確証はない。それを信じるしかない。

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2006年 03月 31日

fractal?

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by stoneroses8010 | 2006-03-31 00:29 | photo
2006年 03月 29日

sightseeing

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by stoneroses8010 | 2006-03-29 01:10 | photo
2006年 03月 25日

ヨーロッパ企画 「windows5000」

午前中は生活基盤の立て直しとフィルム現像。
現在所有している現像タンクではブローニーフィルムを1本ごとでしか現像できない。
あまりに不便なので、現像タンクの買い足しと薬剤諸々をヨドバシカメラで買い足す。

夜、ヨーロッパ企画「windows5000」を観る。
近未来(?)。香港のいまはなき、九龍城を思わせるボロアパートに住む住人と、それらを移転させようとする区役所員の話。区役所員は、事前に「windows5000」なる住民監視ソフトを使って、そのアパートの住人の生活を調査(覗き見)し、後にもぐりこむ。

そこの住人のライフスタイルとコミュニケーションが「あー、あるある」と思わせる。
洗濯物を干す方法、自分の意見に同意を求める人、蛍光灯からぶら下がるヒモでシャドウボクシング。
住人は部屋にいる限りは、その生活は見られない。そして、住人は他の住人と会うときには、ほんの一部の自分しか見せない。お互いどんな生活をしているか知らない。しかし、観ている側は、すべて観れる、空間を掌握できる愉快さ。

なぜか、ヨーロッパ企画の劇中の会話を聴いて、私はいつも大学時代のクラブの部室での会話を思い出す。たわいもない会話、しかし、100回に1回、ハッとさせられる一言。ゆるーい空気の中で、夜がふけるまで過ごし、翌日また集まる。生活の中心だった場所。そしてまた続く会話。

「サマータイムマシンブルース」が、映画化してヒットした時、だいたいのブログには「おバカな会話がいい」と評されていた。
しかし、これは表面的な「おバカ」な会話と単純に断定できるものなのかどうか。
私には、時間を濃密に過ごした者どうしのみが許される言葉を越えたなにかが土壌にあって、はじめて生まれる会話のように思える。
私は大学時代にクラブの部室で話していた「おバカ」な話やそこで考えていたことが、今でもかなり面白いと思っている。

彼らの劇には(ただ、勝手に私が懐かしんでるだけで)社会的なコンテクストを持たないし、確たるメッセージもないと思う。しかし、私は彼らを見て「懐かしい」と思う。
この感情は最強に近い。
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by stoneroses8010 | 2006-03-25 23:44 | arts全般
2006年 03月 25日

Uncommon Places:The Complete Works

c0017549_057842.jpg"Uncommon Places:The Complete Works " Stephen shore を入手する。

"Uncommon Places"のオリジナルと" forgotten"を写美で見つけたので、その場で購入しようかどうか迷ったが、結局amazonで購入することにした。
(forgottenはamazonでは手に入らないことが判明! しまった。その場で買っておくべきだった)

で、"Uncommon Places:The Complete Works "ですが、よい写真集です。
アメリカの原風景の記録といったスタンスですが、凝視すると構図が恐ろしく緻密に計算されていることに気づく。近景から遠景にスムーズに視点が運ばれるような仕掛けで、平面的に撮っているように思わせながらも、必ず「奥」を意識している。
色合いの共通性やモチーフの造形などを組み合わせるような遊び心も忘れない。
また、8×10で撮影されているので(おそらく)、そのディテールもいいのであるが、それよりも、私は、そのすべてにピントが行き届きそうな風景に、リアリティを揺るがせる不安感を覚える。それがいい緊張となって、作品に神経が引きずり込まれる。

こういった写真集にもっと早く出会っておきたかったなぁ。
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by stoneroses8010 | 2006-03-25 00:53 | arts全般
2006年 03月 21日

「私のいる場所 新進作家展 vol4」とワタリウム美術館

東京都写真美術館へ行く。「私のいる場所 新進作家展 vol4」

「フィクション」「ストーリー」「繰り返しの想像」「なぜ?」「対比」

ジャン・ポール=プロヘスは、「雨をつれてきた男」と題し、90年代に住んでいた村の日常の出来事を撮る。「目に留まるものに、驚嘆し、立ち止まって撮る」というシンプルな手法で、その村の一日をストーリー立てて構成する。
穏やかな村の一日。大人たちは天気を気にしながら、いつもの仕事に励む。子供たちは、いつもとかわらず、虫を捕まえ、動物を相手しながら遊ぶ。
スナップなのだろうが、ファンタジーのような、セットアップされたような虚実ないまぜの空間。

