2009年 06月 08日
先週、トーキョーワンダーウォール(TWW)の授賞式のため、東京に行っていた。 それが楽しみというよりは、東京でいろんなものを見て、友人と飲むのが楽しみ。 まず、ギャラリー小柳で鈴木理策展を見る。 「WHITE」と題された雪山の作品群。どんどんアブストラクトになっていくな。 「視覚機械と本人の感官」の一致が柱になっているとすれば、われわれの見ているものって、抽象に近いのかと考えたり。 PGIで若手写真家の写真展を見たあと、目黒で高橋和海展を見る。 写真集が出てた時に少し気になっていた。さざ波の写真が面白く、なんでこんな色になるんだろうということと コンセプトとビジュアルの整合性、とっかかりになるものなんかを考えていた。 授賞式で都知事のありがたいオコトバを拝聴し、TWWのオープニング。 いろんな作品を見て思ったのは、絵画だろうと、写真だろうと、立体だろうと、乱暴な言い方すれば、外の世界からなんらかを受け取って、形にしようとしていることに変わりなく、とすれば、表現ジャンルなんか関係なく、ここにあるすべて、それ以上のことを射程に入れて、考えなくちゃなと改めて思った。 一つのジャンルを摘みとって言われる細やかなニュアンスのあれこれも大事なんだろうけど、もうそのへんは他の人に任せて(というか、なんか苦手なんで)、自分は別のことをやろうと思う。 その後、友人らと会って、飲み。 次の日。 川村記念美術館に行って、「マークロスコ」展を見る。初川村。遠い!かつ送迎バス、人多すぎ。 まぁ、そんな苦労もふっとぶぐらいよかった! 常設(?)収蔵品では、シャガール、ポロック、フランクステラ、ラインハート、カンディンスキーなどなどずっと見ていたい作品がならぶ。 ロスコルームは閉じられており、2階の特別展示場らしきところにロスコがならぶ。 じっと対峙する泣きそうになる。 瞑想しているわけでもなく、感情が高ぶっているわけでもない。 どちらかというと外の世界と向き合って、ずっとまなざしを向けているときにある、なにがしかの対話作用と 似ている。そこでは恐ろしいくらい膨大なやりとりがなされる。 ニューマンのときは、こういった作用が起こらないんだな、なぜだろ。 帰りに抽象表現主義の本を買って、帰りの電車で読む。 ロスコが影響を受けたクリフォード・スティルの言葉にドキドキした。 2009年 02月 13日
2月上旬。関東地方へ出張したついでに、またまた散策。 とりあえず、仕事終わりに年末にあった後輩と飲むことにした。 今度は後輩の仕事場兼住居に行く。 暗室で少し埃をかぶり気味のCP32が妙に欲しくなる。 やはりデジタルなのね。その後飲み。 翌日。 東京国立近代美術館で高梨豊「光のフィールドノート」展を見る。 60年代から都市をずっと見続ける高梨の視点を追ったものだが、「都市へ」や「街」のように劇的な経済成長のもと、変わる続ける都市をとらえること、そしてそうした変化のなかも変わり続けず、固有のものとしてありつづける信仰根づく土地を撮り続けた「初国」 変わりゆくものと取り残されたもの都市の様をとらえる「地名論」「囲市」 など、高梨自身がずっと都市と向かい続け、そして感じたことを大判カメラ~35mmに至るまで手段を変えながら追っていく。 ここまでくればひとつの時代を渡りきった長編でスケールが違う。 新宿のニコンサロンでフォトシティさがみはらの展示を見る。 朝海陽子さんの「Slight」は、自宅で映画を見ている人々のユニークな姿を撮影した作品で、その人が住んでいる場所と見ている映画のタイトルが写真のタイトルとなっている。 その人が見る映画とその人のイメージの合致やギャップが面白かったり、見ているときの格好、生活空間の様々な情報に目がいき、見入る。 写真にしかできないことだなと思う。 六本木ヒルズのスカイデッキに出ることができたので、そこから東京を眺める。 スモッグがひどく、遠くが見えない。 年末に見れなかった森美術館の「チャロー インディア」というインド現代美術展を見て、自宅へ。 2009年 01月 20日
