確証はない。それを信じるしかない。

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2005年 06月 27日

イン・ザ・プール

c0017549_22584997.jpgイン・ザ・プール」を観る。

冗長だったな。
松尾スズキ演じる精神科医のキャラで押し切った印象が残る。強迫神経症、継続性勃起症の患者が通院するのだが、彼は診察しようとせず、自分の思いつくままに言葉を発し、患者を様々なところに連れて行く。なんだかんだで、完治(?)するわけだが、話の内容より松尾スズキの傍若無人ぶりしか頭に残らない。原作もこういった内容なのでしょうか?読んでませんが。

「恋の門」「真夜中の弥次さん喜多さん」のようにキャラだけで押されると私としては、少しキツイ。劇団☆新感線のネタもん作品のように、舞台で見せられたら、楽しめるものではあるだろうが、そうした場合でも、本作は新感線ほどのスケール感がないため、移植したとしても、うーっむと唸ってしまうんだろうな、きっと。
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by stoneroses8010 | 2005-06-27 19:12 | 映画
2005年 06月 27日

森山大道@ブエノスアイレス

森山大道展@D,sギャラリー

ギャラリーRAKUで同時開催だったはずが、RAKUは日曜で終了したとのこと。
D,sギャラリーでは、ブエノスアイレスで撮影されたB0ぐらいのサイズの写真が壁三面にひしめき合うように並ぶ。もう一つのフロアでは、A3ぐらいのサイズの写真が並んでいる。

B0サイズの写真を作品間の間隔をとらずに並べられるその空間は、壮観である。一度やってみたいものだ。経験上A1までしかアウトプットしたことがない。ここまでやれば、コストは計り知れないだろう。。。

路上に佇む猫。これがよかった。猫といってもそんなにかわいらしいものでなく、B0級の紙面の半分を影で半分黒味がかった身体で占領している。片目だけぼんやりと写っているが、垂直になったその黒目は獲物を狙っているかのように冷たい。遠景に道が開かれているが、猫のせいでその奥には行けない絶望感、圧迫を感じる。

車窓から覗いた看板。
車の窓から光が差し込んでいる。その窓の向こうに移るのは、陽気な女性が描かれた看板。
ただこれだけなんだが、視線が光、看板、その後ろに写る風景と誘導される。

全体通じて、見せたい、もしくはこんなものを見てきたということに同調して欲しい(視線を誘導させる)ものをわかりやすくクローズアップさせることができるものが多く、小細工のなさが心地よかった。
大人の被写体へのアプローチは、ダンスを踊る人の身体から、街で往来する人々の着ているものに対して、外見の面白さを重点に撮っているような気がした。今回はそう感じた。
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by stoneroses8010 | 2005-06-27 15:32 | arts全般
2005年 06月 26日

ダニー・ザ・ドッグ

c0017549_0312654.jpgダニー・サ・ドッグ」を観る。

ダニーの最終的には明るみになる隠された過去の記憶と守るべき家族(サム・ヴィクトリア)ために戦わなければならない現在がデジャブのように展開する。
幼いダニーを悪漢の手から守るため、クローゼットのなかに隠した母親と人としての生活を教えてくれた新しい家族を、自分の追っ手から守ろうとするダニー。
物語の「運命の構造」を見せられたような気分になる。ここでは、過去に対するリベンジのように同様の展開が生まれ、その状況(運命)に打ち勝つという仕組みになっている。

触れていた母親の奏でるメロディのもと無邪気に笑って遊ぶ幼いダニーとラストにヴィクトリアから与えられた安らぎメロディで感涙する過去と決別したダニー。
涙したのは、母親のこと、新しい家族のことと様々な想いが込上げてきたからだろう。
ここでは、音楽、ピアノという芸術経験が幼いころと今のダニーを結びつけるもの、人間らしさを取り戻すきっかけとしてある。

