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2006年 05月 29日

鈴木崇、クリストファー・ジョーンズ、間宮兄弟

最近観たものはいくつもあるのですが、blogにアップするまでに至りませんで。ただ、自分のための記録はしっかりととどめています。

で、この土日の分のみ簡単にレビュー

鈴木崇(third gallery aya)
「閉じられた空間を開かれた景観に変転させることをコンセプト」にしている作品。
閉じられた空間に広がり奥行きという実態のないものを可視化(イメージ)させようとする作品群
表現としては、手前ピン、ローアングル、望遠、被写界深度の浅さと画面分割という手法だと、その場では思った。(作者も来てたけど、ずっと話し込んでいて会話を断念)
で、少し私もそれを試してみたが、なにか違う。ニュートラルな高度で撮った場合、画面構成が狭くなってしまうため、ローアングルと読んだのだが、そうするとかなりフラット画面になってしまう。うーん。デジタル?仮に通常に撮影したとしても手持ちで簡単に撮れるシロモノではない。
コンセプトどおり狙いをしっかり表現できているのではないか。

ただ、ないものをあるようにするということは、見えないものを見えるように撮ると言うことであり、ここでまた、「撮る」と「見る」という行為、「現実」と「撮られたもの」の違いがあるということ、そして、それがどうという優劣、好き嫌い云々よりも、もう私たちはその関係性を受け入れた上でイメージを作らねばならないことを再確認した。

クリストファー・ジョーンズ
シアン・ボーエン(京都芸術センター)

シアン・ボーエンは、和紙にモダニズム建築のような折り畳みの茶室(?)を点描で描く。それを天井から吊るす。
硬質を思わせるモチーフを表現媒体と描写で、モチーフのイメージを弱体化させる効果をもつ。というより、モチーフを媒体と表現で揺るがすことを可能とする。

クリストファー・ジョーンズ
記憶を組み立てる過程で、その瞬間に交錯するだろうイメージのかけらとその過程を経て構築されたイメージというインスタレーションの技法で表現する。

断片とは自分の過去のイメージストックとの交信であり、それはランダムなものとなる。自分が目にしたイメージとは8割がた消費されたものといえる。
それらを踏まえて、一つのイメージを創造する上で、周辺のパーツが不協和音を奏でる(表現変か?)
プロセスとしての表現。かなり好み。

あと、映画「間宮兄弟」満席
エンターティメントとして面白いと思う。しかし、メッセージとしての着地点としては、ちょっと好みに合わない。
オタクの兄弟が、仲良くしながらも、自分の好きなライフスタイルを貫いて、恋愛して敗れたから、またもとの生活に戻って楽しもうとする。すると…という展開。
背伸びしてより大きい自分を求めようとする現代の夢多き人々に対して、こういう生き方もあるんだよという一つの生活のあり方を提示して、「なんだ、楽しいこととかって身近にあるじゃん、だったらもっとゆったりしよう」という保守路線を主張する。
でも、内容は本当に面白いですよ。フォローじゃないけど。
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by stoneroses8010 | 2006-05-29 00:39 | arts全般
2006年 05月 27日

can,t forecast

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by stoneroses8010 | 2006-05-27 22:18 | photo
2006年 05月 20日

結婚式というイベントを経て

知人の結婚式、披露宴に参加。二次会は幹事という長い一日を過ごす。

結婚とはおめでたいことではあるし、幸せになってほしいと思う。それは無条件に思うのだが、結婚式はともかく、披露宴はなにかうそ臭さを感じてしまう。なぜだろう。

司会の言葉は当事者である二人を特別視させるためにある。
コトバによって、二人の過去が明るみにされ、メディアで味付けしながら、それは誇張される。そして、結ばれることがさも運命付けられたかのような誇張。
関係者の祝辞はいいとこ取りの言葉で、「優秀な」二人は「幸せ」な家庭を持つだろうと核心で締めくくられる。形式化したそれは、親族を除く他の参加者には伝わらずはやく終わってくれと願うばかり。
他の参加者は、「お幸せに」ウソか本当かわからないことを言いつつ、料理に目を白黒させる。

