確証はない。それを信じるしかない。

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2006年 08月 31日

urban life

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by stoneroses8010 | 2006-08-31 23:16 | photo
2006年 08月 29日

次はドクメンタ

時差ボケで恐ろしく体が重いが、仕事復帰。

10月早々には東京へ出張だから、その準備を進めないとならない。
NYCで単独でフラフラ街歩きしたことが、職場の他の人にとってはそれなりにすごいことらしく、色々話をする。「普通です。皆さんもできますよ。」と言ってあげる。

来月あたりから、研究モードに切り替えながら、某ギャラリストの方との戦いも再開しなければならないのだけど、正直、何を言われようと世間に打って出るしかないんじゃないかなと大胆に思ったりもする。「祈り」ではなく「コミュニケーション」のために。
それまでには、あれもせねばと色々時間がかかってしまうのですがねぇ。
そろそろ論文ですしねぇ。

そして、また行きたくなってきたぞ、海外! 次はドクメンタを見ることが目標だ。
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by stoneroses8010 | 2006-08-29 04:50 | 我思ふ
2006年 08月 25日

最初からこうすりゃよかった、かな

最終日。
出発まで時間があるので、mamiya7Ⅱだけ持って、1時間ほどプラプラ歩く。一番シャッターをきった時間。いままではいろんなものを背負って、あそこ行かなければという思いがあったので、思うように写真を撮ってなかったが、なんにも意識しなかった時、もっとも街で見たものを受け入れることができたような気がする。最初からこうすればよかった。もうちょっと時間があれば、今日一日ぐらいはこうしていたかった。屋台でパンを買い、スタバでラテ。いつものパターン。

空港まで行く途中、送迎の人がラガーディアには短期大学があって、多くの社会人がキャリアチェンジのために通っているという話をしてくれる。

国際線では、3列シートで、曾孫連れのおばあちゃんと同席になり、話し込む。イギリスからアメリカを経由しての帰りとのこと。その子供のご両親は、母は日本で、父はドイツ、祖母はイギリスという家族だった。おばあちゃんは、イギリスは天気はよくかわるし、物価は高いとイギリスの文句ばかり言っていた。子どもはすごく人なつこく、3時間ぐらい一緒に遊んだ。
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by stoneroses8010 | 2006-08-25 23:52 | NY
2006年 08月 24日

いろいろあるのはわかった

いつもより遅めに起床。8時前。朝食は屋台のシュガーのふったパン1ドル。屋台のおっさんも私の顔を覚えていたみたい。最小限の会話ですべてのやりとりを終えようとする。スタバでラテ注文。これもお決まり。

モマへ57丁目沿いに撮りながら向かう。
モマは開館前だというのにかなりの長蛇の列だった。入館まで15分ほど待つ。
6階から下りながら鑑賞する。特別展の映像作品があったがよく意図が分からなかった。すべての表現意図がわかれば、それはある意味精神が健全でないと思う。
もう一つの特別展はダダだった。スイス、ニューヨーク、パリ、ベルリンという地域ごとでのダダイズムを取り上げる。ドイツのSchwittersのミクストメディアの幾何学的表現がよかった。幾何学は非現実的であり、すごく遠い宇宙の概念のように思えるが、それを立体的にそこらであるもの、日用品を用いて展示し、一気に現実に引き戻される感覚。洗練され潔さを感じる。

さらにモマコレクションを鑑賞。これまで訪れたなかでもっとも充実した内容だった。
ミロは下地が思ったより、泥臭い。というより現実的なキャンバスに、突如わからない記号が浮遊することで、メディアで目にする以上に不思議な感覚になる。
キリコは、モノをモノとしてとどめることを回避しているように思う。モチーフは現実的だが、陰影やそのものの匂いなどを想起させる者を極力消して、実世界とは違う世界、つまりは、モノをモノとして意味付けする前の世界というのだろうか、そんなものを感じる。
マチスは、その色彩の強さが目立つが、なによりも黒色を強く、絵の背骨のような働きとして用いているのだということがわかる。
カンディンスキーは、実際で見たら、かなりどれも明るめで荒々しい作品だった。抽象主義のなかに、かなりフォーブなものがある。これは見た価値があった。
ジャコメッティ。彼の細々とした女性や犬の彫刻。その周りの空気を肉としてつけているような厚みがある。かなり気に入った。