現実でも、たとえば、小さいころに、ピアノを弾いていた(聴いていた)ころの記憶を時を経て、だれかが同じ曲を演奏している時に思い出し懐かしく思ったり感動したりする経験を持つ人もいるだろう。その時は、音楽に純粋に感動しているのではない。音楽を聴いていた、もしくは演奏していたときの経験、そのときに関わった人との経験を回顧し感動するのである。
こう考えると、芸術体験とはなんとも人生の中で付き合いが深いものだろうかと思ってしまう。一人でストイックに技術を高めることも否定はしないのだが、芸術を通じて、家族友人と触れ合う経験はそのときの想いを何倍にも増幅し、自分の中に蓄積させる効果がある。さらにそれを芸術体験を通じて人に伝えようとした時、想いの連鎖が無限に拡がりをみせるだろう。

ジェット・リーが主役を演じることに、いくらアクションがポイントになるとはいえ、物語が進むにつれ疑問を感じていたが、最後の彼が涙するシーンを見たとき、彼が主役でよかったと思えた。
欲言えば、ラストファイトの時間を少し削って、ラストシーンの時間を少し取るバランスが欲しいところ。
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by stoneroses8010 | 2005-06-26 23:09 | 映画
2005年 06月 19日

披露宴のライブ感

今日は友人の結婚式に出席。総じてスピーチ重視のオーソドックスな式で、滞りなく終わったので良かったと思う。
式に出席するたびに思うことは、音楽との間である。披露宴会場に新郎新婦が入場してくる時に、彼らの選択した音楽が場内に響く。響きだすと同時に扉が開き、彼らが入場してくる。大抵の式がそうなのだから違和感を感じる。

彼らが音楽を選択するということは、その音楽とともに入場していくイメージができており、カップルごとにイメージの差は当然生じる。なのに、ほとんどの式で新郎新婦が入場するときは、「音楽が鳴り響くと同時に入場」である。
たとえば、私は年に数回ぐらいしか舞台を観にいかないのだが、舞台にいる役者の身体の動きとBGMや音響とのマッチングや動き出すタイミングがやたら気になるタチである。観てよかったと思うものは、そういったことに細かい神経が行き届いているように感じる。
私が言いたいのは、なにも入場音楽のジャンルが偏る(ゆるめのR&B)ためにそうなるとはいえ、音楽が鳴り響いても、来賓のすべての注目が集まって5秒ぐらい経つ「間」があってもいいのではないかということである。少し焦らしつつも、BGMとリズムとマッチングした入場。

披露宴はある程度制約された時間であり、かつスピーチやらで長時間にわたるので、少しでも時間の短縮を心がけたいところであるのはわかるが、何か慌しさを感じるので、試しに各所にそういった演出をほどこし「間」を取りながら、時間に寛容になって披露宴をやったらどうかと思われた。しかし、これは良くない。簡単に言うとダレる。映画も舞台も設定された時間の中で、観客と作品が一体となって成立するものである。披露宴もそれに似ており、来賓と新郎新婦が同じ空間で、決められた席で、新郎新婦、親族、友人、会社の同僚といった決められた慣習的役割を演じなければならない。全員が一体となって(意識するかしないかと別として)成立する行事と言えるからだ。とすると、映画や舞台同様に時間に対してシビアになって参加する人間がどう感じるかを常に考える必要がある。そういった状況の中で、先ほど述べた「間」が考慮されている披露宴は高度に演出されたものと私は思う。
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by stoneroses8010 | 2005-06-19 23:29 | 我思ふ
2005年 06月 19日

自戒の意味も込めて

以前どこかのblogで「ブログでは皆自分が特別の人間のように物事を語る」と評している人がいて、思わずディスプレイの前で膝を打った。

皆が皆そうであるとは言えないが、なぜそう自分を特別視したがると疑問に思うものも存在する。一日の出来事やそのとき思ったことを淡々と語っているものや、匿名性を犠牲にして自らのスタンスを示し思想を語ることは大いに敬服するものがある。そこまで明らかにしないでも、自らの職域や経験を活かし、物事を冷静に分析する、あるいは評するブログにも秀逸なるものが多く、これも良しとする。

