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2006年 04月 28日

在るということ

院の授業で、パブリックアートによる経済性に関する授業があった。

(この授業は、まずある一つの問題定義があって、それに対する理想を掲げ、それに対して、どうアプローチするかということを、経済学を吟味しながら一つの結論に達するところに特徴がある。ただし、それが文化や芸術を扱っているにもかかわらず、論文めいた直線的な見解がどうかとたまに思うが、それは一つの意見として拝聴し、それに対する賛成や反対論を私の頭の中で巡らせるにはちょうどいい材料を提示してくれていると好意的に考える)

さて、このパブリックアートに関することだが、それには、パブリックアートがある地域への外部性としては3つあるとのこと。
○地域への愛着心、アイデンティティの回帰、
○アート設置にかかる経済効果(芸術家、事務スタッフの雇用、観光産業の活性化
○地域住民への教育効果(触れる機会の提示)

しかし、そういったポジティブな外部性だけでなく、ネガティブな外部性もある
○企画、選定、設置段階における方針の不明確さ、住民参加のプロセス、対話のなさ、作品への不理解などから生じる「公害」

また、家計消費モデルによる芸術消費として、以下のように述べる
住民が芸術サービス消費者として考える場合、パブリックアートを公共財とするには、住民のアートに対する享受能力を高める必要があって、その能力があり、初めて、芸術と認知されうる。それがない場合は、価値の押し付けにすぎないとのこと。

私は、経済学的なアプローチを拝聴していて、批判する云々よりも、他のことを考えていた。(パブクックアートが抱えている現状を理解したうえで、無責任に語っていきます)
それはパブリックアートがそこにあるということである。
南條史生は、パブリックアートについて、芸術は社会や都市とは異なった独自の歴史的、文化的文脈を持っていて、それが、社会や都市に作品を置いた時に、生じる記号的価値の顕在化に意味があるといっている。
また、パブリックアートには、その設置地域の文化的歴史的な経緯に基づいたサイトシペシフィックな作品が提示されることが多い。
つまり、作品が、設置される空間と密接な関係性を持っており、それがそこに「在る」ということに価値があるということである。
この「在る」ということは、重要なポイントで、たとえば、ホワイトキューブないれものに作品が一つあるということでも、その空間に何らかの意味を持たせる。モノがその空間をある波動で振動させているのである。ただ、その波動は作品から発するものだけでなく、その空間によってもたらされるものでもある。

確か、エリナ・プロテへスという写真家は、「the new painting」というシリーズで、自らの身体を部屋に存在させ、空間と身体の影響関係を表現していた。それは自らの部屋でもあり、自然でもあり、また、自分は裸でもあり、衣服着用でもありと。ここでも「在る」ということの波動がどういったことなのかが考えられていたように思う。

そうすると、パブリックアートは、経済性という観点もあるし、作品自体が、そこに存在することで、意味を成す記号的価値を生み出すことができるが、それだけでなく、パブリックアート独自のその作品が「在る」こと自体に、周りに波動を与え、またその反響を受ける空間の「たわみ」みたいなのがあるんじゃないだろうか。と考えたりもする。

それがいかなるものかということはわからないが、(見るだけでわかるような代物でもなさそうだが)、長野重一が、三島由紀夫の割腹自殺の事件で、朝日新聞の、亡き三島氏の首を含めた全体風景を移した写真を見て、「不確かな確かさ」を感じたと言っていたように、私もパブリックアートが在るということ自体にその風景から生じる不確かな確かさを感じてしまう。
(すべてがそうであるということではないのはいうまでもなく)
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by stoneroses8010 | 2006-04-28 03:14 | 我思ふ
2006年 04月 26日

子供

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晴れた公園で。
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by stoneroses8010 | 2006-04-26 21:30 | photo
2006年 04月 23日

