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2005年 08月 30日

セミナーⅡ

次に興味深かったのは、「文化政策と社会」というセッション。

元文部省現在大学教授の方が「政策評価」について、その導入の流れを小難しく語る。
流れとしては、テクノクラートの情報の独占とその非対称性があったのだが、メディアによる批判や市民参加の風潮、そして「公共」を「皆が自由に討議できる空間」と位置づける考えにより、政策に対する「評価」制度が導入され始めたとのこと。
ただ、公務員による内部評価制度が主流となり、国や地方のやっている事業を国や地方公共団体が望む評価方法を導入する流れとなっている。
国や地方公共団体は財政難に悩んでいる。よって効率的経営によりそれを打開しましょう。徹底的に経営の合理化をすすめ、「民」に任せられるものはドンドン渡していきましょうということでアウトソーシングも進むというのである。
この教授が言っていたところで面白かったのは、「モノに対する評価は、ある見方では悪く見えても、別の尺度では評価が異なる。角度の捉え方で評価は変わる」と述べ、「そういった別の見方ができなければ、公立施設は経営合理化の観点からすればほとんど廃止せざる得なくなる」と続けたところ。
要はいかなる「目的」を持った評価ができるか。それによって評価の指標も異なるということだ。
また、評価というのは得てして「政治的な力学」が働くものである。つまり何らかの目的を達成する前提で指標を編集する作用が働くことを述べていた。

文化庁の役人の方が、現在の文化政策の現状を述べる。
グラフと数値による文化振興の経緯の説明。
文化政策は、情報公開によって「官」の不振を招いているから「民」の力の導入が求められているというちょっとよくわからん論理とだからこそアカウンタビリティが必要という公務員の鑑のような見解。
地方公共団体においては、教育委員会は文化財関連を扱い、ソフト事業やパフォーミングアーツは市長部局に流れている傾向と人事異動による行政のパフォーマンスの低下を防ぐためのプロパー職員の配置による補充が必要という教科書に出てきそうな意見に「違う意味」で感動した。

この方の見解で面白かったのは、学者の方やNPOの方は税制について勉強された方がよろしいのではという指摘であるが、この指摘は後の質疑応答で猛反論を喰らう。
この方の考えでは、どうも文化をテーマにしている法人の税制の優遇化について、それぞれ対応がまちまちでいいのか、一元化すべきなのか、優遇するならどうコンセンサスを取り付ければよいのかということが頭にあるようである。
よって、税制についての見解として、国民がどういった税制を望んでいるのか意見を吸い上げ議論すべきである。税についても国民の希望も多様であろうとのこと。
また、税制とは政治的な力学で動くものであるという。よって文化庁は税制に対しての方針はないと述べた(これは方針を立てる必要を認識しているものの、今は立てていないということ)。だからこそ、その政治力に対抗できるような国民を中心とした政治的な組織が必要と続けた。

しかし、どうもこの方の考えはなじめない。まず、国民や法人が望む税制を考えれば「取られる税金は少ない方がいい」に決まっているわけで収拾がつかなくなる。控除がこうあるべきだとの議論は出来ても、芸術文化のために税制をどう導いたらよいかという議論はできない。
というのは、税についての、個人の情報の非対称性は圧倒的に根深い。
サラリーマンは会社が全部やってくれるので勉強しなくてもいいし、アルバイトは納税意識が希薄。企業でさえも、滞納することはある。確定申告を経験する自営業者のほうがまだ税に対する意識はある。
なぜこうなるかというと、税に対する教育が日本にはないためである。国民の義務として掲げられているも、なぜ納税するのか、はたまた何を納税すればいいのかわからない。
なぜそういった教育がなされていないかというと、日本の税制はかなり歪なものになっているからだ。たとえば、所得税は現年で源泉されるのに、地方税はなぜ前年所得を課税対象とするのかなど。そのあたり内容や理由を詳細に教育していくと、議論を呼び起こすことになるので、「寝た子は起こすな」というべきか、意図的に教育を施さずに大人しく納税を促しているような側面があるように思う。