ここまで見てすでの二時間以上経過していたので、食事。
ニュージャージから来ている孫連れのおばあさんと話す。私は日本でも実年齢よりも若く見られるのだが、それは万国共通のようだ。どうも当初私を学生だと思っていたらしく、そうではない、社会人であることと実年齢を伝えると、かなり驚いていた。(そもそも日本人自体、若く見られるのだが)こうしたたわいもない会話でも、一生の思い出になるなぁ。

その後、かなり期待していた三階の写真展示室に向かう。キャパ、ウィノグランド、フリードランダーと様々な写真があるも、ダイジェスト版みたいな感じで、あまり面白くなかった。が、私が最近気になっているオラファー・エリアソンの大地の裂け目のシリーズが壁一面に展示されているのはよかった。42枚。作品として成立している。ウェブで見るよりも伝わるものが違う。自らが美しいとするもの、(彼自身がこのモチーフをどう捉えているのかは不明であるが)を切り口を変え、提示することでその世界観を伝えることができるということの意味。参考になる。
あと、作品として成立していたのは、ロルカ=ディコルシアぐらい。

4階は、ポップアートやミニマリズムが続く。ステラ、スミッソン、ジャスパー・ジョーンズなどはホイットニーやメトロポリタンでもう食傷気味だった。と同時、彼らがアメリカで占める位置づけの強さを感じる。
ウォーホルのキャンベルスープや、ゴールデンモンローが見れたのはありがたい。彼は、事故の写真や死刑執行代のコラージュなんかもあるが、表面的でなくかなり「死」を意識している。それをポップに表現しようとする。彼は確か個人の消費は自意識の死と同義と言っていた。
ここで3時を回っていたので、適当にみやげものを物色。その後、57丁目沿いのリッツォリという書店(ここはかなりアート系の本が多い。)で、ICPであきらめたATTA KIMの写真集を結局購入。その後、またtktsに行って、今日観るものでも探そうかと思っていたら、大雨。止まなさそうなので、いったんホテルに戻り様子見。さらに降りが激しくなるので、今日は断念し、35丁目あたりの韓国料理屋で夕食を取る。ここの店のすごいところは、何を頼んでも前菜で、7種類のキムチや芋、野菜、肉が出てくることである。それだけでもたいした量である。それにオーダーしたものが加わる。思う存分食べることができた。
店を出ると晴れている。しまった。あきらめるんじゃなかったか。その後、マディソンスクエアあたりをふらふら。警官がやたら多い。ライフルのようなものを抱えている警官もいる。なんだか物騒。
マンハッタンモールなどで服を物色してから深夜にホテルに戻る。その途中、ホテルの近くのカフェで水を買う。ここの女性店員は物を食べながら接客する。態度が悪い。

いろいろあるのはわかった。ブレないこと。「どうだ」という自信と完成。そこから始まると思う。
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by stoneroses8010 | 2006-08-24 23:54 | NY
2006年 08月 23日

