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2006年 01月 29日

jungle gym

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僭越ながら、Loretta Luxの子どもたちのために
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by stoneroses8010 | 2006-01-29 21:22 | photo
2006年 01月 26日

reality?04

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from umeda
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by stoneroses8010 | 2006-01-26 01:57 | photo
2006年 01月 22日

有頂天ホテル

よく眠れないままに起床。軽く二日酔いになる。
今日は明石まで友人宅にお呼ばれしているので、早々に家を立つ。
新鮮でおいしいお寿司をご馳走になる。二日酔いでなければもっとおいしく食べれたのに、残念。
その後は、写真を撮りに行くと最初から決めていたので、友人たちと別れ、ある程度イメージしていた場所にフラフラ行き着く。しかし、寒さに耐えれず、2時間で撤退。まあ、予定通りといえば予定通り。

家にいったん帰宅して、雑事を少しこなした後、レポート関連を喫茶店でこなす。
この時点ですでに日は暮れている。が、映画を見に行く事にした。今年に入って初めての鑑賞。出だしがかなり遅れている。

「the 有頂天ホテル」
言わずと知れた三谷幸喜監督・脚本の映画。
全体的な感想は、古典的なコメディの仕掛けが貫かれている点。人とものが行き交うことで発生する「勘違い」に巻き込まれているキャラの行動と、それを「ああ、こいつ勘違いしているな」と当惑しながら、もしくは勘違いしていると知らずに周辺キャラがレスポンスする。そして、観客が、その行動と反応を俯瞰的に観る事ができ笑えるという仕掛け。
たとえば、役所広司が、前妻の前で見栄を張って、ホテルマンという素性を隠して、「鹿の交配の研究者」に成りすまし、その功績が称えられる会でスピーチをするのだが、前妻は、その真の研究者が現夫であり、彼がその会の本当の主賓なので、役所広司のウソがまるわかりなのである。しかし、彼への心遣いのため、言うに言い出せず当惑してしまうという場面。
これらの仕掛けは、古く言えば「ドリフ」だったり、海外コメディドラマにも見られたりする。
あと、カメラがワンショットで流れているシーンがかなり多かったように思う。ホテルと言う不特定多数の人間が行き交うので、その臨場感を損なわないように、ホテルという演出でなく、ホテルで撮っているのだという主張を感じる。

劇中の最後の松たか子の佐藤浩市に浴びせるセリフは、陳腐なれど、貴重なもの。この映画を観て、そしてここ数日の出来事を思い返してみて、私自身、まだまだ「決心」が未熟だとそこから感じた。
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by stoneroses8010 | 2006-01-22 23:38 | 映画
2006年 01月 21日

飲み会も、経験重ねりゃ、話題も変わる

昼起床。体が少し軽くなったような気もする。
生活関連にまったく手がつけられない状態だったので、少し時間を割くが、ほどなくして家を出る。写真撮りながら今日の店の下見。

夜からは、大学時代の友人16,7人集まって飲み。非常に楽しめた。
印象に残った点は3つ。
一つは、自分の年齢は同期の友人の生活環境を把握することで、客観視できること。自己評価とは、自分で自分を評価することであるが、それは内面によるものではなく、他者からのインパクトで見直すことが私には有効のようだ。(自己評価というより単なる比較だな)

二つは、会社経営をしている友人からラスキンが言うような言葉を発したことに対する感動。私はいま、レポートで「福祉国家の危機と労働の二極化、NEETなどの新現象の相関を考察する上での視点」とやらをお題にもらっているので、酔っ払いながらも耳を傾ける。
その友人は、いまのニューエコノミー社会に対して、終身雇用をはじめとした労働者の生活環境あっての経営基盤の重要さを指摘していた。ここまでは、そう論説する風潮も多少あるので驚かない。労働と努力に対する報いと能力を発揮することで保証される希望の提示を取り戻す。ライシュは「ネオ・ラッダイト運動」と名づけているらしい。
しかし、彼は続けて、経営者は労働者の生活、社会全体の利益に対しての道義的責任を自覚するべきだという。これはラスキンの経営者は社会から信託された立場にあり、雇用者は被雇用者の発達保障をコーディネイトする立場でもあるという主張に似ているのではないかと勝手に解釈する。これを教えてくださった教授は「こんなことを言えば世間から袋叩きにあうかもしれんが」と言っていたが、現場でそう実感し戦っている人間がいる。

