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2005年 02月 27日

アウトサイダー・アート

久々に二日酔いになる。
頭が痛いが、昨日の片付けの続きと洗濯をしなければならないので仕方なく体を動かす。
よく晴れた日だ。
一通りの雑務をこなした後、頭がさらに痛み出したので、しばらく仮眠を取る。
夕方になると調子がよくなってきたので、本屋に向かう。
ふと手にした「アウトサイダー・アート」(光文社新書) 服部 正著 に興味を引かれたので衝動買いする。

スターバックスでラテ(short)を飲みながら、購入した新書を読む。
《ドイツ表現主義やシュルレアリストたちが(視覚イメージの社会的操作網をかいくぐった表現である)アウトサイダーアートはを賞賛したのは、自分たちの姿勢や作品を社会に認知させるための手段に過ぎず、アウトサイダーアートの本来の姿を評価したものではない。》という解釈が印象的だった。
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by stoneroses8010 | 2005-02-27 21:55 | books
2005年 02月 26日

恒例の・・・

17:00より自宅にて恒例のキムチ鍋。
6.5畳に七人突っ込んで先ほどまで行われました。
酒を浴びる様に飲めば、予想通りわけのわからん議論白熱。
まあ、楽しめたし、いい刺激にもなりました。
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by stoneroses8010 | 2005-02-26 23:50 | その他
2005年 02月 25日

「ザ・ゴールデン・カップス ワンモアタイム」 ライヴ長すぎ

c0017549_15575926.jpg「ゴールデンカップス ワンモアタイム」を観る。構成として、前半は関係者やゴールデンカップスを観てきた人たちによるインタビュー形式で結成から解散までを辿る。後半はカップスのメンバーによるライヴ映像。しかし、ライヴ映像は長すぎだと思う(最初の一曲と最後の三曲でよかった)。あれだけ長いと前半の流れが飛んでしまいます。あと、パンフレット高すぎ。2,000円では手が出ません。

カップスの登場はグループサウンズ全盛の60年代。大雑把に言えば世界ではビートルズが一つの音楽の流れを造り、日本でも色々なバンドが影響を受けギターを中心としてポップスをかき鳴らしていた。
一方、60年代の横浜・本牧がカップス発祥の地なのだが、そのころの本牧は「フェンス越しのアメリカ」と呼ばれ、米兵たちと彼らの娯楽となる施設が立ち並んでいた街だった。日本、アメリカの文化の流動というべきか、「ごった煮」というべきか、一つの風俗ムーヴメントがこの街にあった。そこでカップスは、時にはその風俗ムーヴメントに揉まれながら、いろんなことを演ってみせギャラリーたちを魅了した。
ゴールデンカップスは時代の「トリックスター」だったと思う。カップスは、その地域文化の良いも悪いも背負い込んだ「重い」音楽性により、当時の日本音楽界の特徴となりつつあった「軽い」ポップスを笑い飛ばすかのように、固定した当時の音楽の意識を混乱させた。皆が口々にいう「ぶっとい音楽」というのは、持っていたバックボーンのスケールの次元の違いからそう表現したのだろう。

カップスもグループサウンズ路線を歩むことになるのだが、「売れなければならない」理由が、グループサウンズと当時の音楽界の関連が描写されてないのでよくわからない。インタビューで「いろいろある」と表現した人もいた。まあ、いろいろあったのだろう。

メンバーは特に音楽にシンパシーがあったわけではないようだ。ただ、メンバー同士がそれぞれに対して畏敬の念を持っていることが印象に残った。質を維持するにはそれに対する畏敬の念が必要であるからだ。
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by stoneroses8010 | 2005-02-25 21:16 | 映画
2005年 02月 24日

公立美術館の「地域」

22日のクローズアップ現代(NHK)では、金沢21世紀美術館の地域密着による経営のあり方が放映されていた。そこには自治体財政の貧窮により、公立美術館が閉鎖や事業縮小、委託といった運営の見直しを迫られている背景がある。国立のミュージアムも独立行政法人化し、平成18年には「指定管理者制度」が完全施行されることもあるなか、公立美術館は、そのマネージメント、ポリシー、ミッションをより鮮明に、緻密に打ち出す必要がある。