どう取り繕われても、主役の二人の過去や今日という日が第三者には内面化されないのである。だから、リアリティがない。「本当に二人が夫婦になるの?まあ、式挙げるからそうなんだろう。」と言い聞かせる。というよりも、それ以上考える必要性がない。
まだ、「いやー、昨日実は○○しちゃってさ」とか「今日、頭痛いわ」というなんともない話題のほうが、なぜかリアルだ。

祝事であるし、夫婦になることはまぎれもない事実なんだろうけど、なぜかリアルでない。それが、矛盾している。外見とは曖昧なものだ。編集された言葉と形式化した空間がそれを助長させる。

逆に葬式はリアルだ。あげられるお経、黒い参列者、悲しむという取り繕いようのないストレートな感情、そして、自分に内面化される死。

が、最近葬儀も競馬葬とか、生前の趣味などを反映させた葬儀を行う葬儀屋もいるとか。そういったものを目の当たりにしたらどうなるのだろう。その死すらうそ臭くなるのか。
そうはならないと思うが。
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by stoneroses8010 | 2006-05-20 23:53 | 我思ふ
2006年 05月 18日

stability02

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見たものすべてが自分の環境
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by stoneroses8010 | 2006-05-18 23:10 | photo
2006年 05月 16日

近代いろいろ

以前の話ですが、万博にある写真表現大学で、美術史のスライドレクチャーがあったので、参加。

数回にまたがるものなのですが、およそ5時間ほどかけて、スライドで古代壁画の表現から、フォービズム、キュビズム、ポップアートまでを、解説つきでひたすら見て行く。
(セザンヌはやはり偉大。)

特に、近代の絵画表現のあり方を重視し、その社会的文脈のなかで写真という表現がどう登場し、どう発展していったのかが説明される。
解説をしてくれた方がおっしゃっていたことで、印象的だったのは、古い表現が決して古いものとして、時代の奥底に堆積されるのではなく、自分を取り巻くように並列に現代美術と存在しており、これから表現する人は、それぞれが等距離にあるように意識しなければならないということである。確かに表現には型もあるし、厳密に言えばオリジナリティは皆無といえる。要は、自分が表現するにおいて、なにをチョイスしていくかという作業が肝心という印象を受ける。
また、芸術というのは、時代の精神性との出会いであるという。それは政治的イデオロギーであれば、身分制度への批判という時代性でもある。絵画は再現性を写実主義である程度確保でき、印象派で主観的な領域を広げた後、自分の精神と時代を向き合わせることで、様々な表現を試みる。
そして、そこから、これからの表現は時代という文脈と精神性を踏まえたうえで、表現のあり方を知り、そして、もはや、我々が生まれたときより、すべて可視化されたイメージの世界と戦い続ける必要があると続ける。

私は、すでに芸術表現が時代性とクロスしながら構築されるものであるということは、ここで指摘されるまでもなく、様々な書物に書いてあることなので、あまり驚きはしないし、またそれに反する意見があるだろうこともわかる。
ここで問いたいのは、その「時代性」をどう捉えていくかということである。写真が現代美術と異なる点は時代の捉え方であると思える。たとえば、壁が剥落した表現。筆という表現手段から、崩れ落ちるような物質、もしくは画材を用いて、その現代の退廃性、崩れ落ちるものの美のあり方を提示するやや抽象的な方法がある。絵画の場合は、一枚モノで、色が単色であったとしても、抽象的なものとして成り立つが、写真で提示すると、一体何がしたいのかわからないものになってしまう。それを表現したいのであれば、場所を特定させたり、ポスターが破けているんだなとわかるようにするなど、ある程度の具体性を持たないと、なぜか認めてくれないところがある。この時代を捉える上での距離感とそのつまみ方というのが、絵画と写真においては、なにか違うような気がする。だから、絵画が時代をリンクした精神性をもった表現がこれであるとしても、写真でどう表現するかの参考にはあまりならないような気がする。それよりも、その精神性がどういったものだったかを個人の歴史的文脈から振り返った方が汎用性があり、今回の講義の内容と合致するところがあるかもと思ったりした。

