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2006年 10月 27日

応挙と芦雪@奈良県立美術館

「応挙と芦雪」@奈良県立美術館
金曜、土曜は9時まで開館らしいので、仕事上がりに奈良まで行ってみた。こういった地方の夜間開館の人の入り具合ってどうなのだろうと道中考えていたが、予想通り、人が少なく、こういった規制緩和ってケースバイケースだと思った。

しかし、内容は力強い。山水、花鳥、人物など主題ごとに応挙と芦雪の作品をあげる。年代別ではなく、あくまで主題別。
芦雪の美人図はまだ、芦雪が絵師として駆け出しだったころのものであり、彼が師にしがみつこうとしながらも、構図やら、モチーフになんらかの生気を与えることで差別化を図ろうとする背伸びの姿勢に好感が持てる。

芦雪を飛躍させた和歌山での画業の一つ虎図をはじめとして、牛図など動物を多く描くが、気づいたところは、巨大、畏怖とされるものに対して、あえて、感覚的な可愛さを織り交ぜながら、一定の空間で収めようと描く一方で、小さい、数多い(スズメ)などは、筆致が荒く、どこまでも伸ばしていこうとするがごとく、撥ねが目立つ。

写実主義応挙の流れを汲むから、博物学的に描くだろうという思い込みもあるが(事実、そういう作品もある)が、彼は、写実的だけでなく、自分のモチーフに対する主観を加えていることがわかる。亀は一見写実的に描かれているように見えるが、その表情はどこか、アニメ的であり、そういうものなのだという主張を感じる。観たことなかった百鳥図では、鳥が目をつぶってわからないように微笑んでいた。

山水では、墨の濃淡による遠近法を駆使する(付けたて)。濃淡でこれだけパースを目だって取っている人は当時の京都画壇ではあまりいないのではないだろうか。奥の意識が強い。
応挙は、その逆で、余白や、描くか描かないかかろうじてわからないところで、その空間の永続性を表現する。二曲一隻の正方形状の金地の屏風絵である「薔薇文鳥図」では、左上から右下に垂れ下がる薔薇の枝に文鳥が止まっているというどこにでもありそうな図だが、下部の余白(金地)の部分がいやに多い。それが、下からの光に照らされた時、その平坦だった金地は、すさまじいグラデーションとなり、どこまでも空間が続く錯覚を起こす。それは、モチーフの配置に仕方が為しえたものでもある。正方形ということも影響しているかもしれない。
プライスコレクションでも、応挙は、余白のなかに、微妙に調節しながら、モチーフを配置し、間を描くか、描かないかという工夫を施す。それがパースを取ろうと意識していないのに、どこまでも続く空間の演出する。
付けたてって、ダヴィンチが使っていた空間遠近法と似ているな。

この展示は、前期と後期に分かれ、すべて展示換えするらしい。しかも、巡回することなく、奈良県美のみの企画展となる。気合いは入っている。
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by stoneroses8010 | 2006-10-27 23:29 | arts全般
2006年 10月 22日

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by stoneroses8010 | 2006-10-22 14:18 | photo
2006年 10月 21日

20年前への逆戻り

10月のこれまでは、論文作成にも取り掛かることができて、ある程度進みつつあるが、これまた論文を少し脇においておかなければならないことが起こり、間に合うかどうか少し心配。

今日は、以前取材した施設に電話取材していた。メールで不明な点を質問したら、電話で応じるというので。
私が取り上げていた事例が、どうも休止状態に陥るらしいのである。あまり具体的には書かないが、美術館への市民参加が館長による集客主義により、シャットアウトされたというのである。20年前への逆戻りであり、財政逼迫と、博物館の存在意義、マネジメントのあり方まで、これまで論議、実践してきて、美術館は一体何を学んでいたのかと落胆してしまった。私以上にお話してくれた学芸員の方は落胆していたけれども。

学芸員の方の、美術館への市民参加の推進は既存の体制にとっては、専門性の侵略となる。それは前衛でもあり、危険視されるものでもあるというコトバが印象的だった。
もちろんこの方は、そうは思っていない。そう思う既存の支配体制の方がいまだ大勢いることを暗示的に述べているものである。
むろん私もこの考えには反対の立場であり、そのあたりを論文に組めればと思っている。
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by stoneroses8010 | 2006-10-21 19:03 | マスターへの道
2006年 10月 15日