まあ、とにかくこういったことで税に対するリテラシーがない限り、「(芸術文化のための)税に関する国民による議論」とやらは不可能に近いなと漠然と考えている。というよりも、税制が政治的な力学により左右される文化庁の力が及ばない領域であるという考えから、国民に議論を丸投げしているような感覚にすらなる。

そうそう。後の質疑応答でNPOの方が、NPOの芸術文化事業に対する行政のバックアップについて考慮して欲しいとの意見をやんわり述べられていたが、それに対する元文部省の教授は「NPOもそういった事業に対するパブリケーションが必要である。政治的な立場にある人間のリテラシーを育むような取り組み(政治家を招待してその素晴らしさを堪能させる)をすべきだ。アメリカを含め、国内の少ない施設の成功事例にはそういった努力がある」と述べた。

私は、どうやったらその政治的な立場の人間とリテラシーを育めるような仲になれるのかではなく、その成功事例において、どういった立場の人間が政治的立場にある人間とパイプを持つことが出来たのかに興味が沸いた。
というのは、事業やレセプションにそういった人たちを呼び込むには、それなりのパイプが前提となるからである。崇高な目的を持って完成度の高い事業や徹底した広報を行っても、パイプがなければ呼び込むことが出来ない。そういった人脈を築くには、どの人とつながりを持ったらよいのかは理解できても、どう手をつけていったらよいかというのが不鮮明であり、そういった情報も事業を行う側の政治的立場によって入る、入らないの差が出てしまうのではないだろうか。
だから、現状に即した「もっとパブリケーションをしなさい」という議論よりも、そうではなく、そういった力学が作用するからこそ行政がそれに対して、どうフォローできるかという議論のほうが建設的であると思える。
「文化は政治力」とは言うものの、そう政治力を持った人間などいるはずもなく、また、わんさといたらそれは政治力とは言わない。格差が生じるからこそ「政治力」は力を持つのである。
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by stoneroses8010 | 2005-08-30 12:57 | 我思ふ
2005年 08月 29日

セミナーⅠ

神奈川へセミナーのために泊りで出掛け、文化政策におけるシンポジウムや発表などをいくつか聴講する。内容はどれを取っても専門的でかつ難解な用語が連続で発せられたため、素人に近い私としては、噛み砕くというよりも、その言葉の波をどう色付けして整理していけばよいかを考えることで必死であった。しかし、そんな頼りない私でも2,3の疑問にぶちあたる。

「地域における文化政策と教育・研究機関」についての発表及びシンポ。ここでは、文化政策という分野を大学で学問として取り扱い、どう学生に教育を実践しているのかという現状報告と地域というフィールドに学生が飛び込み、デザインソースを提供しながら地域とのつながりを強化する。その活動をいかに発展させていくべきか、またそれを通じて個人の能力をいかに創造的に発揮させることができるかという試行錯誤の実践の報告が主だった。

そのため、各大学ではインターンシップ制度を設け、学生をバンバン公立施設、企業などに送り込むことになる。そこで、大学は、学生に世の中がどういった問題を抱え、どうそれに対して解決を図ろうとしているのかを知って欲しいと狙いを持っている。正解を発見させるのではなく、実践方法を感じ取れといったメッセージ性である。事業の表面だけでなく、その裏側の税務、契約、事業の持つ付加価値などを様々な角度から見てこさせようとするのである。報告者もそういった願望を訴えていた。