三つ目は、福祉担当の行政職の先輩から、国民年金は制度的に破綻しない仕組みになっていると断言されたこと。その主張の詳細が思い出せないのだが(酩酊)、そのシステムとしての破綻は円の国際的信用と相関性が強いとのことで、共倒れにならないように税、他の社会保険からの運用で破綻しないように設計されているらしい。本当かどうかは今でもよくわからないが。こんなサイトも教えてもらったり。
http://www.takarabe-hrj.co.jp/takarabe/clock/about.htm
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by stoneroses8010 | 2006-01-21 23:30 | 我思ふ
2006年 01月 20日

思った以上に体調不良が響く週末

今週は非常にタイトな1週間だった。
年始の体調不良がたたって仕事があまり進んでなく、それを完調ならずも巻き返さなければならない。院関係では、担当教授に今までの研究内容の報告(要約)のための資料作成と提出を早急にせねばならなかったし、レポートもある。週末は大学時代の友人が大阪にやってくるので、その段取り。写真も撮りに行きたかったので、その準備と効率よく動くにはどういったスケジュールで行こうかなど考えたりと…。

仕事終わりに院へ。最終の授業だったので休むわけにも行かない。第一、担当教授との研究の打ち合わせもある。金曜ということもあって、かなり疲労を感じながらも、最終の試験を受け、その後教授と話す。
総評は、この段階にしてはよくまとまっているが、問題提起が甘いことと、新規性を出すなら、もう一つの違った角度からの検討が必要な点を指摘される。それは私も不安に感じていた部分ではあったので、やはりそうかと納得する反面、気落ちもした。
さらなる資料提供と、少し横道にそれる覚悟でこういった展開をしたらどうかとのアドバイスを受ける。帰り際に、外部に発信できる研究組織の設立の話を聞く。なぜ私にいうのか意図は不明だけれど、諸先輩方がしっかりなさっているから楽しみですと返答しておく。
教授と別れた後、明日の段取りを店と友人、交互に連絡をして行う。
スターバックスで一息ついて、自宅に戻り、泥のように眠る。
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by stoneroses8010 | 2006-01-20 23:50 | マスターへの道
2006年 01月 18日

reality?03

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by stoneroses8010 | 2006-01-18 23:49 | photo
2006年 01月 15日

reality?02

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by stoneroses8010 | 2006-01-15 23:31 | photo
2006年 01月 13日

reality?01

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by stoneroses8010 | 2006-01-13 00:01 | photo
2006年 01月 09日

B.Gutschou公開講座

体調は悪化の一途をたどる。発熱しているが危機的状況ではない。タミフルが利いているのか。今日は祝日だが、仕事である。だいぶ前より人に頼まれたものであったので、体調不良で行かないわけにも行かず、いつもより早く家を出る。安請け合いした自分に激しく後悔する。
仕事は昼過ぎに終わった。この時点で体調が良くなるはずもないが、以前より申し込んでいたB.Gutschouの公開講座会場に向かう。

公演といっても、スライドを使ってGutschou氏の作品を見ながら、勇崎哲史氏を聞き手として、その作品の製作意図や技法を伺うというもの。
B.Gutschouの作品は20から40までのパーツを別々に撮影してphotoshop上で加工して一枚の写真として完成させるというもの。