ジャスパー・ジョーンズはちょっと食傷気味

いつもより、遅めに起床。ホテルの近くの屋台で買った1ドルのパンとスタバのラテが朝食。

朝からメトロポリタン美術館へ。
広さが尋常じゃないので、あらかじめ狙いを定めて鑑賞しなくてはならない。
最初は、20世紀美術へ。だれもいなかったので、リキテンスタインやロスコ、ライマンを心ゆくまで堪能。
次に、ヨーロッパ絵画へ。ルノアールは人物に対しては、ほとんどタッチを消しているように見えるが、その反面、背景は消すように荒々しい。ここで私は、チェルシーで観た映像作品。人物だけ焦点を当て、まわりはぼかしているものを思い出した。Jean Auguste Dominiaueという全く知らない画家のモノクロームの女性像が、印象派など色彩に見慣れていることから新鮮だった。
写真のコーナーもわずかだがあった。スティーブン・ショア、ウェストンなど。これもなんだかダイジェスト版といった感じ。
一番関心を引いたのは、意外にもアフリカの美術だった。特に仮面と彫刻。一番長い時間をかけて鑑賞したと思う。地域の固有性と、人の想念が込められたものの普遍性に見えているものの奥にある何かを感じる。近代絵画は閉鎖中で鑑賞できなかったのだが、それでも広く、地図があっても迷ったりもしたのでかなりの時間がかかってしまった。
地下にあるカフェのマンゴーヨーグルトスムージは絶品だった。
5番街の本屋で本を物色。以前、院の先生にみせてもらったメイプルソープの写真集を見つけて、買おうかどうか迷ったが、断念する。買っときゃよかったかなぁ。

その後、ホイットニー美術館へ。
全館full houseという特別展。要はホイットニーのアメリカ美術のコレクション展。
6階から下って見ていくと年代順になる。必ずどこかでアメリカでは見かけるホッパーというアメリカの原風景を描く作品が多かったが、あまり関心はない。
ドナルドジャット、ジャスパー・ジョーンズなどありながら、私が最も関心を持ったのは、RONI HORNという作家の写真。モノクロームの40枚くらい組み写真で、写っているものは、スポーツジムなどであるような10くらいバスルームの壁、ドア、通路。言葉にすると、たいしたことないのだが、そのタイルの直線というだけの主張でも切り口が違うだけでこうも見方が変わるものかと感心した。と同時に、どこにでもある題材でも決して見慣れている、すべてがそうだから何?といった無粋な疑問は、創造という切り方ひとつでいとも簡単にその壁を突破してしまうことが確認できた。

夕方から、tktsで並んで、「オペラ座の怪人」のチケットを半額で入手。本当は話が分かる「シカゴ」が見たかったが25%offだったのでやめる。
いったんホテルに戻り、簡単な夕食と身軽な準備をして劇場へ向かう。
劇場では、チケットをもった人の長蛇の列。10分ぐらいして開場。係の人にチケットをみせて、座席を教えてもらう。
2Fの端のほうの席。悪くない。
話の内容もあまりよくわかっていなかったため、場面と場面をつなぐようなシーンはよくわからない。
怪人のアジトにクリスティーヌという娘を連れて行くシーンは舞台からロウソクのような装飾品が競り上がりとスモークによって、水を表現しその上を船で漕いでアジトまで渡る仕草は「おお」と感嘆した。
あと、舞台から火が吹いたりなかなか楽しませてくれたりもしたが、やはり役者の演技力なのだろうか、言葉は分からなくても、その細やかな感情の動きがよく分かる。ラストでは素直に入り込めた。
当初は結構ブロードウェイを馬鹿にしていたのだが、まあ楽しめるものだ。
帰りはキャブを捕まえる。地番で行き先を伝えても、「わからない」という、何度言い直しても伝わらない。どうもこのドライバー、場所が単純にわからないみたい。ありえん。地図をみせてなんとかホテルに向かってもらう。

店で買い物する時も、ちょっとしたときも別れ際に言う。「have a good time」という言葉は便利だし、暖かさを感じたりもする。
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by stoneroses8010 | 2006-08-23 23:50 | NY
2006年 08月 22日

ICP

5時半起床。朝食 昨晩買ったベーグルのあまりをたべる。
昨晩はすぐ眠りに落ちたものの、ホテルのすぐそばで道路工事があり、それが深夜に及ぶ。おかげで完全熟睡とはいかなかった。
ホテルのすぐそばのスタバでカフェラテを注文したつもりが、ホットコーヒーを出される。屋台でドーナツを買い、ホテルにもって帰り飲む。