マニアックであれ

土曜日から、日曜日にかけて、やってきたことは主に二つ。
3月の取材先のインタビューのテープおこしとフィルム現像。これを交互に行っている。
自分勝手に予定を組んで周りの人に迷惑をかけている。
テープおこしはなんとか終わるものの、フィルムがまだ残っている。

こんな2日間はカラダによくないと思い、気晴らしに京都芸術センターへ。
35歳以下国際若手アーティスト交流展を観て、情報センターで情報を集め、図書館で、畠山直哉の写真集に興じる。
畠山直哉は「写真はリサーチ、それを通じて対話する」という。このアプローチの仕方は好感が持てる。
撮るという実践の下地のなかに、途方もない思考と繊細な社会への感受性、それを世間に提示することによる力がある。
写真は見えているものだけを見ていると実は、なにも見えない。

私は最近、被写体と撮る主体の関係について、多少混乱している。
しかし、撮る主体のモチベーションとして、一つ考え付いたのは、「マニアックさ」である。
オタクのようなモチーフに対する愛情とも言っていいかもしれない。
一つのテーマに対して、ある複数の被写体をある程度の身体性を伴った写真的実践を繰り返し、複数の写真を提示したとしても、「そういうが、そのテーマに対してはあれもあてはまるし、これもあてはまるじゃん」という突っ込みが入ると、受け手に対して、こちらの狙いが拡散させられる恐れがある。
それよりも、複数の被写体をまとめた関係性でなく、一つの被写体(事柄)に対して、とにかく多種のマニアックなアプローチを繰り返し、出来上がったものをさらに出来上がったもので否定するブラッシュアップの実践が言葉を超えるんじゃないかと今は思っている。

何に対して、「マニアック」になるかであるが、これは抽象性を伴う概念では、独りよがりになりそうなので注意が必要。たとえば、「時間」とか、「流れ」とか。
それよりも「やかん」や「トンネル」に対して、具体的に見えているものに対して、なぜそうマニアックな感情を抱くのかという心構えのもとに、視覚的なマニアな視点をいじっていく、否定と賛美を繰り返すスタンスのほうがなにかが見えてくるのかもしれない。
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by stoneroses8010 | 2006-04-23 23:56 | photo
2006年 04月 21日

路地裏

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by stoneroses8010 | 2006-04-21 01:12 | photo
2006年 04月 20日

an inquiring mind

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by stoneroses8010 | 2006-04-20 01:05 | photo
2006年 04月 14日

ポストモダンとラストデイズ

院の授業で興味があった点を一つ。

モダンとポストモダンの話。
この先生は、
モダン⇒政治やイデオロギーによる社会観、大きな物語の存在、
ポストモダン⇒その大きな物語の崩壊、「私」の物語、ナルシズム自己陶酔の時代。
と位置づけ、政治、経済中心から文化中心のセンスィティブな時代の到来と述べた。Wikiの説明もだいたいそんな感じ。
そして、モダン⇒社会には、政治、経済、イデオロギーによる「温度」があって…と続ける。

私はこの「温度」という単語がかなり印象深かった。
Wikiにも見られるように建築におけるモダンとポストモダン。文学では文学のモダンとポストモダンと、ジャンルによるモダンとポストモダンのせめぎ合いの経過がある。

では、美術や写真では。
温度と説明されれば、なにかしらビジュアルを想起させるものがある。政治、イデオロギーによる温度。
では、ポストモダンの温度とはなんなのか。「私」の時代の温度とは。写真で言えば、そう一般的に指摘されているものを何点か思い出すものもあるが、それがポストモダンの「温度」をビジュアライズさせたものかといえば、なにか違うような気もする。モダンとポストモダンの対立軸だけの話ならなんなく受け入れてしまえるのだが。

ラストデイズ
ニルヴァーナのカート・コバーンの自殺を着想としているこの映画は、架空の伝説のロックアーティストが自殺するまでの最後の2日間を描いている。
内容は、ブレイクと呼ばれる架空のロックアーティストが、さまよい歩き、独り言をいい、ときには謳い過ごす時間を描く。