エリナ・プロテへスは、「the new painting」というシリーズで、自らの身体と部屋で空間と身体の影響関係を表現する。セルフポートレートで、「過ちを犯した女」などのテーマに挑戦しているが、それは内面のポートレートではなく、まさしく、見たままの身体と空間が作品となっている。また、身体表現の平凡さが、我々の日常につづくものを想起させる。

アントワーン・ダカタは、性、夜、彷徨をテーマとした、カラー、モノクロをアレ・ブレ・ボケを織り交ぜ、曼荼羅のように、彼と被写体の出会いを記録する。それは表面的に統一性があまりなさそうに見えるが、流れるように展開する。被写体との距離感が一定しており、それが、全体の被写体に対する畏敬の念を増幅させている。
「なにを」「どう」撮るというアプローチから「なぜ」撮るのかという観点。
街を歩いていると偶然の出会いというのはある。それを撮ることが、初動の実践ならば、なぜという自問は、その次の実践と思える。それは「判断」ということにもなり、出会いの「受け入れ」を選別するものでもある。難しいところ。

サボー・シャルタは、集合住宅の部屋の様子とグラフィックによる設計図を対にしていくつか並べる。設計図は、ゴミの分別機や、部屋、プールなど、理想の予定図が描かれている。写真は、セットアップされたような部屋や公園、バスルーム。集合住宅で営まれている日常のように見せながらも、空々しい設計図がリアリティを消失させる効果を持っている。

ジャクリーヌ・ハシンクは、「パーソナル・コーヒーカップ」と題して、普段会社で使われている個人の「お茶飲み」用のコップの写真を何枚も展示する。
その所有者のデータ「日に何回コーヒーを飲むか」などのリサーチも重ねて行う。こんなことが写真なのかと思われるだろうが、私はこの手の作品が好きで、たわいもない被写体が収集されることで、様々なことを想像してしまう。自分はどんなコップを使っていたっけ?と自分の領域まで想像を巡らす。写真を通じて、自分と作品がつながる一つの瞬間でもある。

セカンド・プラネットという映像のユニットは、美術館の未来はどうなの?という問いを世界各国の占い師にさせて、その映像を複数のモニタを並べ同時に流す。また、一方で、事前募集した500人より、見ている風景を携帯メールで送信させ、その収集されたものを、同時に送られたメッセージとともに流す。
「誰かが見た風景がテキストや写真、映像などに変換・編集され、他の誰かに伝わるとき、そのイメージはある特定の場所、特定の時間に存在していたものではなくなります。ここでは、それらの誰かが見た風景を、ある地域・文脈固有のイメージであることから解放し、別の地域・文脈に接続することができる変換・交換が可能なピースとして考えます。」
その変換は、映像のみよってなし得るものではないと思う。
なら、静止画で、展開するとすれば、それは何か。コピーか、引用か、コラージュか。はたまた、撮影者が撮るものが表現という今では揺らぎがちな前提から捉え直すべきか。シンディ・シャーマンでも、沢田知子でもない。まだまだなされていないことが多いことに気づく。

続いて、外苑前へ。ワタリウム美術館「夢の中からみつけた街」
ワタリウム美術館の現代美術コレクションのなかの写真作品を展示。
R.frank , D.Arbas , Man Ray などそうそうたるメンバーの作品が並ぶ。このへんは、あれがどうだ、これがどうだと言ってもしょうがない。ただ、frankの道の写真とArbasのポートレートを並べるってどういったキュレーションなんだろうと疑問をもつ。それに続いてA.Sander?寺山修司?うーん、よくわからん。

それはさておき、寺山修司の葉書群の作品はかなり面白かった。これは74年「寺山修司幻想写真館 犬神家の人々という写真展のために展示されたものの一部とのこと。
内容は、SMじみた格好としている男女の写真と「○○円かえせ」という現実味あふれる文章。こういった取り合わせの作品が何点も続く。

Rene Magritteの写真も展示されていた。彼の写真を観るのは初めて。
壁の向こう側を覗き込む人、人物のポートレートなど、絵画とは違ったかなり落ち着いた写真。まあ、このころは、写真を表現として考えるには、まだ試行錯誤の段階だったので、絵画のような超現実的な表現と比べては、少々見劣りするのも仕方ない。それよりも、彼がこのころに写真を撮るといった行為自体が、その後の活動の一端が垣間見えそうで面白い。彼の写真と絵画の関連とかまとめているものないかな。
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by stoneroses8010 | 2006-03-21 23:44 | arts全般
2006年 03月 20日

