<   2006年 07月 ( 7 )   > この月の画像一覧


2006年 07月 30日

アイ・ラーヴラヴ・NY

柴田敏雄さんの話や、知人の話など含め、なんだかんだで、NYにちょっくら行くことにしました。(半分勢い、半分インスピレーション)
とりあえず、MOMA,ICP、メト、チェルシーのギャラリー群は絶対に周らねばね。
今日はその手続き。

その後京都芸術センター「at Hirakata @枚方」(演劇ユニットYOU企画)を見る。
どうも秋に演劇ユニットYOU企画が秋に公演するもののワークインプログレス公演で、上映時間の前後30分に、舞台設定となる枚方の写真群が流れていくという仕掛けである。「フォトプロジェクション」というらしい。
で、その写真群は、原作の設定を踏まえて主演二人を想定したモデルを含め、平野愛とい舞台写真家が自由に撮ったものとされている。

公演中はなにがなんだかわからず、あとでもらった資料を読み返して、「ああ、そういうことか」と思うものだった。
フォトプロジェクションは、スライド上映で、一枚一枚がゆっくり物語とリンクするようにゆっくり流れていく。公演とリンクさせて相互作用を働かす上では、面白いものと思う。
ただ、写真として見ると、暗めの空間で、一枚一枚を凝視させるような(やや半強制的な)組写真の見せ方は、どういった写真でも上手く見えてしまうという誤魔化しが利くと私は思うので、ちょっとどうかと。
まあ、これはそういった意図でもなさそうなので、なんともですが。

それよりも、ギャラリー南でやっていた「くもならべ」の吉田氏の日本画はよかったな。
写真で撮ったものを再度自分で描き、こんもり盛り上がったキャンバスに張って展示するというもの。詳しいコンセプトなどもあって、読みいってしまう。(リヒターのフォトペインティングとはまた違うんだけど)
自分が惹かれたものを素直にピックアップし、シンパシーの感じる(本人は幼いころからモノクロ、日本画に傾倒していた模様)表現方法でモチーフ(今回は草花)を描いている。
コントラストが高く見えるがディテールが細密だし、わかりやすいけど、雨露に濡れた植物に不気味さも少し漂う。いいね。
[PR]

by stoneroses8010 | 2006-07-30 22:23 | arts全般
2006年 07月 29日

発表終わって、解放感と寂寥感

中間発表の日。まだレジメがすれてなかったので、朝ゆっくりプリントアウトしようと思ったらプリンタの調子が恐ろしく悪い。インクを2度買いに行ったり、メンテを色々施したりで、時間がギリギリだった。

で、なんとか中間発表が終わった。月曜の予行演習では、ダラダラと1時間近くしゃべっていたのをよりコンパクトにまとめてみた。予想通りの時間配分で、予想通りの点を突っ込まれた。
最後に指摘を戴いた先生のおっしゃっていることは、以前から考えていたことだ。そこに触れるとまた無尽蔵に論を展開する必要があるので、あまり触れないで置こうとしていたのが、知りたい理由もわかるし、触れる必要性もわかる。
(私は、事例紹介とか、そこからわかることをまとめることにあまり関心がなく、やはり論を立てるということを優先したい。)
まあ、なんとか終わった。

発表のあと、親睦会、二次会とあった(会ったこともないM1と色々話したり、同期の近況聞いたりとかなり有意義だった)のだが、やはり感じたことは、その研究を実践活動に継続して現場で活かせるということが、ものすごく素晴らしいということだ。それが、たとえコトバにならなくても、研究や実践から何かが見ている。そしてそれを(カラダに染み付いたものが)どこかで活かせる。いいなぁ。そう考えると今の自分の状況に寂寥感を感じたり。

ただ、私自身も、今後どこかにつながっていくと思う(と、信じたい)。
こういうのはなんだか恋愛に似ている。
付き合っている最中は、結果なんか求めない。ただ、好きだから無我夢中。
その恋が終わるとなにも残らないんだけど、確証もないのに次の恋愛に活かせるみたいな。
(あれ?ちょっとちがう?)