「さて、大山崎」山口晃展 山口晃が山崎山荘美術館で、山崎やその美術館ににちなんだ作品を展示する。 「惟任日向守図」「羽柴筑前守図」のように山崎といえば天王山というように土地にちなんだ武将図に、実は兜がワインオープナーというようなちょっと現代的な考証を盛り込んだものや「大山崎交通図」のように山崎の近未来の妄想を、洛中洛外図のような風俗画のテイストで、近未来と過去が入り組んだファンタジーのような絵が並ぶ。 その他の絵にもいろいろ仕掛けがあって、見入る。 「邸内見立 洛中洛外図」では、洛中洛外図のように、京の寺など記した図を俯瞰的に描いているが、仁和寺には「みんなぢ」とあってそこには「ぢ」と思しき方々がトイレに列を成している。 といったように「ダジャレ」といってしまえばそうなのかもしれないが、ユニークさを日本風俗画のなかに盛り込んでおり、いろいろ探してしまうのである。 「見立て」もこの展示の特徴で、新館では、美術館の壁のシミや傷をなにかに見立てて、そこを四角のスポットライトで浴びせ、作品とする。 たとえば「二十面相」のように、山口本人が「二十面相がマントを翻したところ」のように見えたということをタイトルにし、作品としているのである。 強引かもしれないが、なんだかそう見えてしまうのはなぜだろうか。 ここでしかできない展示。見立てによるもの。から出てくる面白いアイディア。 「見立て」で、思い出したが、「門前みち 軍艦」という鉛筆書きのものがあって、一方に軍艦を、一方には門前町のなかで「軍艦のように見える」ものを切り出し並べている。 自分の視覚的興味をいじっていき、それをなにかに見立てて作品として成立させている。 ちょっと考えさせられた。 大山崎版の「すゞしろ日記」 軽いタッチで、思ったことや行動をつらつらと書き連ねていくもので、大山崎で展示するにあたってのエピソードが主題となっている。鳥獣戯画や北斎漫画を思い出してしまうのはなぜだろ。 やっぱり「見立て」というのは、面白くて、ようは自分が「こう見える」ということを抽出したものだ。 それは、まず、意識されないイメージ(見え方だけでなく、この花はこんな匂いするんだろうなという五感にかかわるもの含め)が自分の中にまずあって、実際に目にしたときに、「こう見える」という交信が自分の視覚経験とイメージの間でなされ、それを形にしようとする作用なのかもと思ったり。 Tシャツと図録を買っておく。 2009年 01月 07日
年は明けましたが、昨年末の話。 見たい展示があったこと。大学時代の後輩に会うこと。という用事があったので東京に向かう。 気づけば、3月にジョエル・マイヤウィッツを見に行って以来。 展示は清澄白河にタカ・イシイギャラリーやらhiromiyoshiiやらギャラリーが入ったビルがあり、そこでまず「津田直展」を見る。 津田直さんは若手の中でも思索に富んだ写真家で、最新のフォトグラフィカでも「写真は世界の翻訳をする行為」と言っており、面白い。 ここでは「漕」関連の作品が多かった。 次に谷中のscai the bathhouseという昔の銭湯を改装してギャラリーにしたところに行く。 ここではダレン・アーモンドという写真家の個展を見る。 若狭近辺の海岸を月光のみで撮るというもので、色数が少ないせいか水墨画のように見える。その時の時間が想起できる。 その後、銀座の資生堂ギャラリーに出て、 そこでも津田直展を見る。ここでは写真集にもなっている「SMOKE LINE」の展示が見れる。 コンセプトを特化させるために、あくまで色にひっぱられないようにしている。構成は上手だなぁと思う。が、ラムダなのかな。 空がとんでいるし、なんだか焼きが硬い。写真集のほうがまだ、絶妙のトーンが再現されているように見える。 その後、銀座で後輩と待ち合わせして、飲む。そして、情報交換。 ライトジェットプリントの話とか、格安でドラムスキャンできる話とか。プロセッサがやはり欲しくなる。デジタルが進むからこそ、逆に欲しくなる。 1泊して翌日は写真美術館で「柴田敏夫」展を見たのち、東京都現代美術館で「森山大道 リゲル・ミオ・ブランコ」展をみる。 日本とブラジルの作家が互いの国を撮るというもの。 こうすると互いの物の見方がより明確になってきてくる。 森山さんは対象との間の空間をも撮っており、肉体的である。撮っているときに何に目がいってどう反射しているのか が想像できる。肉体が見える。 