その後、ICP(国際写真センタ)に向かう。特別展はATTA Kim、 Weegee 、ajget 。
ATTA Kimの特別展はかなりよかった。何枚ものチベット人の顔をレイヤーにして、同一画面上に配置し、一人の人間の顔写真を作り上げる。解説がなかったら、一人の人間のポートレートがぶれたようにも見える。
私は、この作品から、人間がどのような顔立ちを持ちながらも、基本は同じという画一性、反対に、人種などを固定することで、その人種しかなし得ない顔立ちがあるという固有性という二重の意味を持った深さがあると思う。
また、ものに対しては、(例えば氷)時間を重ねたものを同様の手段によって、表現する。出来上がった一枚の写真では、氷とは思えないほど、なぜかまばゆい光を放っている。それは「モノローグ」と題されている。
私は、このモノのモノローグは時間を重ねることで刻まれる小さいが確実なモノの消失しつつある、もしくは傷つきつつある叫びにも感じる。
同じ手段を韓国にある人形でもやっていた。デフォルトは同じ(たとえば、日本で言うとたぬきの置物だろうか)なのだが、多様性があるものらしく、いくつものパターンを撮っている。それを重ね合わせる。そうすることで、そのデフォルトが作られた世界観が誇張させているように見える。いい意味で。
図録(ICP発行の写真集)を買おうとかなり悩んだが、金額の関係上断念する。

昼は23丁目のチェルシーパパイヤでホットドックとパパイヤジュース。
午後からは、チェルシーのギャラリーをひたすら回る。
デミアン・ハーストなんかを扱った大手とも言えるカゴシアンギャラリーは、リチャード・セラを取り扱っていた。あまりセラに思い入れはないので、軽く見ておく。それにしてもかなりでかいギャラリー。天井の高さ、スペースの広さは尋常じゃない。小学校の教室2つは余裕で入る。それが4つぐらいあった。
メトロピクチャーズ、ロバートマンギャラリーを当てにしていたのだが、両方とも展示の関係上やってないみたい。
ギャラリーガイドを手に入れ、ギャラリーの位置は把握できるものの半分以上は、展示の入れ替えなどで閉っている。
一番目を引いたのはStux gallryのグループ展での作品。
学校の教室のような場所で、複数の女の子が遊戯をしている。一人の女の子のみ焦点をあて、他はぼけている。それを見た時、よくワイドショーなんかで、子供が事件に巻き込まれ被害者になったとき、その子の思いでのビデオ映像が流される場面を思い出した。
この作品ではそれを想起させながらも、実は、我々の目線がそれに焦点が強制され、他が見えなくさせられてしまっている映像のひとつの傾向を垣間みた。具体的にいうと、子供の思い出の映像では、その子供の元気な姿だけをながせれれば、放送している側は問題ない。見ている側も別に変だと思わない。しかし、この時点で、映像の焦点は強制されている。見てほしいところ、隠しても見ている側が納得している作り手と受け手の暗黙の現代に置ける映像のあり方と思える。ニューヨークは様々な人種が存在し、様々な言語を扱う。その人たちをうならせるためには、作品を提示して、まどろっこしく言葉で解説する隙などない。それを超える普遍的な主張、美を提示する。それが重要。それを確認した時、日本の写真のあり方に(すべてがそうではないが、)窮屈に感じたりもする。
正直、いまも抽象主義の亡霊をひきずっているような理解できない作品も多かった。
しかし、大事なのは完成させること、「どうだ?」と投げかけること、他者とコミュニケーションしようということなのである。考えをこねくり回したり、作りつつあるものの試行錯誤の上完成させず、中途半端に終わるのは一人で念仏を唱えていることに近い。投げかけてしまおう。失敗したら捨てればいい。

その後、tktsにいき、今日のミュージカルの半額チケットを物色するもいいのがないため、あきらめ、モマのショップで、本を代わりに冷やかしておく。ここでも買わず。
夕食は、中華。小龍包がおいしいと聞いていたのだが、まずまずといったところ。44丁目にある店。