あー、なんか解放感(まだ終わってないんだけど)。
とりあえず、8月は写真にシフトできそうだ。いや、その前に映画。全然見てない(私としてはこの段階で20本も見てないなんてあり得ない)。しこたま見たい。
劇場にも行きたいなぁ。この間「シベリア少女鉄道」だっけ。見てかなり面白かったし。
[PR]

by stoneroses8010 | 2006-07-29 23:55 | 我思ふ
2006年 07月 28日

個人的動機について2

仕事終わり。発表のレジメがまだ刷り上ってもないのに、ギャラリストが写真家山沢栄子の作品分析をレクチャしてくれるものがあったので参加。

山沢栄子は明治生まれの構成写真(constructed photo)家。既存のモノを組み合わせ、色、光、質感で抽象的な世界を撮影する。

「不必要なものをそぎ落とした本質の表現」(それを「モダニズム」と解釈していた。)
「時代を超えた普遍性」(時代を経ても全然古く見えないもの)

(逆にhiromixのようなガールズフォトが10年ぐらいしか経ってないのに、すごく古臭く見えるのにな。)

とそのギャラリストの分析をまとめるとこの2点になると思う。
山沢はアメリカに留学経験もあることから、かなり当時の抽象美術の影響を受けていたと思う。活躍年代的にも、安井仲治らの「新興写真」(具体的にはそれから平井輝七や瑛九らの前衛写真にかけて)と被ることから、かなり抽象的な作品が並ぶのもその当時のムーヴメントがあったのかもと思う。

山沢はそのモノの全てを引き出そうとするため、そのモノ自体だけに対峙する。
レンガを撮影する時に、その質感を自分のイメージどおりにするため、一生懸命必要な部分を濡らしたり、磨いたりしていた。
つまり、本質を出すために、周りの小細工はなしに、モチーフのみに対峙するという「引き算」の思想があったように思える。
(あまりこのプロセス、好みじゃないけど)

動機について。
レクチャでは彼女の活動記録のドキュメンタリを見せられた。そこで、彼女自身が「芸術は芸術ですよ。社会との関連に、(私の作品は)あまり意味がない」と言い切っていた。
また、レクチャでは海外の女性写真家も含めたもうひとつのドキュメント(ハイヒール&グランドグラス)を見せられたのだが、そこに登場する一人の作家が
「(それを撮ったことに対する)私的理由なんてない。ただ惹かれたから。それだけです。惹かれたからこそ、それをどう最大限に伝えることができるか考える。それが作品」と言い切った点。

私はもう一度問いたい。
人が撮影するにおいて、その人の背景をこめた個人的動機が必要なのかどうかを。
[PR]

by stoneroses8010 | 2006-07-28 23:02 | photo
2006年 07月 23日

撮る個人的動機とはなにか

中間発表のレジメがまだできない。
しかし、今日は行かなければならないところがあるのです。NPOがやっている合評に写真をもって行く。ギャラリストの方がコメントを付け加える。
そこで言われたのは、そのモチーフに対する個人的動機についてだ。
なぜそれを撮るのかという動機は存在する。私がそれを論じても一般的だとおっしゃられていたのだが、どこがどう一般論なのかわからなかった。そもそも個人的動機というもとはなんなのか。「幼少のころに、実はそれを使ってました」とか、「実はそこにずっと住んでいて」といった実体験に基づいたことなのか。必要なのだろうか。
私は必要ないと感じる。「なぜ」というアプローチとモチーフに対する自分のイメージを説明することは必要だ。しかし、その動機が個人的な嗜好を踏まえなければならない必要性はないと思う。
長い間やり取りするも話し合いつかず。