エッセンシャルペインティング

エッセンシャルペインティング@国立国際美術館

この展示を観る前にコレクション展で、写真をやっていたので堪能する。ダイジェスト版で、キュレーションがいまいちだなぁと東京国立近代美術館と比較したり。

自分をぼかして、背景をはっきりさせるセルフポートレート(ちょっと作者忘れてしまった)。集団から疎外されている自分自身のセルフ。リー・フリードランダーは、自分の姿を明確にしないながらも、自分がしっかりと社会で生きている意味づけのために、痕跡をつけるために、ぼやけた、ときには影のみの、ときには不明確で形とは形容しがたい自分を焼き付けた。フリードランダーは、自分の生を前向きに主張しており、社会的に背景に自分が巻き込まれていることを明確にしているのに対し、彼は、完全に後ろ向きで、自分の存在が社会でいらないものとでもいわんばかりに、その写真は悲しい。

あと、石内都(彼女はもっと日本で評価されてもいいと思う、森山大道の二番煎じはいくらでもいるが、彼女の二番煎じはいまだ現れないでいる、そのぐらい他人が寄れない世界観がある。個人的動機に依拠しすぎとも言えるが)、畠山直哉、やなぎみわなど。個人的には好みの作家が多かったので、おおむねよし

さて企画展。
私はリヒターやポルケ、キーファーを越えた次の時代になにが来るのだろうと思ってこの展示を見に来た。具体的絵画の復権はさらにすすみ、特徴的なのは、写真、メディア、工芸などを用いて、それらを媒体として、社会的な問題を少し暗示させながら、あっさりと描くというところ。

エリザベス・ペイトンは、肖像っぽくもあり、スナップっぽくある人物を、油彩だが、水彩のようにあっさり描く。一瞬で見せる不安な表情、怒りなどを捉える。このあたりはスナップ写真に近いが、それをペインティングという自分を介在される手法をとることで、独特のものとなる。

ミッシェル・マンジュリスは、ゲーム、アニメ、ロゴといった現代のアイコンを駆使する。アニメを西洋美術の文脈にのせるものはあったけど、そうかゲームかぁと思ったりする。モノクロの構造。なるほど。

アレックス・カッツは、同じ顔をした4人の人物に同じ服を着せ、ときには裸にして、位置関係をバラバラにして並べる。総じてフラット。うそっぽい没個性の世界。

リュック・タイマンスは、輪郭、形状全てをぼかして、フラットかつ淡いトーンで全体をそれでもかろうじてわかるぐらいに見せる。意味や権威の否定。
「見る」ということは「わかる」ということと同義ではないということに抽象画が隆盛を極めた。これらをそれを踏まえながら、具体的な捉え方に回帰しつつも、また違うことを告げているように思う。文脈に乗っ取るとはこういうことかと思った。

見て損はないと思う展示。
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by stoneroses8010 | 2006-10-15 21:42 | arts全般
2006年 10月 14日

若冲とプライスコレクション

若冲とプライスコレクション@京都国立近代美術館

京都国立博物館で若冲展をやっていたのは、2000年のこと。それ以降も各美術館で若冲がらみの企画展をやっていて、いまだ根強い人気。何なんだろうと思う。私も大学時代に出会って、その凄さに圧倒され、日本近代史のゼミで、いきなり若冲の発表をしてやったら、教授以外は全員面食らっていた。その教授はなんでもやっていいという方針でかつ、なんでもコメントできる人だったので、思い切りやってやった。今となればいい思い出であり、深く学べた機会だったので、感謝している。

さて、この展示は若冲をはじめ、日本近世の画家(主に京都画壇)の多様性を誇る内容となっている。応挙、芦雪、岸駒などなど。
今回の展示は長澤芦雪が目立っていた。芦雪は応挙の弟子で、奇異な行動のエピソードが多いため、粗暴なイメージがあるが、実は、かなり早熟の天才肌だと私は思っている。なぜ、彼が呉春のように派を形成できず、応挙の弟子として留まっているかの要因としては、これといったパトロンを持ち得なかったことだと私は思う。というのも、資料から、岸駒らと当時同程度の評判だった絵師との差を検討してみたところ、大きな差はやはりパトロンだということがわかる。岸駒は、公家連中に大きなバックボーンがあったけど、芦雪にはない。やはり当時は、(というより当時も)パトロンがしっかりしていないと作家は生き残れない。
芦雪は奈良県立美術館でも今、やっている。若冲につづいて、芦雪のムーブメントの予感。