この映画の映像で意図的なのは、画面中央で物語の本質を描いているとすれば、必ずその別の場所で、また違うことを描いていること。ガラスの写り込みや、テレビの内容。窓の外と内。それがなんの効果になるかわからないが、理由はたぶん単純だと推測する。
だれだったか思い出せないが、昔、昼間の建物の映像に、夜の窓をデジタル処理によってはめ込んだ作家が海外でいた。理由は「そのほうが格好よかったから」ということ。
たぶんそんな感じ。(私はこの安易さが好きだったりするのだが。)
それが受け入れられるかどうかは文化の違いと思えるが。
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by stoneroses8010 | 2006-04-14 23:37 | 映画
2006年 04月 14日

a true cherry

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夜こそ彼の真髄
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by stoneroses8010 | 2006-04-14 00:15 | photo
2006年 04月 09日

目的は一つでも手段は無限

土曜日、発熱。

外出の予定を変更する。来週から院の授業も始まるので、いくつか買っておきたい書籍もあったのだが断念。
安静にしていなければならないほどでもなかったので、友人の結婚式二次会案内状のデザインの続きをする。
二次会といっても1.5次会という位置づけで、結構きっちりとした場所と内容になりつつあったので、ある程度ハメはずさない程度のデザインとなる。綺麗な仕上がりだがおもしろくない。
横尾忠則が「作りたかったのはキレイなものではなく、強いもの。強いものこそ美だという考え。最初から美しいものをつくろうと思うと、花鳥風月的になって面白みがない」とある雑誌で語っていたのを思い出す。
「強さこそ美」

本日。
天気もよかったので、コンパクトカメラを持って自宅周辺を歩く。(6×7は置いておく)
無責任に撮る感覚が新鮮。
近くの公園で花見をやっている。
花見客は老人~子どもまで年齢層が幅広い。
桜に対する各年齢層の受け止め方の温度差が微妙に見えて面白い。

彩都メディア図書館へ。
気になる様々な写真集を見る。見るというよりも今日は写真に触れておきたかった気分。

以下はランダムな覚え書き。

〈佐内正史〉
以前見たときより、構図や主題が明確になっているように映る。エグルストンっぽさ。
細かい質感描写でリアリティを失わせる。日常の非日常。
「生きている」が一番面白い。

〈北島敬三〉
 「AD1991」建物と人物のポートレート
国別、時間別のスナップ。人物写真はバストアップで下からあおる様なアングル。人物写真は断って撮影しているとは思えない。
時間の区切りが時代性の記録。
収集により、見ているものに提示するスタイル。テーマ性の強い他者性を見込んだ作品

〈土田ヒロミ〉「俗神」
日本の地域のスナップ。習俗に触れる人々の生き様。
土田本人が、アートインレジデンスでその地域の滞在した時に、生み出した写真というサイトスペシフィックな雰囲気。医者が往診でその地域の患者を診ているような感じ。

〈アンドレアス・グルスキー〉1994~1998
テーマ性は地域やその時を主とするものでなく、イデオロギーに対するものである。それは資本主義。
直線を意識した造形は従であり、資本主義というテーマ性がマクロ的であれば、造形はミクロ的な位置づけ。造形の強さが面白い。

中島教「アンタイトルド・ランドスケープ」
テーマ性が薄い。陰影、質感による描写に力点有り。都会がモチーフであるも、その特定は不可能。造形的であり、シュルレアリズムの名残を感じる。
あとがきに
「確固とした存在と信じていた壁がすべて崩壊した後にあるおびただしい言葉の残骸」
「この亀裂と崩壊の響音の中で呪文のように意味ありげに撮った写真」とあり。
言葉、造形の意味の壁が崩れ落ちる時のスナップ