街の建物が古い。モダンというよりもポストモダン。様式がごちゃ混ぜって感じがする。
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by stoneroses8010 | 2006-08-22 23:57 | NY
2006年 08月 21日

ベーグルで失敗する。

今日からNYに行く。どうも長時間のフライトに私は向いていないようだ。飛行機のなかで寝付けるわけもなく、眠気を誘うためにアルコールを入れるも逆効果。頭も痛くなってきて軽い二日酔い状態となる。

なんとかNYにつくも、税関で止められ、私だけ荷物を開けさせられる。あとで聞いた話によると、ランダムで税関が荷を開けさせているらしい。空港で白タクに捕まりそうになるも逃げ、なんやかんやでホテルにつく。まだ半日残っていたので、グッゲンハイム美術館へ行く。
Zaha Hadidという建築家の特別展が新館すべてをつかって行われる。彼女が携わった建築物の模型、イラスト、映像、写真、CGなどあらゆる媒体によって展示が続く。内容は、かなりのモダニズムで、ロシアの構造主義も思わせる。
一辺倒な内容だが、多様な媒体でみせられると一つの世界観が見えるようで恐れ入る。
アネックスでは、ポロック、カンディンスキー、ピカソなどがある。ポロックとカンディンスキーは一つのフロアを使っている。
ポロックは二次大戦前後で作風が一変する。戦前は、ピカソで見られるキュビズムのような直線的なものに、アルタミラの壁画用のような荒々しいタッチで描かれるが、戦後は有名なアクションペインティングが主となる。次第にモノクロームに近づいていくところが面白い。
グッゲンハイムのカンディンスキーのコレクションは有名であり、展示も抽象主義的な作品に限らず展示されている。
ピカソも多かった。彼の引き出しの多さがわかるように、多様な作品を並べる。印象派のようなものからキュビズムまで。

NYは地下鉄で一度は迷うと言うがそれがよくわかった。アナウンスが普段ほとんどなく、文字情報で路線はわかるが、突如ローカルがエクスプレスに変わったりする。地元の人間が注意を払いながら対応しているものに、言語が理解できない私が対応できるわけもない。Queensまで行ったりして焦ったりする。
夕方からは、ブロードウェイを歩く。一つボックスオフィスにチケットがあるかどうか飛び込んでみたがやはりないみたい。「ありませんが」見たいなことを言われる。明日はtktsでも行ってみるか。
晩ご飯はベーグルにした。ホテルの近くのデリでベーグルをカスタマイズする。大きさがいまいち把握できなかったので、2つ注文するがこれが大誤算。あまりの大きさに一つしか食べれない。どおりでベーグル2つとコーラで18$もするわけだ。

街で歩く人のスピードが早い。信号も青(正確には青ではない)に変わる前にサクサク進む。
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by stoneroses8010 | 2006-08-21 22:41 | NY
2006年 08月 20日

ゆれるジダン

映画のはしご。(くっつけるとタイトルが変だ)

「ゆれる」
(ストーリ)東京で写真家として成功した猛は母の一周忌で久しぶりに帰郷し、実家に残り父親と暮らしている兄の稔、幼なじみの智恵子との3人で近くの渓谷に足をのばすことにする。懐かしい場所にはしゃぐ稔。稔のいない所で、猛と一緒に東京へ行くと言い出す智恵子。だが渓谷にかかった吊り橋から流れの激しい渓流へ、智恵子が落下してしまう。その時そばにいたのは、稔ひとりだった。事故だったのか、事件なのか。裁判が始められるが、次第にこれまでとは違う一面を見せるようになる兄を前にして猛の心はゆれていく。やがて猛が選択した行為は、誰もが思いもよらないことだった・・・