全体の作品の製作意図は「メディアへの知覚の表現」にあるという。
メディアの報じる写真全般にドキュメンタリ性があると信じることができないというB.Gutschouは、場所、時間の異なる全く異なったパーツ(被写体)を組み立てることで写真と現実のコンテクストを消失させ、ドキュメントの否定を行う。
紹介された作品は【モノクロ 建造物】【カラー 自然】と2つのタイプがあった。
モノクロの建造物シリーズは、実在する階段、柱、建物のパーツを組み合わせ、近未来の都市空間のような風景を完成させている。本人は「マイナスのユートピア」をイメージしていると述べ、モノクロを選択したのは、モノクロはドキュメンタリ性を強く引き寄せることができる。だからそれをあえて用いて、デジタル加工した上で、写真のドキュメンタリ性の否定に挑戦したと理由を付け加えた。(後に彼女は、モノクロにはつくりごとの世界、自由な世界を構築できると言っていた。どっちなんだ?)
カラーの自然風景は、絵画の木、草原などのパーツを組み合わせたもので、小さい人影も時には配置する。全体的に、人の視点を写真のなかにいかに誘導して行くかの仕組みがあるという。たとえば近景に人の目を引きつけるモチーフを設定し、その奥に人影と配置して遠景を覗いているという具合。こうすることで、観る側の視点が近景から遠景に吸い込まれていく。
絵画を選択した意図は、色彩を持つ風景のパーツであること。そして、近代風景画自体は実際は外に出て見てきたものを描いたものではなく、アトリエで作成されたものが多い。その「見ないで描く」という非現実性がリアルを想起させなかったところにあるという。

自然や建造物のシリーズは、写真を撮るという現実の自然や建造物を複写するというのではなく、もうひとつの自然をデジタル加工というもうひとつの手段で撮ることを選択しているところにオルタナティブなものがあると感じる。
現実の否定から生まれるデジタル加工という現実の切り取りのための複写から抜け出たもうひとつの表現。
彼女の主張で一番しっくり来たのは、「現実は一つのマティリアルに過ぎない。そのなかに写真には写らずとも内在するものをいかに可視化できるかを考える」というもの。確かにその通りで、そこに自分の心や思い入れがあろうが、写っているのは現実の複写に過ぎない。彼女の主張を一歩進めるならば、だからこそ、あえて見えているものだけを突きつけることで、自分と他人のイメージストックを共鳴させる必要があると私は感じる。それがおそらく「可視化」だと今は思う。(そこに主観をどの程度内在させたらよいかというのは個人差と表現意図による)

勇崎氏は、最後に写真というのは主観の導入により嘘をつくのが上手いメディアである。PCにより非現実感をさらに増加させたところに現代写真が示すものの不安定さを感じると述べた。
もはや、「現実」という概念が、現在のメディアの技術的変化によって、大きく揺さぶられている。今までは現実という一拠点に対する非現実性、社会性、主観から生まれた作品群が主流だったが、その足場すら緩んだ今後の状況を推察すると、ごく自然な反応と思える。
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by stoneroses8010 | 2006-01-09 17:18 | arts全般
2006年 01月 08日

「ドイツ写真の現在」展

昨夜から体調の変化に気づいていたが、今朝起きたときその予感は当たっていたと気づく。喉の痛み、頭痛、関節痛。インフルエンザかと思い、熱を測ったら、平熱だった。しかし、これが発熱の前兆かもしれないと思い、急いで、個人的に備蓄してあるだろう一年前のタミフルを探す。すると一つ発見することができた。期限があろうとなかろうと知ったことではない。この連休で病院などやっているはずもないので、藁もすがる思いでそれを服用することに決める。
しばらく、安静にしていたせいか、発熱に至らなかったので、当初の予定通り、「ドイツ写真の現在」展を観にいく。やることが詰まっているのに寝てられない。
そういえば、昨年の今頃も、京都国立近代美術館に行ってたな。

A.Guskyはライン川や広大な牧場をモチーフとしてパノラミックに形状と色彩の反復を見せる。わずかながらシンメトリックを潜在的に思わせるところもあり、既存の風景に存在する直線的な形状が印象的である。
Becherが「タイポロジー」という手法で、建造物に内在する無意識の美学的意図の可視化及び比較を提示したのに対して、Guskyはそのパノラミックな風景の中に、今では世界いたるところで確認される「巨大なものの普遍性(図録より)」を提示している。図録では、それがグローバリズム、資本主義社会を指し示すものとして挙げられている。