東京−ベルリン展

表参道から原宿に向かって歩く。晴れているが風が冷たい。
ここ2日間緊張感をある程度持続せねばならなかったので、とりあえず、何も考えずに撮る。
「ああ、ここがバッとなって、あそこがスーッと入った感じがいいなぁ」とか、佐内正史風のノリで、すべてを受け入れる勢いで撮る。だからかなり気分爽快。

六本木の森美術館へ行く。「東京−ベルリン展」
東京とベルリンと銘打っているが、20世紀前半の日本とドイツの絵画、建築、写真などの歩みを編年体でお互いの影響関係を指摘しつつたどっているという印象。とくに東京とベルリンにこだわっている訳ではない。

ジャンルも年代も広いので、展覧会の趣旨がなんとなく散漫。よって、印象に残ったものだけ記す。
普門暁「鹿・青春・光・交叉」。20世紀初頭のドイツの画廊「シュトゥルム」の活動の影響を受ける。モチーフは動物。(ドラゴン?)そのキュビスムの表現と暖色系の色合いのなかに時折見せるアクセントの緑が強く響く。

やはり写真。1929年開催の「独逸国際移動写真展」ヘルベルト・ハイヤー、モホイ・ナジ。
その影響をうける中山岩太、ハナヤ勘兵衛。日本写真史上の「新興写真」が開花する。フォトモンタージュやフォトグラム。

瀧口修造の「実験工房」。1960年代の美術、造形、文学、音楽と異分野の若手作家によって結成されたグループの仕事。「ASP」のオブジェ作成とその撮影のアイディアの多彩さ。撮影したのは北代省三、大辻清司。

もっとも面白かったのは、現代美術。キャンディス・ブレイツの「キング」。
小学校の教室二つ分の真っ暗な部屋の壁の一面に16分割された画面。そこに映し出される16人の男女。彼らはマイケル・ジャクソンのファンで、アルバム「スリラー」に収録されている曲を口ずさんでいる。それは、微妙にズレながらも奇妙なハーモニーとなっている。

リズムに乗って歌う若い男も入れば、身動きを全くせず口ずさんでいる女性もいる。
受け止め方の異なる個性が男女や年齢、肌の色を超えて同時性をもって見ることができるところが面白い。
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by stoneroses8010 | 2006-03-20 21:25 | arts全般
2006年 03月 19日

居心地のよさに、大学のときの部室を思い出す

昨日に引き続き、平塚で取材。

平塚市美術館。WSCという市民主体で博物館活動を行う団体の活動実態調査。
ここでも「こうだったらまとめやすいだろうな」と思っていたことが、少し当たっていたので、安堵する。

浦安の分業と打って変わって、担当の方ひとりの血のにじむような独力による実践過程を伺い、感心する。
もし引退することになったらどうなるのかと伺ってみた。即答で「なくなることになる」とおっしゃっていた。しかし、ソフトというのは人についてくるものである。それはおかしいことではないと意見を付け足された。
「公立」の施設として、それはどうだろうと思ったが、実際はそういったことはここだけの話ではない。

プロジェクトの生成過程は、「自然発生」的に目標や役割、コンテンツを作っていく。それにはメンバー同士、メンバーと担当者との対話がポイントとなっている。「なぜこれをやるのか」「なぜこうではいけないのか」はとことん説明するとおっしゃる。そして、メンバーの能力や適性を、作業をともにして行く過程で見極め、それと同時に施設の方針や予算など多角的に分析しながら、プロジェクトをステージアップさせるコーディネイト法だった。
そして、担当者(コーディネイター)はメンバーとぶつかって、ともに実践を繰り返すことで一人前に育っていくことになる。

いろいろ話した。気がつけば、自分のことも話していた。インタビューしながらされてしまったようだ。5時間ほどお邪魔することになり、ICのデータもいっぱいになってしまった。
いや、もはやインタビューじゃなかったな、あれは。
居心地がよかったので、アトリエでいっしょにダベっていただけのような気もする。