80年代より、宇宙や体内とあらゆるところにカメラが介入してから、ほとんどが可視化されたといっていい。近代が、可視化からそれに基づく主観的、抽象的な表現と至ったとして、現代はネット、デジタル技術の進歩で存在しないものまでが可視化されているような気がする。そうしたイメージストックが限りなく、蓄積されたなかで、時代とどう向き合えばいいのだろう。
今はわからない。

そう考えていると、以前読んだ本の内容を思い出した。
確か、その本は、写真は、集中すればするだけ、視覚だけで対応すべき表現であり、たとえそれが不自然で不自由であっても、徹底的に集中してゆくことこそ、写真という表現に直結している。という内容だったと思う。これは、今までの写真のコンセプトや精神性から少し遠ざかったような考えだが、難しく考えるよりもシンプルに頭に響く。

以下は覚え書き。

ランダムな覚え書き
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by stoneroses8010 | 2006-05-16 00:10 | photo
2006年 05月 14日

かもめ食堂

結婚式2次会の幹事の打ち合わせと景品買出しでほぼ昼間が潰れてしまう。
最近、自分の時間が全く持てずに、研究関連、写真関連など全く進まない。
どうしたものか。
しかし、
自分の取り巻く環境にポジティブであること、そう心がけつつ、先に進めないとならない。

リフレッシュと頭を切り替えて、夕方からは映画を久々に観る。「かもめ食堂」
ヘルシンキの街角に「かもめ食堂」という小さい食堂を開いた日本人女性の話。
小林聡美、片桐はいり、もたいまさこというコアなファン層が多いキャスティングや、せわしい日本人のツボとなっている「スローライフ」とのんびりすることで得られる幸福感を絵に描いたように突きつける。

だが、悪くない。
やりたいことをやっていく素直さと出くわすことを受け止めていく潔さがあって、ひょっとしたら、自分が難しく考えている以上に、物事はシンプルなのかもと思ってしまう。
錯覚ともと思えるが、錯覚しながらでも、薄い幸福と自分が思える膜に包まれて生きることがそんなに悪いこととは思えない。

印象的なのは、なんとなく違う世界の話しなんだと思わせる淡いと感じる視覚的なトーン。
スクリーンに映し出されるものは、どんな内容であっても、どんな技術を施しても完全なる現実ではない。
そこにあるのは、仮のビジョン(G.リヒター風にいうと「仮象」)なのである。
そうならそうと割り切って、童話的な世界を構築するように、我々が普段目にしている日常の視覚体験とは少し違ったビジョンを敢えて(しかし、うるさくならないように)見せるとことは、作品の世界観を組み立てる有効といえる。

あと、気になったシーン。
もたいまさこがホテルで開けたトランクのなかにいっぱいに入った黄色いキノコ。(花びらにも見える)
(ホテル、トランクという)日常、現実の入れ物に花びら(キノコ)を敷き詰めることで、全体が、美しく歪む瞬間を見たようでハッとした。
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by stoneroses8010 | 2006-05-14 23:55 | 映画
2006年 05月 09日

road movie

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by stoneroses8010 | 2006-05-09 23:16 | photo
2006年 05月 06日

ここ2日の発見

ここ2日の色々。

職場の先輩の家にご飯をご馳走になるためにお呼ばれしていたので、現地へ向かう。
ご夫婦は食事の準備や掃除などをしていたため、私がそこの子どもたちといっしょに遊ぶ。
ちょっとした消失手品をしてあげたら、子どもたちはもうびっくり。
「あれー」といいながら、首をかしげる。
そして、私の真似をして、モノを消そうと必死でがんばる。
そんな姿を見ながら子どもっておもしろいなあと思ったり。