この作品の印象的なところは、弟が罪の意識に苛まれたかのように見え、裁判を受ける兄のコトバとその本音の両方を耳にすることで、当初は兄を救うために尽力するも次第に違和感をもち、ゆれる「気持ち」である。それは目にした事実さえも左右させるということだ。
私は最後まで、兄が智恵子を突き落としたのか、事故なのかわからなかった。というのも、その映像は、弟から見たビジョンによるものが大きいからだ。つまり、兄が智恵子を落としたかのように見え、落下して行く場面を目にしながらも、兄を庇いたいという気持ちがあるから、事故だと事実を認識する。

しかし、最初は罪に苛まれ自白したかのように見えた聖人のような兄が、弟と面談した時、「実はおまえのために殺した」と殺人の動機を人に擦り付けるようなニュアンスをほのめかしたり、裁判中に、俗っぽい巧妙な(弟が見た事実とは異なるような)ウソの供述をすることから、弟は「私の知っている救いたい優しい兄とは違う」と違和感、憎悪を感じ始める(弟は、「優しい兄」を殺害したであれ、事故であれ救いたいために手助けするが、実は考えていることが俗っぽい兄を救っていることが許せなくなってくる)。すると、今度は兄が殺害したような記憶が弟のなかで「真実」として展開する。それは、最後に裁判で無罪までたどり着きそうな兄に対して不利な供述をさせる。
そんな兄を見たくない。昔の優しい兄を取り戻したかったというところだろう。

兄が7年服役したあと、弟は、幼いころ、兄や父母と遊んだ8mmを見る。そこに映っていたのは、困っている弟に手を差し伸べるまぎれもない「優しい兄」だった。すると、そこでまた、事故の場面がフラッシュバックする。それは足を滑らした智恵子に対して、手を差し伸べる「優しい兄」だった。弟は出所した兄を迎えに行くつもりはなかった。しかし、コトバやウソがどうだろうと、今も昔も弟を守ろうとしていた「優しい兄」には変わりないと知った時、弟は兄を迎えに行くべく、家を出る。

記憶というものは、人の取り巻く環境によって、なにかしらの影響を受ける。それは「事実」と呼ばれているものも左右させるといえる。では、事実とは何か。目にしたものすべてと言えるかもしれないが、弟が事故(殺害)を目撃したのは、はるか遠くの場所からであり、かといってすべてが見えないわけでもない。こういった微妙な距離感が目にしたものがすべてということの「不安定」さを作品全体で助長させている。それを補完しうるのは、兄のこと、智恵子のこと、そしてそのときの現場の弟の「記憶」のみだったと思う。

「ジダン 神が愛した男」
2005年4月23日のジダンが出場した試合のすべてで、ジダンがピッチでボールを蹴る、走る音が響き、すさまじいディテールの描写でジダンの肌を滴る汗を捉える。全てジダンを捉えたものであるから、試合展開はわかりづらいが、映画の意図はそこにはない。

はじまって30分ほどは、映像、音が普段のサッカーで見られない斬新なものだったので、「おお」と感嘆していたが、それがずっと続くため次第に飽きてくる。ジダンのモノローグも流れるがわずかなので、新たな展開はほとんどない。次第に視点は、プレイを見るようになり、「ああ、トラップうまいなぁ」とか思ったりするようになる。さらに進むと他のちらちら映る選手を見るようになる。ベッカム、ロベルトカルロス、グティなど。当然彼とポジションが近いと映る頻度も高い。
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by stoneroses8010 | 2006-08-20 23:16 | 映画
2006年 08月 13日

ユナイテッド93

NY関連の手続きを済ませる。
イギリスのテロ未遂のせいで、機内に液体物が持ち込めない。フライトは12,3時間。
まったくいい迷惑である。

映画を観る「ユナイテッド93」
9.11事件でハイジャックされた飛行機の一つで、唯一標的にたどり着かなかった機体でもある。それは、乗客の尊い勇気と生きる希望をもって、ハイジャックしたテロと戦った結果でもある。それがユナイテッド93。ペンシルバニア州のシャンクスヴィルに墜落し、全員が死亡する。