帰り道にここ2日で聴くことのできたすべてのこと、戴いた資料にこれをどう収束させていけばいいだろうか、いや、それだけではすまないだろうなと考えたとき、すこし目眩がした。
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by stoneroses8010 | 2006-03-19 22:06 | マスターへの道
2006年 03月 18日

千葉へ

研究のための取材関連で、千葉へ向かう。

浦安市郷土博物館。ここでは310人程度の博物館ボランティアを抱えている。
その活動の実態調査である。
事前に戴いていた資料から、「こういった感じだろう」と、大げさに言うと、仮説を立てていたが、だいたい当たっていたように思う。
地域性から生まれる職人気質。
施設開館前の市民、学校との恊働から見られる現行制度の片鱗。
ボランティア事業に対する担当やコーディネイトは完全な分業制である。
が、職員全員で事業に取りかかり、降りかかる苦労を分担する方法である。ここは、施設がミッションとして、ボランティア事業を掲げているので、全員「向いている方向」いわゆるベクトルがブレることなく、一丸となって事に当たることができる。やはり、程度の差はあれ、市民協働はミッション化してしまわないとならない。
どうも活動内容がボランティアの一過性による技能提供に終わっている気がしたので、琵琶湖博物館のような主体的な共同研究といった方向性に持っていかないのかと質問してみた。
答えは、そうしたいが、そこまでの意識がまだ熟成していないとのこと。今は種を撒く段階であり、次世代で挑戦するとのことだった。

また、文化行政は傍からどうしても「いらないもの」と考えられてしまう。そういったなかで、ある程度の実績を示しても、来館者至上主義だから、上部機関を唸らせることができない現状があるというご意見が印象的であり同意する面でもあった。
私は、市民との恊働が博物館の本来的役割(つまり、博物館学であるような教育、展示、研究、資料整理)を担える存在であり、そこからデータを蓄積して、行政の手助けになれば、ボランティアの存在意義を担保できるのではと、以前から考えていたところであり、その場で提案もしてみた。しかし、上部機関の指標が今なお「数」の論理である限りは、厳しいとの意見をいただく。
それなら、私は、ボランティアなどの市民との恊働をミッション化するということを普遍化させることで、それを(死せる)博物館学にある既存の「博物館の役割」とやらに加え、社会教育行政の暗黙知として、上部機関に刷り込ませていくしかないのではないのかと考え、伺ってみたら、本当にそう思うと同意をいただく。

市民よりも上部機関という内部への説明責任の困難さ。社会教育行政は、自らの手で自分の首を絞めている。
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by stoneroses8010 | 2006-03-18 19:44 | マスターへの道
2006年 03月 15日

イッセー尾形のWS

イッセー尾形と演出家の森田雄三が「素人を4日間の稽古で本番の舞台にあげる」というワークショップを行った。そのレポートがこちらで紹介されている。

「自分」の見せ方と題して、演ずるということは、舞台の上での役と自分の分離であることという演劇の原理。
人は、相手の話には興味はなく、他人〈第三者〉の話に興味を持つことという人間の特性。
「イヤ」「好ましい」と思ったりするときの他人とのズレ=「個性」
「名前」というものはその名づけられているものを立体化させる(想像させる)
などなど、演劇の基本原理から、実生活に活かせそうな自己啓発めいたものまで、考えさせられることの多い内容である。

私が、ここで注目しているのは「想像」である。表現者ではなく、表現を観る他者の「想像」。これって、表現者が己の表現を他者に見せる上で常に気にとめておくべきものでもあるまいか。
このワークショップを見て、真っ先に思い出したのは、写真家の中平卓馬の主張。
大雑把も甚だしく恐縮なのだが、彼は、写真に生きることの「記録」や自己と世界との出会いを見出し、普遍性を求めることなくその切り取られた限定的な時間、空間を他者にぶつけるという。
つまり、表現による投げかけは、なんらかの形で他者に勝手な想像を与えるものじゃないかということ。
さらに付け加えるなら、それが他者の生きている世界、文脈で培われた概念をブレさせることが面白いんじゃないかと思っている。
大げさに言えば「表現の社会化」

演劇で役者と観劇者の距離感(生きている次元)が乖離してはならないのと同様に、平面芸術においても、その表現者と観ている者のそれも乖離してはならないハズだ。
独善的な美しさ、世界観の主張には私は今のところ興味はない。
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by stoneroses8010 | 2006-03-15 01:56 | 我思ふ
2006年 03月 13日

reality?07

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by stoneroses8010 | 2006-03-13 23:07 | photo