リゲル・リオ・ブランコは、展示方法がコラージュっぽいのも手伝って、自分が見た対象の視覚的興味をいじっていく 色やら妖艶というものに引っかかりがあれば、それを即物的に複写したのち、見え方を工夫して見せているという感じ。 現代美術館では「ネオ・トロピカリア ブラジルの創造力」展がやっていたのでそれも見る。 大阪では「アバンギャルドチャイナ」で中国の現代美術を、そしてここではブラジル。森美術館ではインドの現代美術をいま取り扱っている。 すべて、アンテナに掛かるなぁ。 ブラジルの現代美術は、私が好きなエルネスト・ネトもそうなのだけど、総じて身体と美術、色、音の融合を目指しているようなところがある。 メモをなくしたので、細かなことは書けないが、アシューム・ビビッド・アストロ・フォーカスは、色彩の激しい壁のある空間で、一つの壁をつか って映像を流す。その空間からは15種類程度の音楽を発信している無線機があり、見ている人はヘッドフォンを渡され、そこに寝そべって、各々 が場所によってキャッチする異なった音楽で、同じ空間のなかで、同じ映像を見るというもの。 場所を変えることによって流れる音も変われば、見えるものも異なってくる。けばけばしい色の空間も左右してか、トランスする。 しかも寝そべっているので、なかなかそこから離れられないのだ。一体化を身体で感じる。 2008年 11月 25日
携帯を修理に出し、パソコンが壊れ、今度は車から異音が。 修理かと思ったが、それは免れることができた。安心。 PCがなければ、スキャニングできないので、どうも手持ちぶさたになる。 暗室でプリントしてもいいのだが、大判引き延ばせないのではどうもおっくうになる。 なら、どうすればいいかと考えれば、来るべきときに備え、ギャラリー回ったり、撮るしかないというわけで。 和歌山県立近代美術館「彼岸の芸術」 ルドンやムンク、瀧口修造、具体までいろいろ。 まあ、要は、ここのコレクションを使って、私たちの日常(此岸)と彼岸をつなぐ窓のような存在となりうる美術作品をつうじて、なにかひとつ精神の高みにのぼったような、意味やら時間から場所やらが溶解した崇高さをもつ世界とコネクトするというコンセプトです。 マークロスコを座ってみることができ、その横の壁には杉本博司さんの写真が左右に3点ずつ。「海景」のシリーズと「シアター」のシリーズ。 この取り合わせが先ほどのコンセプトに最も通じるものがあったように思う。 なぜ、こんなに見入ってしまうのか。 なぜ、写っているもの、描かれているものが、単純なのに、すべてから解放されたような感覚をもつのだろうか。 それらには、目に見えないものが形になっている。 年末は東京に行ってみたいですね。 柴田敏雄さんが写美で。津田直さんも一度見てみたい。資生堂ギャラリーでやるようだ。段取りしようっと。 その前に12月上旬の今年最後の撮影(泊まりの)を行う。 2008年 11月 16日
いま誰の作品を直に見たいかと聞かれたとすれば、マークロスコを挙げるだろう。対象と向き合い、複数の感情が喚起されたときの視覚体験。それが形となる。 ロスコが見たいと思っていたら、こんな企画がありました。 和歌山県立近代美術館「彼岸の美術」 行ってみようと思います。ルドン、クレー、そして杉本博司。やるなぁ、このキュレーション。 「gallerism」@大阪府立現代美術センター 現代美術センターの2つの展示室を使って、各ギャラリーが作家の紹介兼ねて展示するもの。一気にファンになってしまった山本昌夫さん目当てでいったが、それ以外にも面白い作品ありましたね。各ギャラリーが持ち寄るので平面、立体様々あります。寺田真由美さんのモノクロ写真を見ては、作品の展示の方法について考えさせられた。香山洋一さんの油彩の風景もよかったな。自分が脳裏にこう焼き付いた、つまりこう見えていたということを平面に落とし込む。ちゃんと世界を見ている気がした。 山本さんは、out of placeで見た時のほうが、断然良かった。やっぱり空間が左右する作品だから、個展で観るのが一番いい。 そこで、ばったり知人と出会い、ギルドギャラリーから来たというので、私は北上して、ギルドやら西天満のギャラリーを徘徊。 最後に持っていた広角の大判レンズをうって、準標準レンズに買い替えてきて帰宅。 2008年 08月 09日