翌日
1年半(?)ぶりに友人にあって食事。
ともに院生という立場も会って、研究の話、プライベートな話、今後の話と、とにかく意義深く楽しい数時間だった。
会話するということは、自分でも思ってみなかったことが口から出てきて、「自分はこう考えていたのか」と驚く。それは会話の相手によるだろうし、関係性にもよる。かなり自分を深くえぐって話したような気がする。
考えたことを口に出して言う作業も否定しないが、面白みがない。

また、ある事象や出来事、事例に関して、その歴史的文化的文脈を加味せず、事例を直線的に見て一般論、抽象的な理論を当てはめることの危険性はどの分野でも同じなんだなぁと再認識。
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by stoneroses8010 | 2006-05-06 16:34 | その他
2006年 05月 03日

写真的動向を二つほど

ここ数日の写真的動向を二つ。

一つは、写真評論家飯沢耕太郎氏の講演があったので、それを聴きに行った。
題目は、デジタル写真の功罪と「スロー写真のすすめ」。
デジタル写真(飯沢氏はデジグラフィと呼ぶので、以下はそうする)には、改変性、現認性、蓄積性、相互通信性、消去性の五つの特徴があり、それぞれに対して、メリットデメリットがあると指摘する。
改変性 (メリット)フォトモンタージュのような表現の幅(デメリット)小手先、あきっぽさ、ドキュメンタリの改悪
現認性 (メリット)モニターで見ることで、カットを選別できる。(デメリット)撮る人間の意識の変化(緊張感の喪失、身体性の喪失)、偶然性の喪失。
など

私は、デジグラフィには、現認性の話で、飯沢氏が指摘していたように、身体性が緩んでしまっているような気がする。言葉では説明しがたいのだが、主体と一体になるものが欠けている。写真には、実践の過程において、偶然性、運にも似たようなその場のものを呼び込む何かが必要であり、時代を変えてきた写真にはそういった息吹が感じられる。デジグラフィはそれを、「選別」という方法で、撮る主体の意識下でコントロールしてしまい、呼び込む何かを自分の判断で消去してしまうのである。

「スロー写真」について、簡単に説明するとこうなる。
写真は、見る、撮る、現像する、プリントする、考える、見るという実践の繰り返しである。その一つ一つをかみ締めていこうと言うものである。
これには、賛同できるところで、この実践過程がホントに至福のときなのである。いいか悪いかは別として、世の中フォトグラファーになりたがっている人が多い。プロであることとアマであることとはそんなに重要なことなんだろうか。

その夜は、飯沢氏と飲む機会があったので参加する。
酔っ払いながらも一対一で話することが出来た。氏は、今の人はなんだかんだ言っても撮ってる枚数が圧倒的に少ない。グダグダ写真論振り回すじゃなく、とにかく撮って来いとおっしゃっていた。まあ、それは分野にもよるんではと思いながらも、とにかく質問攻めにする。
「ティルマンスは、いろんな意味で写真を変えたけど、もうティルマンスを普通にしなきゃならない。彼を普通にするような写真が見たい」といっていたのは印象的だった。

数日後、CASOへ。
後藤繁雄と椿昇のキュレーションによる写真展を観に行く。
「写真」が持つ「生々しさ」、「流動性」、「力」など、写真を写真たらしめている「起源の力」、
「はじまりの写真」を問う場(ひいては、「はじまりのアート」を問う場)を出現せしめたいと考えます。
がキュレーションの主旨。

一番面白かったのは、鷲尾和彦の「外国人向け簡易宿」のポートレートかな。「仕事」としての写真。それを伝えたいという意志が伝わる。
何かを伝えなければならないという使命感が感じる写真群。それを「仕事」と呼びたい。
あとは、現代アート、インスタレーション系のものが多かった。ティルマンスっぽくなってきたなぁという印象。
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by stoneroses8010 | 2006-05-03 21:40 | photo