この放映では、金沢21世紀美術館は開館して間もないが、「コンテンポラリーアートを使って、地域や市民と密着した運営をしているのですよー」ということを簡単に取り上げていた。
しかし、何か違和感がある。なんだろうか。

「公立」ということで「地域密着」という言葉と安易に連結しすぎてはしないか。
確かに、「公立」である以上、70年代に見られた「行政の文化化」によるハード造営一辺倒の経営を見直し、「市民」に目を向けることはよいことだ。そこから地域文化の掘り起こしや子どもの教育普及を行えるという点を考えればメリットはある。しかし、「地域」という言葉を安易に解釈しすぎて、事業の幅が狭くなってきているような気もする。同じ公益のために芸術環境を創出しようとするアート系のNPOの活動の方がバリエーションがある。公立美術館もNPOも芸術による公共圏の拡充を目指すものであるが、公立施設の事業運営は制限が強いられてしまう現在の風評のため、ピンポイントに事業主旨を絞らざる得ないのかともと思ってしまう。

だとしたら、これが公立美術館の限界なのであろうか。「地域」を中心に持ってくるなら、「地域」という言葉をもう一度、考えてみる必要もあるだろう。
宿題やらなかった子どもが母親に怒られて、「宿題だけ」やむなくやるのは芸がない。
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by stoneroses8010 | 2005-02-24 22:59 | arts全般
2005年 02月 22日

今のうちに

4月からまた忙しくなるだろうと思い、今のうちにこんなものにも手を出してます。1作はすでに出来ており、あともう1作を仕上げているところ。
結果がどうであれ、自分のデザインジャケットつけてみたいですね。
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by stoneroses8010 | 2005-02-22 23:39 | その他
2005年 02月 21日

改正道路交通法

免許の更新をした。
昨年、道路交通法が改正され、携帯電話等を手で保持して通話したり、メールの送受信のために携帯を手で保持して注視した場合の罰則や飲酒運転の罰則金の引き上げはよく知られている。

それに加えて、こんなことも改正されたのか。
○自動二輪車の高速道路等二人乗り規制見直し
○中型自動車・中型免許の新設

改正されたからといって個人的に生活に変化が出るわけでもないものはそうそう記憶に残らないものなんですね。
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by stoneroses8010 | 2005-02-21 20:39 | 我思ふ
2005年 02月 20日

横浜トリエンナーレの続報

開催まであと、約7ヶ月の横浜トリエンナーレの続報。

1)「YCAN」なる市民協働ネットワークを作り、様々な市民レベルの活動を取りまとめ、市民の活動の継続、発展を狙う。今回は活動の一環としてフリーペーパーの発刊、Webの開設を行っている。
2)市民広報グループ「はまことり」により、新ディレクター川俣正氏を参加させ「横浜トリエンナーレ作戦会議」を開催する。(主催は横浜市芸術文化振興財団)。

「作戦会議」自体は、昨日の話であり、もうすでに終わっている。
曽田さんのBlogを見ると、今回は川俣正氏がトリエンナーレのテーマとして掲げる「アートサーカス」について、少し輪郭がつかむことができる。それは、市民と観客とのコラボレーテッド・ワークが核になるようだ。

しかし・・・
「今回の出展作家の中には、見る側とのコミュニケーションのあり方を作品化するタイプの人たちも多く、また、全体にも、展覧会の構造が入れ子構造になっていて、アーティストが観客やボランティアや他のアーティストを招き入れるような、「展覧会内展覧会」的なものが多くなるだろうとのことだった。」
まだ、よくわからない。パヴィリオンを作家ごとに造る。あるアーティストのハコの中で観客と他のアーティストが参加し、作品化を進めるということであろうか。