野口理佳 「予感」
テーマ性が強い。なにかが起こりうる予感。できあがりそうな予感の記録。その予感は主観でありながらも、引きのビジュアルで淡々と記録する。

ジャック・ピアソン 「the lonely life」
ブレ・ボケ・アレのカラー写真。テーマも不可解。場所も不明。ポートレートに風景。全体的にポスター集のような雰囲気。人のスナップさえもポスター。
フィクション。そう、「~って感じ」「~って見える」を広告として告知しているような。
瞬間系。

高橋恭司「the mad broom of life」
地域は世界各国でありながらも、その地域色を出した記録ではない。テーマとして「生命の残骸、ノスタルジック」を感じる。
「私」=撮影する主体でなく、主体は作者以外の第3者が演じているような気分。
主体を誤魔化す。

柴田俊夫「日本典型」
被写体は日本各地の造形的な人工物、自然。繰り返される記号。

金村修「I can tell」の文章はかなり哲学的だが読み応えあり。購入検討。

真正面撮影は一つの方法だが、弱い。
時間、光の意識、主体のごまかし。テーマ性は事の発端で、手段は偶発性で千差万別。
最初の思考を写真的な実践で否定する、もしくはブラッシュアップする。
そういえばティルマンスは「(興味あるものを追及した後に、)それを作品として落とし込むというのは、意味を成しているかどうかではなく、その興味をいじっていくことで見えてくるもの」という。

言葉や必然による出会いなどありえない。
何を捉えていくことが、表現となりうるのか。(時間、地域、質、色、動、静、イデオロギー)
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by stoneroses8010 | 2006-04-09 21:38 | 我思ふ
2006年 04月 06日

鏡面

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息のむ時
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by stoneroses8010 | 2006-04-06 20:00 | photo
2006年 04月 05日

とりあえず、

自分の価値観にブレが少ないものの、以前指摘されたことをよく考える。

うまく表現できないのだが、もう少し濃い被写体との付き合い方があって、その方法としては、より感覚的でよいかもしれないということである。

90年代に代表される一部の写真は、被写体との関係を敢えて薄くしているクールな距離感があって、撮る主体との距離感で「唯一」を作り上げているように思う。
また、反対に被写体との関係性が濃密(たとえば家族)であることをテーマにして、方法一定化させる、もしくは、無責任に撮る、ウソっぽく見せるといったランダムさで、「私写真」の継承したものもある。

私が、この半年撮ってきたスタンスは、被写体との関係を排除し、かつ方法論は主観を排除すべく一つのあり方に絞ったものであった。そしてそれは(主観性を排除した結果)観念なり、思想なり、観ている人が身を置いている社会的集団の流れに訴え、他者性を獲得できると考えていた。(いまでもそう思っているが)

そこで、今は、その撮影手段を増やすという意味で、もう少し緩やかな、「モノを観て、ハッとしたときに即座に撮る」という身体性があって、「この光がバーっと入っているものを捕まえる」というようなより感覚に近いものがあってもいいかもと考えている。
そのほうが、わかりやすいといえばわかりやすいのである。

複数の写真が並ぶ時、人はその写真の関連をどうしても見つけたがる。それが、「実は車の窓からすべて撮っているものなんです」とか、「これは、○○という地域でのポートレートです」というわかりやすさで、関連を理解することが出来る。
関連をよりよく理解させるためには、被写体とのある程度濃い関係性が必要となる。
私は、この濃い関係性が、どうも押し付けがましくて忌避していた面があるのだが、「ぶしゅ」とか「スーっ」といった自分の思想や観念、経験から発する感覚による関連では、逆に他者を遠ざけながら自己完結しているところが出てきているように感じる。

どうも上手く、まとめられていない。
とりあえず、気持ちのいい日が続いているので、土日あたりにカメラを握ろうと思う。
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by stoneroses8010 | 2006-04-05 22:46 | 我思ふ