またまた、少し間が開きましたね。 7月下旬 堂島ホテルの8F~11Fの客室を使って、大阪、東京のギャラリーだけでなく、海外からのギャラリーが作品をもってきて、一つのギャラリーが一部屋を使って、展示、即売するイベント「アートOSAKA」に行った。 私の知り合いのギャラリストの方も参加していることもあったので。 まぁ、こういうのを観に行くのは、結構美術通ぐらいしか来ないだろうと思ってみたら、デートやら子ども連れやらで結構人が一杯で、人に酔った。 写真では、柴田敏夫さんやオノデラユキさん、勝又邦彦さんとかを持ち込んでいるギャラリーが多く、どちらかというとモダンというか、コンストラクティッドな作風な方が多く、現代美術よりの作品が多かった気がする。 ぐるぐる回っていたら、友人がスタッフとして参加しててばったりあったりした。 買おうとは思わないけど、いろんなものが見れて面白いイベント。 8月に入って、少し思うところがあって、写真を撮りに鳥取にでかけた。行く道中、いろいろトラブルがあって、それでも撮りに行っている自分って一体何なのだろう。だいたいなんで、撮ってるんだろうと真剣に考えた。おまけに、道中カメラが一台壊れ(これは、自力でなんとか直す)、撮るよりも旅先で、何故ということをホントに突き詰めて考えた。 これはこれで、今を思えば、よかったのかも。 友人が東川にボランティアに行っていて、帰ってきたとのメールをもらった。非常に充実したようで、話を今度聞けるのが楽しみ。 〇映画「いま、ここにある風景」 写真家のエドワード・バーティンスキーがいまの中国(広大な土地を産業が侵食していく様)を撮っていくドキュメンタリ。 人為的力によって、自然を、人々の生活圏内を産業化のもと切り崩していく過程や、その象徴的なもの(ダムとか土砂の山)を大型カメラで残酷なまでに美しく撮る。 エコを心がける姿勢が時代化している中、こういう映像を見ると絶望的気持ちになる。 1を少しずつ足していっているけど、裏ではすでにマイナス1000ぐらいが恐ろしいスピードで進行しているようで。 それでもやっていこうとすることはどういうことなんだろう。エコに関してはいろいろ議論があるけど、私はいつも生態学的な感覚がする。人が子どもを生んで、次の時代につないでいくと同じ意味あいで。 2008年 07月 11日
すっかりご無沙汰になってしまいました。 現実にやられっぱなしでしたが、黙ってやられ続けていたわけでもなく。 〇最近、なにが楽しいのかというと、初期段階の撮るというプロセス。 そのときの身体感覚、心理的状態にコトバにならないものがある。 夜中が多いのだけれど、なんというか、世界全体が暗室であって、そこで一人で恐れたり、高揚したり、疎外感があったり、驚嘆したり。 鈴木理策さんと大森克己さんが、7月から横浜のbankartで2ヶ月(だったっけ)ぐらいWSをやっているのだが、そこでも撮ったときの自分の状態から創るプロセスを見て行くらしい。鈴木さんは特にシークエンス系だから、そこを重んじるのかも。行きたかった。 そんなことを思い出しながらも、毎週出かけている。 〇楢橋朝子さんのレクチャがあったので参加。 森山さんの私塾の出身らしく、初期はそれを感じさせるものがチラホラ。私塾のメンバには10分露光が必要なものを200~300枚つくって毎月合評に参加してた人がいたとか。 今からするとかなり熱かった時代だったんだな。 最も有名なのは、「half awake and half asleep」のシリーズ。ファインダー覗いて撮るというものでもないから、カメラ任せの偶然の産物が多い。でも、そういうときってセレクトの基準がすごく気になる。 それについては、「いいのかわるいのかわからなくなる思考停止になるものを選ぶ」とのこと。「思考停止」というコトバがいい。 基本的にカメラは撮ってしまおうとするものと写っているものは違う。人間の目とカメラの目は異なる。表象として固定されたイメージと自分の中で(記憶として)、流動的なイメージについて、どう折り合いをつけて、作品とするのか。 楢橋さんは、よく他の写真家がやるような「先生」や頼まれて撮るということをあまりしないかなり純な「写真家」で、写真を売るということがほぼ絶望的な日本で生き残っている数少ない方。 