コラボレーテッド・ワークを担当する芹沢高志氏は『とかち国際現代アート展「デメーテル」』の総合ディレクターである。その「デメーテル」のサイトのなかで芹沢氏は、<会期中、時間とともにハード、ソフトともに変化し続けた>と述べている。
また、YCANのサイトでの南條史生氏へのインタビューでも、前回の横浜トリエンナーレのアーティスティック・ディレクターとして「さまざまな事件が起こる前で、次々にそれを解決する決断力も必要になる。そういう細かい判断の積み上げで、全体が出来ている。それを通り抜けたという実感が、残る。」を述べている。事業を成立させるということは、その通りスムーズにいくことがないとわかっていながらも、用意周到に事前準備を整え、会期中のあらゆるイレギュラーな局面を乗り越え、うれしい誤算を血や肉としながら、無事終える、そして、参加した皆に、「もう一度」という継続発展の魂を灯すということである。そんなことを両者の意見から考えた。

また、南條史生氏はインタビューの中で、「国際展は地元だけ見ていたら失敗する。国際的な評価も、計算に入れなければならない。そういう意味でハードルは二つある。そこが、こうしたイヴェントの大変なところだ」と本質的な課題を挙げている。
実際難しい問題だと思う。国際展を続ける以上は必ず見据えておかなければならない重要な課題の一つといえる。しかし、あせってはいけない。まず一つのテーマに特化して、事業を成立させそのフィードバックを次回に生かす。そこでは「でかい花火を一発打ち上げること」に神経を集中させてはならない。その8割程度の花火を常に打ち上げる力をつけようと努力することのほうが事業の継続性の面から有益だからである。
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by stoneroses8010 | 2005-02-20 23:25 | トリエンナーレ
2005年 02月 19日

「マシニスト」 クリスチャン・ベイルに敬服 

c0017549_1534894.jpg「マシニスト」を観る。クリスチャン・ベイルはこの映画の役作りために、4ヶ月で30キロの減量に挑み、見事に成功させた。減量中はりんごの缶詰しか食さなかったそうだ。撮影中も案の定フラフラだったらしい。劇中、クリスチャン・ベイルが「25時」のエドワード・ノートンに見えて仕方なかった・・・。(ちょっとちがうか)

人間は真贋あいまいなものまで、都合のよいように「記憶」に組み替えていくものである。よい思い出というのは、自分にとって心地よいもののつなぎ合わせでしかない。それが潜在的に現実を拒絶し続けたものであれば、体は正直なもの(この場合は一年中眠れないということになる)で、自分の精神を破綻に追い込む。「安堵」とは、常に事実と記憶の整合性を自分自身に納得させることなのだろう。そんなことを観終わった後思った。抽象的な言い回しになってしまったが、劇中の事細かな記述はネタばれになりそうなのでやめておく。

劇中すべてに用いられたカラーの彩度を少し落とした映像表現がよい。やや無機質なトーン。夢の世界を浮遊しているような気分になる。感情すら空々しく見せる。

その後は飲みに行く予定だったがその前にスターバックスへ。
カフェモカ short ノンホイップをいただく。南條史生(著)の「美術から都市へ」を読む。
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by stoneroses8010 | 2005-02-19 19:06 | 映画
2005年 02月 17日

デジハリ大学化から、美への思考を叫ぶ


こっちのBlogでデジタルコンテンツ業界についての面白いレポートがある。ここでは、デジタルハリウッドの大学化をテーマとして、現在のデジタル専門学校のあり方やら、その業界でのデジタルクリエータの実態やらをレポートしている。ここのBlogでは論点が沢山ありすぎるので、デジタルハリウッド大学(以下、デジハリ)は大学で見られる基礎研究を重視していない(その手の研究室を設置しない)ことに特化して少し考察してみたい。

まず、デジハリが大学化することについてのメリットは、デジハリやそれに通う生徒のステータスアップに他ならない。デジハリ側は業界に人材をより多く送り込み、同業の専門学校もしくは大学との生徒獲得競争の勝ち抜きやデジタルコンテンツ業界に対して優秀な人材供給先であるという信用の獲得を狙う。通学する生徒にとっても、デジハリの大学化は、卒業することで大学卒業資格を取得できるし、また大学卒業見込み者としてより多くの就職先選別の可能性が期待できる。ここで重視されているのはなんとかして業界との結びつきを強くしたいということだ。

