで、唯一標的にたどり着かなかった機体でもある。それは、乗客の尊い勇気と生きる希望をもって、ハイジャックしたテロと戦った結果でもある。それがユナイテッド93。ペンシルバニア州のシャンクスヴィルに墜落し、全員が死亡する。

私はかなり前からこの実話を知っていたので、映画化されると知ってどんなものになるか非常に興味があった。
映画は無駄なく「9.11」を表現する。
複数の飛行機が同時にハイジャックされるという前代未聞の状況に管制は正確な情報がつかめない。管制は軍部に連絡し、事態の収拾を依頼するも、まったく連携が取れない。F-16という戦闘機を飛ばすも、飛ばしたところでどうしたらいいかわからない。
こういう想定外の緊急事態には、「機関」はあてにならないと思っていい。なら、どうするのか。個人の力はあまり無力。知ってる結末にひしひしと絶望感が迫る。

乗客はWTCに2機の機体が突っ込んだことで、自分たちの機体も同じ運命をたどることを悟る。墜落から15分前に乗客はハイジャック犯に立ち向かうことを決意し、見ず知らずの他人同士が自然発生的に協力し合う。
個々の能力が一つに集まっていく瞬間であり、私が興味を持っている集団の行動の突如生まれるダイナミクスを感じる。(これも一つのグループ・ダイナミクスなのかなぁ)

決死の覚悟でハイジャック犯と争い、奪われたコクピットを目指し、操縦桿の取り合いまでたどり着く。そうした争いの最中にも恐ろしいスピードで地面が迫る。
もうここまでは息詰まる思いで見ていた。結果がわかっていてもなんとかなって欲しかった。

あと、乗客がもうだめと判断した時の家族や親しい人に最後の言葉を機内の電話で伝えていた。
最後の言葉を伝える相手を作る。そういったことが人が生きるうえで最も必要なことなのかもしれない。
[PR]

by stoneroses8010 | 2006-08-13 23:55 | 映画
2006年 08月 01日

ゲド戦記

久々に映画を観た。「ゲド戦記」
最近のジブリ映画って、画面構成や細部の素晴らしさが先走っていたけど、いい意味で原点回帰して、無駄な装飾的技術がなくなったような気がする。(なんだか「ナウシカ」っぽい)

メッセージは
「光と闇を受け入れてこその均衡、人は常にその両面を見据え続ける」
「他者を受け入れ活かされる命とそのなかで紡いでいく命、つまりは生命賛歌」
「失うからこそ大切にしたいという想い」
と思うのだが、それがダイレクトに伝わってくるわかりやすさが好み。
なぜダイレクトかというと、ご丁寧にキャラが自問自答したり、会話で問答してくれたりするのだが、これがあまりイヤらしくないんですんなり聞ける。

「千と千尋」や「ハウル」以上のアニメのダイナミズムみたいなのを期待した人はがっかりしたかも。
[PR]

by stoneroses8010 | 2006-08-01 00:50 | 映画