一番散見されるのは、一時の村上春樹を気取ったようなよくわからないものだ。(これは別に村上春樹がよくわからないというわけでない。あれは立派なオリジナリティのある文学です。念のため。)いわゆる亜流というヤツである。写真では、知識の大小の加減でだれの何の影響を受けているか明確にできずとも、コンセプト、思想が借り物かどうかなんとなくわかる。それは、ブログにも通ずるものがあり、それなりにBlogを巡っている人間なら誰でも見抜くことができるだろう。なのに、書き手はそれを意識しない。内田樹氏に言わせれば、ラカンを引き合いにだされて、「私が語っているときに私の中で語っていることは、まず、そのかなりの部分が「他人の言葉」とみなして大過ありません」ということ。それも理解できるがどうも気に入らない。あらゆる分野で明らかに素人からみてもパクリを思えるようなものが、大成した試しはないだろ。
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by stoneroses8010 | 2005-06-19 00:48 | 我思ふ
2005年 06月 14日

さらにつづけて「タナカヒロシのすべて」

c0017549_1151433.jpg「タナカヒロシのすべて」 を観る。

鳥肌実の主演とあって過剰に期待していたが、案外内容がまとも。というより、メリハリがない。人の死や不幸を連発させて、「テルミンと俳句の会」のようなありえない団体を作るところで、私小説的展開とは一線を画すと見せながらも、淡々とストーリが流れる。いや、本当に流れる。ラストにハッとさせるようなインパクトあるものは見せる。

映像としては、自然光の取り入れ方にすごく気を遣っていると感じた。画面半分がシャドウがかっていても、完全に雰囲気を落とさずに、自然光と調和と保とうとするところに、場の空気感を重くせずに伝える。また、その自然光の入れ方によって、顔のつくりの濃いキャストのハイライト部が妙に際立ったのが気になったというより、笑えた。

物語は各所に病気の話がちらつくが、人生誰でも経験することであって年を重ねるということも病気を重ねることであると言える。栄養バランスということを考慮しない食生活を送る私にとっては身につまされる展開だった。ここは笑えないな。
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by stoneroses8010 | 2005-06-14 18:37 | 映画
2005年 06月 14日

つづいてゴッホ展

ゴッホ展を観る。
あまりゴッホにシンパシーは感じてないので、なにがどうだのいうつもりはない。しかし、「古靴」は相変わらずシビれるものがある。古靴は最初から存在するわけでなく、人が履いて履きつぶした後に残るものである。そこに不可視なはずの時の重みを感じ、どんなことと遭遇してきたのか。持ち主は何を経験してきたのかを想像してしまう。それは時を経ることによって、貫き通した信念や達成感を感じさせれば、路頭に迷った挙句放り出されたような無念さすら感じることもある。
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by stoneroses8010 | 2005-06-14 16:40 | arts全般
2005年 06月 14日

TDC

TDC展を観る。
臼井典子のB2の紙にペンのインクがなくなるまで、同じ文字を紙に書き続け、そのストロークによって、歪な全体像を作り出す作品があった。

これを観たとき、なぜかロール・ピジョンの青インクで書かれた網目の細かい絵を思い出した。その絵は、細かい線で余白を造りながら網目模様を延々と描き続けるもので、何を描いているでもなく、ただ繰り返す作業の中に、装飾的なものが出来上がる。臼井の絵の全体像にも何かのシンボルが連想される。おそらく作者自身も意図したものではなかったのではないだろうか。

グランプリをとったアンドレアス・ミューラーの作品は、一枚の紙に書かれたいくつかの文字が竜巻のように宙に舞ったり、茎の役割を果たす線とその先に咲く花として文字が扱われたりしている。

彼の作品のキャプションを読んでもあまり理解できなかったが、私としては、文字が情報伝達から視覚に訴える時代を経て、次に個人の経験と内面化させる記号として使われ始めている気がする。映像で見られる数々の嵐や花が畑に咲いているような自然現象(?)は、だれもが見て、そうそう、嵐が起ったらこんな風にモノが飛ぶよねと納得させるように仕向けられているのではなく、作者なりのスパイスが込められている。それは彼自身の視覚経験が根源となっていることは間違いなく、それを見ている人間とマッチングさせるのではなく、嵐という現象による彼の解釈である。音楽を奏でられている感覚にも似たような。