M.Schmidtはベルリンの壁をテーマとして、そこで生活する人々のポートレートや自然、新聞写真、彫刻写真を組み合わせてその場に残っている記憶を可視化させようとする。
写真の集団的構成力は一枚一枚になにを見せたいのかと問う姿勢を凌駕する力がある。ただ、ここにあるのは、物質の記憶による記憶の可視化であり、無形の出来事から発する記憶の断片をどう処理していけばいいのか疑問が残った。メディアへのアプローチがそれに通ずるものがあるのだろうか。

T.Demandは歴史的な出来事や報道写真をモチーフとして、その出来事が起った「場」を原寸大の紙を使い、作り上げ撮影する。
空間を構成している物質の違和感、空々しさ、冷たさが漂い、現実的なシーンを想起させない。現実のシーンを想定しながらみせる虚の世界観。その作為性は、実際に起りうる出来事を報じることに対する疑いのまなざしがある。

L.Luxは子どものポートレートにデジタル加工を施し、肌の質、瞳、身につける着衣をマネキン人形のように見せる。ファンタジーの世界の住人のような感覚。
図録では、「絵画と写真の間を自由に行き来しながら、彼らを「無垢と失われた楽園のメタファー」として作品の中に登場させている」とある。
私は、杉本博司の「肖像写真」シリーズを思い出した。杉本は生のないものを生があるかのように撮影するが、ここでは、生のあるものを生がないかのように撮影し加工する。「生きている」とはどういうことかをまた問い直させるものとなった。また、「生」というテーマを越えて、ここでは、いかに澄んだ瞳をしようと肌を透き通らせようと隠すことのできないうつろな表情から、現代に子どもが生きるということがいかに難しいかを想起させる。

H.Speckerは、日常で見慣れている「車」、「葉」、「壁」などを寄りで撮影するが、その質感をデジタル加工できめ細かく、あるいは変容して描写する。今回、一番のお気に入り。私は、この作品と対峙した時、物質と正面で向き合ったとしても、一つの意味づけで片付けられない不安定さを覚えた。現実の描写を想起させつつも、違う「何か」を含ませることで、我々が持つイメージストックを混乱させる。
また、「枝」などはバックがピンク色、水玉と現実ではありえない空間のなかで、セッティングされ写し出されている。図録では「人は対象をそれ単独で見ているわけではない。なにかとの対比において見て、そして世界を意味づけている。」と解説する。その解釈は私も同意するところであり、また、それとともにその対象への賛美を感じさせる。背景を消去することで、私は、被写体のみと向き合わなければならない。その強制力は、発見を迫られるだけでなく、一つの意味づけに収束させる効果をもつ。背景を持つ「車」などのシリーズとは反対の効果を持つ。

B.Gutschowhは、湖と草原の広がる広域な風景を2枚展示する。一枚はだれも人がいないが、もう一枚は家族が草原でピクニックしているような場面になっている。絵画のように見えるこの風景は、20~40のレイヤーで構成されたデジタル加工の風景である。作られた風景。

W.Tillmansは、おなじみのインスタレーションと何枚かのポートレートを展示。インスタでは、自分の記憶の強弱や被写体との距離感により写真の大きさ、配置が決まっているような気もする。これらは彼自身の思考の過程を指し示すものであって、それがどういったものなのかは彼は教えないらしい。一瞬一瞬の光景が自分の持つイメージストックと響きあって、観る人が作品の中に誘導される感覚になる。寄りと引きを緻密に使い分けてる。スナップショットのような写真だが、構図が計算しつくされている印象がある。日本の90年代私写真と同一視すれば、本質が見えない作品。

帰りに平安神宮でおみくじを引く。
「吉」。去年は「凶」だったので、まだマシかな。ま、まったく気にしませんが。
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by stoneroses8010 | 2006-01-08 17:24 | arts全般