写真家の柴田敏雄氏が午後から来てくれた。自分の作品やテーマに対するアプローチについて語る。
留学後、海外で撮っていたものに対して、何を見てもおもしろくなく、何を見てもおもしろくなかったという意識があったという。それに対して、自分の国とは一体何かということを考えるようになる。
帰国後の1970年代の日本の都市は、「ごちゃごちゃした不特定の世界」だったという。つまり、すでにグローバルな流れが都市を対流させ、どこにいても似たような均質化があったものと思える。しかしそれに対して、「特定させることができる」「写真のなかに存在する世界」があるという。

そこで、柴田氏は、山などの自然に取り残されコンクリで固められた道路沿いにある山に出会う。それはデザインされなかった余分なもの。日本では土が軟質なので、そのままでは崩れてしまうから、コンクリで固める必要があるという。
日本の軟質の土、雨量の多い天候、それは日本の特徴であるらしく、人間が山と共存するために、自然のなかにも、コンクリで固められた物質(がけ崩れを防ぐ壁)がある。
自然のなかに存在するダムという人工物なども含め、それが自国の特殊性と言っていたように思う。
その後、海外でもダムなどを撮り始め、ダムや自然の中に存在するコンクリの人工物を撮る事が彼の代名詞になりつつある。

ん。なんかおかしい。
自国のアイデンティティとは(自分の留学経験)⇒日本の特性(気候、地質)⇒ダム
という流れなのに、海外で撮ったら、それは動機として成立するのか。

その後、一緒に飲む機会があったので、写真のテーマと動機についてとことん突いてみた。
彼によると、日本的な動機は当初はあったが、今はそうではなく、ダムと言うニッチなビジュアルに対して、感覚が引っ張られているという。
動機はどうなったのか。午後の語りでは、日本的特質の追求のほかに、現実と異なるイメージの世界があり、それをモノクロで提示したかった(モノクロはそれを助長させる)という違った動機も存在していた。
当初の個人的動機とも言える日本的特質の追求はどうなったのかというと、もうそういったものはないという。

つまり、動機はいくつにも存在し、それは撮る取っ掛かりになるが、ビジュアルで引っ張られたモチーフを撮り続けることで、動機は変化していくものだということである。
そうなると、海外でもダムを撮り続けるアプローチは納得いく。

ここまで来ると、全面的に柴田氏を支持するのであれば、私がギャラリストに言われたモチーフに対する個人的動機の必要性はなくとも全然不思議ではない。
(いや、個人的動機が全く存在しないことはなく、それは潜在化しているかもしれない)


「自信を持つより、足りないところを探す」か。オシムに感謝。

柴田敏雄メモ
[PR]

by stoneroses8010 | 2006-07-23 23:55 | photo
2006年 07月 11日

ロックが若者文化?

最近、ギャラリストや写真家と話する機会が多く、どうも写真中心の生活。新たなシリーズに対する取組みなども話す。作家研究の一環として、横尾忠則を最近よく見ている。写真とは全く関係ないけど、構想力がとてつもなく素晴らしい。
中間発表も近づいているのだが、ほぼ予定通り。

院の授業。ブルーグラスについてのレクチャーとそれを研究しているD1の方の発表が主な内容。ブルーグラスを知る上でよい機会になったが、その後の先生のまとめ方がどうも気に入らない。

ブルーグラスは、地域社会とボランタリー社会の間に介在し、そのミュージシャンが演奏の担い手であり、その享受者でもある。そして、フェスティバルなどでその場に集うメンバーの音楽性のぶつかり合いと共有が新たな音楽を創るという。

それに対するものとして、「ロック」を持ち出し、それはグローバル経済に介在し、若者文化という閉鎖されたもののなかにのみ存在するものだという。さらに、その「ロック」は、利益重視の商業主義であり、ライブよりもメディアを軸とした展開が利益に捕らわれているだのいろいろ続ける。そしてさも商業主義の申し子のように「ロック」が誕生したとおっしゃる。おそらく、プレスリーを原点としてお話されていたので、どうも1960年代の経済成長、反社会性と音楽の絡みが「ロック」としてあると思っておられるようだ。