私はかなり前からこの実話を知っていたので、映画化されると知ってどんなものになるか非常に興味があった。
映画は無駄なく「9.11」を表現する。
複数の飛行機が同時にハイジャックされるという前代未聞の状況に管制は正確な情報がつかめない。管制は軍部に連絡し、事態の収拾を依頼するも、まったく連携が取れない。F-16という戦闘機を飛ばすも、飛ばしたところでどうしたらいいかわからない。
こういう想定外の緊急事態には、「機関」はあてにならないと思っていい。なら、どうするのか。個人の力はあまり無力。知ってる結末にひしひしと絶望感が迫る。

乗客はWTCに2機の機体が突っ込んだことで、自分たちの機体も同じ運命をたどることを悟る。墜落から15分前に乗客はハイジャック犯に立ち向かうことを決意し、見ず知らずの他人同士が自然発生的に協力し合う。
個々の能力が一つに集まっていく瞬間であり、私が興味を持っている集団の行動の突如生まれるダイナミクスを感じる。(これも一つのグループ・ダイナミクスなのかなぁ)

決死の覚悟でハイジャック犯と争い、奪われたコクピットを目指し、操縦桿の取り合いまでたどり着く。そうした争いの最中にも恐ろしいスピードで地面が迫る。
もうここまでは息詰まる思いで見ていた。結果がわかっていてもなんとかなって欲しかった。

あと、乗客がもうだめと判断した時の家族や親しい人に最後の言葉を機内の電話で伝えていた。
最後の言葉を伝える相手を作る。そういったことが人が生きるうえで最も必要なことなのかもしれない。
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by stoneroses8010 | 2006-08-13 23:55 | 映画
2006年 08月 12日

イマジネーションのコミュニケーション

最近、千住博関連ばかり読んでいる。千住は「アートとはイマジネーションのコミュニケーション」という私には、最もわかりやすく受け入れやすい説明をしてくれている。千住自身は日本画家なのだが、描くということについて、「私」はどうあるべきなのか、どの部分を切り捨てるべきなのかを明確に把握にするべきだという。そこから、「自分の言いたいこと」を明確にして、力の限り「伝えたい」という思いを載せて、はじめて作品として「人を留めることができる」という。
彼は、ある程度作家活動を進める中で、ニューヨークにいたということから、「自分はそういや日本のことを何も知らない」と感じ、ゼロから日本の芸術論を勉強しなおし、新たな表現の幅を開いた。(その勉学の別の動機として、美を美として受けれてくれない現状に、美を表現する上での哲学的根拠が必要という一面もあるという)

私は、今一番彼の言葉が心に響く。
写真を作品群として提示して、それを作者がコトバで補足して、「ああ、そうなのか、スゴイ」というシーンをプロのみならずアマの品評会でもよく目にしてきた。
私としては、それは少し違うような気もするが、記録というジャーナリスティックな一面もあるため、全面的に否定はできない。しかし、それなら「写真」でやる必要はあるのか、
伝えようとすることの写真の独自性って何なのかということにもやもやした思いであった。
そうした時に千住は「絵を描く悦び」(光文社新書)のなかで、
「作品は作家のイマジネーションが自然に表れるものですが、それと同時に見る人の豊かなイマジネーションが働くものでもあるのです。いろいろ説明を聞いてみてから、初めてなるほどと理解する。それでは作品としての生命力は不十分なのです」(p86)
という。
絵画と写真という表現媒体の差はあるが、なかなか説得力ある意見と思える。
「イマジネーション」と「コミュニケート」するためには「コトバ」を越えないとならない。

千住は絵画についてそう述べているのかもしれない。じゃ、写真では?
いや、そもそも「写真」とは?という問いに対して、自分なりの意見はあるも、どういった思想過程があったのかは全く無知に等しいことに気づく。
ベンヤミン、ロラン・バルト、ソンダグあたりをもう一度読み返そうと思っている。

今日は撮影で疲れた。また、フィル現しなきゃ。
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by stoneroses8010 | 2006-08-12 23:54 | arts全般