しかし、そうならば、先ほど述べた基礎研究の省略はマイナスとなるだろう。
なぜか。昔から、デジタル、デザイン系専門学校生と基礎研究を習得してきた理系、美大系の学生との比較や就労後のあり方はネットでも論じられてきたのだ。そこで、結論として、やはり理系、美大系出身者にはかなわないと結ばれる。同感である。両者では、各々の分野に対する思考や表現技術鍛錬の時間、深さが違いすぎるのだ。美大生は入学のために表現技術を鍛錬するし、入学後も各々で美に対して試行錯誤を基礎研究の中で繰り返す。理系についても同様だ。「大学進学に興味を示さない生徒」がいきなり、クリエーターやデザイナーになる!と言い出すのとは次元が違うのだ。(無論これには個人差が当然あるし、すべての優劣をつけるものではない。)

「自分の個性を表現できる」というのは、こうした思考の熟成や技術鍛錬の失敗の繰り返しのもとで成り立つ。上面の業界の顔色を伺った専門学校で教える「コンセプトの組み立て方」などは歯が立たないと言っていいのではないかと思う。業界はそうした「自分の個性を表現できる」人間が欲しいのであって、舗装された道を歩いてきた人間はいらない。

さて、こういったことはすでに暗黙知としてすでに成立しているはずなのだが、デジハリではそれを重要視してないようだ。デジタル業界を見続けそれに応じた学校づくりを進めている。この先どうなるかは経過を見てみないとわからないが、ただ言えることは、メディアリテラシーが進み、テクノロジーが進化し誰もがPCに触れることができ様々な表現ができるようになった今、ソフト頼みの小手先の「手品」は通用しないということだ。
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by stoneroses8010 | 2005-02-17 23:36 | Blog関連
2005年 02月 16日

プチ権力者について

内田さんのBlogでこんなエントリを見つける。
芸術活動と行政がコミットメントすることで芸術活動と行政のパイプ役になる人間が、行政の事業やそれに関連した施設運営に対しても、芸術活動に対してもある一定の権力を持ちつづける。

個人的な経験から、ここで述べられているプチ権力者についても、そしてそれに対する内田さんの嫌悪感も理解できる。

では、なぜこのプチ権力者が影響力を持ち続けることができるか。
それは、行政とプチ権力者のギブアンドテイクの関係を考えればわかる。プチ権力者はたいてい、その分野(芸術、スポーツ、教育などなど)の市民団体やNPOに顔が利く者が多く、それを束ねる立場にあるものもいる。行政は事業や施設の諮問機関に彼らを委員として行政に参画させる、またはプチ権力者の属する団体に事業や施設に対する既得権を暗黙に保証する代わりに、その分野の市民の任意団体との意見調整を暗黙にプチ権力者との協力によって行うことができる。また、プチ権力者がその分野の専門家であれば、事業や施設運営のアドバイザー、もしくは講師などで活躍してもらうこともできる。こうして行政は、「市民に開かれた」事業、施設運営を担保することができるし、安価で人材をストックすることもできるというわけだ。

しかし、こうしたプチ権力者と行政との関係は、今後の市民参画の事業に違和感を与えることになりうる。近年では、芸術の分野においても、行政の主催のもと、公立の施設などを使って観る人間と造る人間の壁を取っ払って芸術環境創造の事業をしようという動きが多い。この動きの中でプチ権力者とその周辺が特権化すると、素直に創造事業に参加したい、またはサポートしたいという市民は、その業界について何も知らないために、もうすでにできあがってしまっている人間関係や組織、その業界にいる人間しか理解できない専門用語などに居場所を失い離れていってしまうことが考えられる。酷な言い方をすれば内輪だけで盛り上がっている排他的な雰囲気である。(あるBlogではこういった組織の人間たちを「プロ市民」と表現していた)。また、意見交換や価値観も均質化しているので予定調和の事業生産に結びつくことにもなりかねない。

これは、観る人間と造る人間の壁を取っ払いお互いがその立場を体験し合う双方向性の流れや、様々な人間が交じり合い、異なった価値観から生まれる意見や考えをぶつけ合う対話の弊害になりはしないだろうか。そういった環境が用意されてこそ、市民による事業と呼べるだろうし、芸術に関していえば、平田オリザのいう「芸術の公共性」につながっていくと思えるのに。
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by stoneroses8010 | 2005-02-16 21:27 | Blog関連