しかし、ちょっと待って欲しい。インターンシップの受入れを過去に担当したことのある私としては、大学の願望とそれに対する処理の仕方に疑問を感じる。
大学がインターンシップ受入を要請するときは、だいたい、時期や人数を明記した事務文書が届き、こちら側がその可否を伝えるという「出前の注文」のような作業で終わる。そこに大学のメッセージ性はない。
私が担当した時は、施設を動かす表面だけでなく、裏の仕事も見せようと契約や打ち合わせ関連の事務も極力肌で感じられるようにしたが、学生にインターンシップの意義が伝わっていないのか上の空状態。
結局、イベントの手伝いをさせた時が一番嬉々とした顔をしており、「あー楽しかった」という小学生の夏休みの思い出のような経験とともに終わってしまうのである。
そもそも大学がインターンシップ受入をさせる2週間というスパンでタイミングよく、大学側が期待するような局面に遭遇することは稀である。
また、受け入れ側も、大学のメッセージ性が弱いためか、はたまた、「インターンシップ」という制度の不理解のためか、学生がやってくることに対して、ほとんどナメきっている。
「遊びに来たのだから、楽しい思いだけさせりゃいいや。なに、学生を評価しろだって。まあ、単位落とすのもかわいそうだし、いいように書いてやるか」
大学のメッセージ性の弱さ、学生のモチベーションの希薄、受け入れ側の不理解というこの三位一体が作用して、「インターンシップ」制度の発展を妨げているといっていい。2週間というショートスパンがさらにネックとなる。もちろん、すべてがそうであるとは言わないがそういった現状もあるということの理解は必要である。
私はこのシンポでインターンシップの意義を十分に理解することができた。この熱意を実際にインターンシップ受け入れを要請する際に、受け入れ側に伝えるような工夫をして欲しい。
おそらく、各大学がインターシップ制度を導入し始めて、10年も経っていないと思う。いまなら修正ができる。
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by stoneroses8010 | 2005-08-29 17:55 | 我思ふ
2005年 08月 27日

Untitled

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by stoneroses8010 | 2005-08-27 02:13 | photo
2005年 08月 24日

自分の中で出来上がってしまっている何か

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もう空は助けてくれなかった。
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by stoneroses8010 | 2005-08-24 22:36 | photo
2005年 08月 22日

powerlessness

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己を知らぬ者たちへ
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by stoneroses8010 | 2005-08-22 20:35 | photo
2005年 08月 21日

cave

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by stoneroses8010 | 2005-08-21 23:10 | photo
2005年 08月 20日

リンダリンダリンダ

c0017549_15353411.jpg映画「リンダリンダリンダ」を観る。

チープ、青臭い。しかし、観ていて楽しい映画。私は好み。

軽音楽部に在籍する女子高生が高校生活最後の文化祭に向けて、メンバーの仲違いにより空中分解したバンドに韓国人留学生を加えて、新たに結成し、練習から発表となる文化祭最終日までの日々を描いたもの。

文化祭前日から3日間ある文化祭最終日までの4日間の内容だが、そこで、メンバーが音楽面だの色恋だの(多少らしきものもある)で苦悩し、それを乗り越えて最後に最高の舞台を見せるといった山あり谷ありハッピーエンドをいうものではなく、一日一日をバンドのメンバーが練習から発表のプロセスを楽しむどこでもありそうな話となっている。

しかし、これは悪い意味言っているではない。
あるシーン。メンバーの4人が夜の学校の部室に忍び込み練習し、その休憩中、屋上でスナックを食べているシーン。バンドの名前をどうするだのしゃべっているのだが、そのうち一人が「こうやっていることって結構覚えてたりするんだよね、本番のライブとかは夢中でやっちゃうから、頭が白くなって何も覚えてないというか・・・」という。この練習から本番までの「こうやっていること」というプロセスがこの映画の中心であり、それが私には羨ましいし、やったことよりも大切な何かが残る時だと思う。

社会に出るということは好きなことをやっていれば、周りと摩擦を生み、緊張関係をもたらす。そうやってぶつかることで、他人との境界線を意識し、その社会のなかの自分を作る。しかし、学生は、好きなことをやっていても周りとの摩擦が生じにくい。境界を意識しないため、楽しむためにどこまでも手を伸ばそうとする。
それは学生だからできることだよと、冷めた目線で言いたくはない。「求めよ、されば与えられん」