友人と写真との距離感について、話したことがあるのだが、ようはどうビジョンをもっているのかが気になる。楢橋さんのような「写真家」で食っていける人は、プリントの売れない日本じゃ、そうそうなれるもんでもない。作家志望の友人を見るたびに思う。そして、自分はどうしたいのかと。 〇知り合いが某フォトフェスでグランプリをとり、写真集を今度出すとのこと。すげえ。 彼と話する機会があって、彼の並々ならぬ覚悟みたいなものを聞く。 〇以前は、ブックにしなきゃとずっと思っていたが、いま、遅々としながらも着実に一枚一枚をセレクトして、ストックしている。それを見るたびに、なにやら自分を再確認する。 このときの身体感覚。自分が何に惹かれているのか。そして、どう世界が見えているのか。 プリントは、スキャン⇒出力でやっているが、色に迷う時が多いので、暗室でカラープリントしてから考えるときもある。 Epsonのpx-5600はスゴイな。買って良かった。アンダーの出方が、今まで使ってた4000pxと違う。 〇映画。 「アフタースクール」 内田けんじ監督だがら観た。前作の運命じゃない人の構成が抜群で、それを期待して。そして期待通りだった。 You tubeで最近「水曜どうでしょう」ばかり見ていたので、大泉洋も気になっていた。 (これがブログ更新を止めたひとつでもある) 「ぐるりのこと。」 世がどう移り変わろうと、いっしょにいるということの幸福。 リリー・フランキーが演じるカナオには、なにかこう「基準」があるように思う。周りがどうあろうと、自分がこうと感じれば、ブレないなにかが。 「マジックアワー」 テレビ的。佐藤浩市が目立った。一歩外に出たら、内容忘れるぐらいエンタメ系。 〇gallery kaiでやっていたシュヴァーブ・トムの写真展がよかった。 デジカメでとった「ぐるり」(まわり)をつなぎ、単なるパノラマで終わらない世界。どこか歪んでいて、モノの比率も違っているけど、正確に世界が成り立っている。 そこが農地であったり、風呂場であったり身近で暖かみあるモチーフが俯瞰的な冷めた目線とギャップになっていた。 ギャラリーオーナの話によると出力でやっているが、そこらのインクジェット機とは少し違うとのこと。(どんなのだ)紙は和紙を使っていた。木製フレームアクリル張り。長方形。 〇シゴトのせいで、畠山さんに写真を見せにいけなかった。あーあ。友人は竹内さんの東京での合評に参加したそうだ。彼は、竹内さんのズバリ言うわよ的評価がツボらしく、前回「ビジョンがない」とバッサリにもかかわらず、また見せに行ったそうだ。その後会ってないから、どうなったのか知りたい。 2008年 05月 06日
GWは、撮りながら、公募の準備しながら、観ながら。 国立国際美術館「液晶絵画展」 要は映像である。 やなぎみわさんや鷹野隆大さんの作品は自分のスティル作品の延長であって、他の作家に比べ、ジェンダーやら老いやら、メッセージ性が強い。 ドミニク・レイマンは「Yo Lo Vi」で、少し時間をずらして、鑑賞者を映し出す作品がある。 ただ、観ている我々を映すのではなく、締め上げられた裸の男性(?)がおり、我々がその締め上げられた男性を見世物を見るように見ているという映像を映す。(なかなかややこしいな)そして、それを現実の我々が見るという構図になって、なかなか目が離せない。 因みに私の知り合いの写真家はこのレイマンと飲みにいったそうだが、英語のやりとりができずに歯がゆいといっていた。 サム・テイラー=ウッドの映像作品は初めて観た。写真なら何度か観たことはあるのだが、映像もなかなか面白い。というよりわかりやすいのである。「スティル・ライフ」「リトル・デス」では動物、食べ物の腐食して行く様を高速で撮り経過を見せて行く。 一方「ピエタ」では、超スローで、キリストを抱くマリアを模したものを映す。 チウ・アンション。水墨画タッチなのだが、展開がアニメーション的で鳥獣戯画を思い出した。タッチが軽いにも関わらず、ドリーのクローンなど倫理的、政治的なテーマを扱うので、かえって水墨画のにじみみたいなものが不穏に思える。 京都芸術センター「もうひとつの写真表現」 版画やら、絵画やらをやっている人たちが写真を使って、より深くなにか表現できないかという試み。 