私は、まず「ロックが若者文化」という意味不明な定義が理解できない。
ロックも起源ははっきりしないけど、1940年代からのブルースやカントリー、R&Bといった下地があるのに、商業主義に乗っかれば、さも「若者文化」に迎合した音楽が突然現れたという言い方にはどうも違和感がある。
ジョン・レノンも浮かばれんな。
さらに、メディア優先主義についてだが、CDやDVDといった複製媒体のことを指しているのだろうか。記録媒体が進化すれば、それをより多くの人に届けたいと願うなら率先して使うに決まっている。また、表現媒体として使うのであれば、表現の可能性として使いたいとも思うだろう。ライブの重要性もわかるが、その対立軸としてのメディア優先の批判はどうにも理解しがたい。

ブルーグラスがどう発展していき、どういった活動が展開され、その特徴はどんなものかと論ずるだけなら問題ない。しかし、その対立軸として「ロック」を持ち出し、「ロック」グローバリズム、「ブルーグラス」はボランタリーな音楽性を持つといった対立軸の立て方をする必要性が全くわからない。
[PR]

by stoneroses8010 | 2006-07-11 23:00 | マスターへの道
2006年 07月 10日

W杯雑感

W杯も終わってしまいました。

決勝戦。
イタリアは後半から足が止まっていた。延長戦はジダン退場後でも、果敢にゴールを狙う姿勢がない。
フランスは、サイドのリベリー、マルーダの動きが止まれば、ボールのまわりがとたんに悪くなる。ジダンも疲れからか、スペイン、ブラジル戦で見られたパフォーマンスがない(それでも、ヘディングとか魅せるところは魅せたと思うが)。

90年からW杯は見ているが、こんなに感動がない決勝はなかった。今回は予選が面白かったな。あと、ポルトガルのサッカーは展開があまり読めないところで楽しめた。
[PR]

by stoneroses8010 | 2006-07-10 12:32 | サッカー
2006年 07月 03日

格好良過ぎ

とりあえず、備忘録として。

本日レクチャーで石内都の話を聴きに行った。
「マザーズ」「scars」「連夜の街」など、自分の母親の遺品、身体の傷跡をモチーフとして撮り続けている。初期のころは、古いアパートメントなど時間の染み付いた空間を撮り続けていた。

スライドやDVDを通じて、作品の解説が続く。
全体的な印象として、物質に存在していた「時間」「記憶」を再確認する作業として写真があると感じた。彼女は「臭い」とも表現していた。

写真を始めたきっかけは美大で織物に挫折して、たまたま友人が写真をやっていたから自分も独学でやってみたとのこと。当初関心があったのは己の足元を見る作業だった。それが、育った横須賀という街で、その場所に蓄積された「臭い」を撮り続ける。

しかし、彼女は初期にアパートメントや「連夜の街」を撮ることで自分の撮るものがなくなったと思ったらしい。
やがて40になったころ、自分の手をふと見たことがきっかけになって、自分と同じ年齢の人間の手足、身体を撮影することになった。それも身体に刻み付けられた逃れられない記憶。
身体を撮影し続けると今度は身体に傷跡が多いことに気づく。そうすると彼女は、傷跡をモチーフにしたものを撮り続ける。彼女の母も身体に傷があり、それも撮る。
彼女の母はやがてお亡くなりになり、今度は母の遺品を撮影し始める。

こうして見ると何かに導かれているように身体や建物などから、その物質に刻まれた記憶と時間に対するすべてに通じるテーマ性の大きさがわかる。

レクチャーのあと、飲み会があったので、ついていって、彼女と話する機会があった。
そこで彼女はこう言っていた。「最初に横須賀を撮っていたのも自分の傷を撮っていたのかもしれない」と。こういったらミーハーかもしれないが、久々に人の話を聴いて電撃が走ったのを覚えている。格好良過ぎ。

飲み会の後、酔いながらふと思った。逆に「時間」「記憶」のない世界とは何か。そんなものあるのだろうかと。

ここ二週間で飲み会7回。はやく寝よう。

さらに格好良過ぎる石内都
[PR]

by stoneroses8010 | 2006-07-03 00:42 | photo