他、個人的には井上嗣也のエディトリアルデザインが大変参考になった。Simple is betterである。
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by stoneroses8010 | 2005-06-14 12:02 | arts全般
2005年 06月 13日

ちょっとした苦慮

最近、情報を編集して文字にする作業に追われているので、客観性が作用しているのか、何かを造っているときの火のついたような感覚にならない。ストレスでもある。見る目は失いたくないので、資力、労力、体力の続く限りは身体を動かすことにしている。しかし、それと同時並行して、思考を重ね、手を動かして「造る」ことをしないと身体が劣化していくような感覚になる。時間の余裕がないため、気合入れて取り掛かることにならないのだが、デジタル一眼レフ導入で、写真においては時間短縮と効率性が見込めそう。「見るものは大抵見たんで、ぼちぼち自分のもの造ります」と大学時代に思い出せないが、誰かが言っていた。そうそう、この青っちょろい背伸びにも似た感覚だよ。これが必要。それほど時間は残されていない。
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by stoneroses8010 | 2005-06-13 20:26 | 我思ふ
2005年 06月 08日

マグナム

NHKスペシャル 終戦60年企画「一瞬の戦後史~スチール写真が記録した世界の60年~」を観る。
ドキュメンタリ写真は、起源がいつにあるのかはわからないが、旅行写真から端を発するようである。旅行写真家たちが、世界を巡ってその内容をスライドに収め、販売や講演を行っていた。また、政治的意図を含んだ記録写真もドキュメンタリ写真の起源としての存在といえる。変貌するパリの様子を記録するように任命されたシャルル・マルヴィルや少し時代を経た後で、ウォーカー・エバンスがアメリカのFSA(農村安定局) 依頼により、不況下の南部農村の経済と社会状況の記録している。

時代を経て、二つの要素がドキュメンタリ写真に新しい展開を与える。一つはカメラの軽量化である。アルフレッド・スティーグリッツらによって、撮る人間の意志によって場面を切り取る作業から、日常をありのままに撮る視点が提示される。もう一つの要素は雑誌、新聞といったメディアの拡大である。戦争という世界情勢を一刻も早く目にしたいという欲望を満たすために、写真家は小型化したカメラを手にして、世界を飛び回るようになった。そこから、写真家独自の視点で、戦争という社会情勢を様々なメッセージを込め、フィルムに収められるようになった。

R.キャパのソビエト連邦の市民の暮らしを撮り、そこで暮らしている人がどのように生活しているのか。何を考えているのか、何を見て笑っているのかを写し出す。そして、訴える、彼らの願いは我々が願っていることと一緒である。分かり合えると。

E.アーウィットは、ニクソンとフルシチョフの対面に立会い、写真からイデオロギー対立の空虚さを諭す。
(個人的にはE・アーウィットの真髄は子ども、犬などの「小さきもの」に対するまなざしだと思っているのだが。)

朝鮮戦争では、韓国の北朝鮮捕虜収容所の非人道的待遇と反共思想を強要する「刺青」や自由の意味も解さず、張りぼての自由の女神の前でフォークダンスを躍らせる様子が記録されている。
マルク・リブーは北ベトナムに赴き、防空壕、自転車で物資を輸送する人々、少女兵士という市民の暮らしからベトナム戦争における北ベトナムの民族総力戦の様子を写す。一方でそのベトナム戦争のアメリカでの反戦デモで、銃を突きつける警備隊に花をささげた少女をカメラにおさめる。銃器とそれに対する花というコントラストは、反戦というメッセージを痛烈に与える。そういや、これを見て電通のアートディレクターである徳田祐司の「retired weapon」というシンプルなグラフィックを思い出した。それは、ピストルの銃の先っぽが90度に上に曲がって、それから花が咲くというもの。「本来のクリエイティビティは批判や評論でなく、提案でなくてはならない」と語る。戦争ドキュメンタリ写真とは違った方向性。いや、方向性というよりも何を伝えるかという目的が異なるのだろうな。
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by stoneroses8010 | 2005-06-08 21:07 | arts全般