The blue heartsの関連性。
この物語で女子高生バンドはブルーハーツをコピーする。そのブルーハーツとこの映画の物語との関連はパンフレットの山崎洋一郎氏のコメントが上手く解説してくれている。
氏は「ブルーハーツは懐メロにならない。いつ聴いてもリアルタイムなんです。(略)主人公たちは何も確かなものがない日常生活をおくる中で曖昧な高校生活が終わろうとしている中で、ブルーハーツの音楽に出会って、確かなものを感じた。そこにすごく必然性があるんじゃないかと思いました。」と述べる。
私もこの意見に同意である。ブルーハーツの音楽は、いつの時代でも若者が抱えてそうな心の言葉に出来ないモヤモヤしたものを何も包まずにそのまま吐き出す。その音楽は、高校生が持っている心のデフォルトの部分に響く。そこに「今」や「昔」などはない普遍性を感じる。もしこのブルーハーツのコピーバンドという設定でなかったら、全く違った物語になっていたと思う。それだけ、音楽と映画の結びつきが強い。
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by stoneroses8010 | 2005-08-20 15:45 | 映画
2005年 08月 19日

suffering

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by stoneroses8010 | 2005-08-19 23:57 | photo
2005年 08月 14日

Green day

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by stoneroses8010 | 2005-08-14 16:10 | photo
2005年 08月 13日

出会う人すべてが師匠

前の職場へ陣中見舞いに赴く。私が以前担当していた主催事業の真っ最中だからだ。
そこで、1年半ぶりぐらいに、私が担当していた時にカウンセラーをやっていたが、諸事情によりやめてしまったコに出会った。

大学のインターンシップの関係で再び施設で実習を受けているらしい。再会を喜びしばらく話す。彼女は大学に通学しながらモデルを目指すべく東京にも行ったり来たりの生活をしているという。定職があるわけでもないので、出費が重なるわけだが、自分への投資と割り切り、その道を目指す過程の苦しさとそこから生まれる楽しさに充実した毎日を送っているとうれしそうに話す。

そして、私に感謝しているというのだ。どうも彼女は、カウンセラーをやっていたときに、私と施設の仕事をしていて、インフォーマルに話した何気ない雑談の中で、私が彼女の背中を押す言葉を発したというのだ。実は私もこの言葉のやり取りをある程度覚えていたが、それが彼女を突き動かすほどのものになるとは思いもしなかった。

私は人に何かを伝えることができるというのは、自分自身が生きていく中で、もっとも大切な経験だと思っている。それが、「言葉」というもので伝えることができ、人を動かし、動かされたその人が何かを生み出そうとする事実に強く心が動き、これからの自分に対しての刺激となった。

人から教えを受けるというのは、なにも自分より年配の人間とは限らない。出会う人すべてが先生とはよくいうが、それを肌身に感じる。だからこそ、あらゆる場所に身をおいてみたい欲求に駆られてしまう。

金子郁容は「ボランティア」(岩波新書1992)の中でボランティアとは、結果や評価など関係なく自分の感情や関心が働くある状況のなかにコミットメントをはかり、自らの意見や考えや行動を提示することで自らを投げ出すバルネラブル(傷つきやすい)な存在だという。その反応は全面的に人に委ね、それに対して、さらに自分が情報や意見を提示して再び反応することでネットワークを築くことを「つながり」とした。

なぜこういったことを思い出したかというと、「あらゆる状況に身を置こうとすること」に、「バルネラビリティ」を感じたからだ。それなり、使命や責任、人間関係が生じ、労力と資力を要する時もあるのだから、すべてのことが楽しいという一言で済ませられないのは当然のことである。自分自身が傷つきやすい存在になり得るのである。
ひょっとして気軽に好きな活動に生涯学習の一環として参加する博物館などの文化ボランティアのコミットメントとはこういった心理作用なのだろうか。

また、一人カメラ屋でバイトしながら、IMI大学院に通学しているコを話す。彼女も「写真」に対して真剣になる楽しさを感じているようである。技術だけでは片付けられない自分の写真に対する思考の大切さを噛み締めているようだ。その場のノリで写真展でもやってみようかという話が浮上する。いい機会だと思うが、お互いの都合もあり、予定は未定といったところ。とりあえず、9月に撮影と互いの作品を見せ合う方向で話が進む。また予定が詰まってしまった。うれしい誤算でもある。
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by stoneroses8010 | 2005-08-13 23:21 | 我思ふ