桜井裕子さんの2枚のポートレート写真を短冊状にして、互いを編みこみ、新たな人物(?)を作り出す作品は興味ぶかい。そこに民族性とか人と人との関係性なんか盛り込んだりしたらとか考えると、いくらでも発展できそうな作品だと思う。 藤永覚耶さんはブツ撮りしたものの、ディテールを撮ったあと、なんらかの加工によって自分の表現したい部分を際出させる方法の作品。 写真は撮る、観るだけでなく、自分の中をさらにくぐらせる意味を持って、(自分のフィルタを通すともいえる)再構成することも一つの方法である。 写真家とされる人も、こういったスタイルでやっている人もいる。新世紀の高木さんもそうだった。 Artzone 頭山ゆう紀「さすらい」 うって変わって、モノクロのストレートスナップフォト。なんだか新鮮でした。 作品とかもうヨコに置いて、35にモノクロ入れてフラフラ撮ってみたい。 2008年 04月 12日
以前の続き。 ギャラリー冬青 城林希里香「Lines」 北米50州の地平線の様々な写真群。コンセプトにもあるように、このLineが地球を形作るということ。そこにいる自分。自分とこれらの風景との対話。 その人独自の撮り方があるというわけでないのに、惹き付けられる。 なぜだろう。それはコンセプトと写真の距離感が近く、わかりやすいためか。 たまに、コンセプトと撮っているものがかけ離れて理解に苦しむものも多いなか、これらの作品は、コンセプトと作品が薄皮一枚で一体化しているようだ。だから、撮り方がどうであれ、「自分」が表面化してくる。 正方形フォーマット 400×400ぐらいか。 Gallery White Room Tokyo Joel Meyerowitz "The Elements: Air/Water Part1" Joel Meyerowitzの新作展。素晴らしかった。 飛込みのダイバーとプールが被写体。当初、Meyerowitzは、ダイバーのビデオ監督をしていたところ、ダイバーが飛び込むことによって、水が気泡となり、気泡が大気に戻る。ひとつの要素が別の要素へと変換されていくことに興味を持って撮り始めたという。 ここではダイバーは水から大気へと変換される媒介としてしか存在していない。もやは、ダイバーさえもなにか一つの要素として、自然の一部として交じり合っているような感覚。 白い壁のギャラリーにプールの水の色が寒気がするぐらい映える。 撮り方がわからない。明らかに水中から撮ったものもある。Meyerowitzは8×10使いのはず。水中に8×10?。まさか?ギャラリーの方に聴いてみたが、わからないとのこと。 要素。そんなことに気を留めたことがなかった。でも、私たちが生きている限りどの要素も欠かすことはできない。大気、水、土、火、どの要素も単体だけでなく複雑に交じり合うものもある。 さっき、城林展ものは地球の要素と大気の要素がLineを形作っている。 要素の交じり合いはやがて、モノとしての意味を外す。そして、溶解したその先から、異世界が姿を現す。 もう一度言う。素晴らしい。 東京現代美術館で川俣正展とMOTアニュアル2008を見る。 MOTアニュアルは、我々の世界を形作る境界を解体して、再構築することをテーマに、インスタレーション、写真、刺繍、絵、オブジェと様々な展示が5人の作家によって手がけられている。どの作家も共通していたのは、そうして境界を解体し、再構築することで、我々を支えている現実の概念の何に焦点を当てようとしているかを突き詰めていることだ。 金氏の作品からは、世の中一つ一つの物として存在し、空間を形作るものは、実は一つの塊として存在しているのではないかと思わせる。それだけ物事の境界というのはあいまいであり、現実はそれで成り立っている。 手塚からの作品は、刺繍の内部から見える織物の材料の多様性から、モノが一つ成立するということは、宗教や文化、歴史を横断して成立するということを想起させる。 自分が感動するとか、面白いというのは簡単だが、それが何故なのかということを突き詰めることが大切。そこには、自分のリアリティを支える五感が隠れているように思える。 < 前のページ次のページ >
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