作品としては、若冲がどうだのいうのはもういいので、新たに気づいた点を少し。
まず、今回は正方形の屏風画が多かった。(鈴木其一や芦雪)正方形というフォーマットは、二曲を一隻として提示しているものであるのだが、そのモチーフの組み合わせ方に、かなり神経を使わなければならない。余白のとり方、主題の組み方など。すなわち、構図の組み方にごまかしが利かないのである。其一や芦雪はそれを上手く組み合わせているので、なにか圧倒するものを感じた。

葛蛇玉の「雪中松に兎、梅に鴉屏風図」は今回の展示で最も鑑賞に長時間要した。
闇夜に鴉、雪に兎というセンスいいモチーフと舞い散る雪の表現は、ドリップペインティングのはしりを思わせる抽象表現主義的なもの。この作品のために研究してみてもいいと思った。

江戸琳派の鈴木守一の「秋草図」、掛け軸の本紙までならず、柱、中廻し、地にも描き、どこまで続いて行く植物。描表装。初めて自分の目で見た。

今回の展示は自然光による展示作品もあった。しかし、蛍光灯でフォローしているものもあり、それでは意味がないのではと思ったりもした。時間や角度を変えて何度も見返したがそれらの違いがよくわからなかった。
当日レクチャしてくれた並木誠士によると、施設によって違う自然光展示をしているので、それを比べてみてはといっていた。

覚え書き
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by stoneroses8010 | 2006-10-14 17:14 | arts全般
2006年 10月 08日

ルソーが見た夢、ルソーに見る夢

東京国立近代美術館の後は、千駄木、谷中を徘徊。雑誌に載っていたブックカフェに入るも、下町のおばちゃんたちの寄り合い場と化しており、ゆっくりできず。その後、夕食を兼ねて、銀座へ。道で3回ほど手相を見せてくれと言われる。

さて、本日。
「ルソーが見た夢、ルソーに見る夢」@世田谷美術館

展示構成は、最初にルソーの作品を十数点。次に同じ素朴派の作品ボーシャン、ボンボワ、など。その後に日本近代美術に及ぼしたルソーの影響関係(1)洋画、(2)日本画(3)写真。そして、最後に現代美術家とルソーについて

ルソーの作品について。
実物は、図録などよりもフラットになっていて、コントラストも弱く、影もない。制作年代1890~1910のフランスを考えたとすると、突飛としかいいようがない。
ルソーは、油彩画で見られるような塗り重ねはしないそうだ。一度使った絵具はずっと使い切る。パレットにも一色しか出さず、別の色を使うときは、いちいちふき取るらしい。

全体的な歪さを感じるのは、遠近や陰影といった技法に通じていないからというのではない。植物や動物は、一つ一つを、他の絵などから模写したり、実際に見たものであり、それらをパーツとして寄せ集めているものとなっている。だから、外の世界を描いていても、幻想的なありもしない風景になってしまう。そうやって、パーツで区切りながら、一見ありそうだが、実はすべてが虚である風景写真をつくる現代美術家がいたな。ベアテ・グーチョウだったか。
浮世絵の製作過程も似たようなものだな。

3部からの日本への影響関係はおもしろい。
ルソーの受容は1910年代では、日本の雑誌に取り上げられるほど、彼の活動期とタイムリーなことであった。パリに居た藤田嗣治もルソーに影響をうけた一人で、彼を慕う岡鹿之助らもその影響を共有することになる。
日本画家への受容も大きく、国画創作協会の土田麦僊や小野竹喬らがルソー風の作画を行なっている。こちらが、洋画に比べて、ルソーの技法の習得だけでなく、それを伝統美のなかに落とし込む工夫が見えて楽しめた。

戦後美術にもその影響関係は続き、山本岳人や吉岡堅治らの「創造美術」のなかでルソーの受容が見られる。私は、そのなかでも加山又造のルソー受容を経て、壁画を思わせるほど原始的、フラットな特徴を持っている絵に好感が持てた。
写真に関しても、ルソーの受容があったとのことで、高山正隆や植田正治らの作品があった。確かに彼らは写真以外の文章や記録から、ルソーに対して言及するところがあり、写真に対しての影響関係を指摘することは正論であるとおもう。
しかし、私は、写真全般からこの点ルソー風というのはわからなかった。
田村栄や高山正隆らが撮っていた時代(1930ぐらい)はピクトリアリズムの時代であり、写真が絵画としての芸術性を求め、絵画表現に近づいた作風が多い時期でもある。よって、写実的でもあり、シュルレアリズムでもあり、ドガのようなでもあり、はたまた岸田劉生風でもある。つまり、どこからも絵画要素が見て取れ、どこへんがルソー風なのか読みきれないのである。

現代美術家においては、横尾忠則とAY-Oが印象的だった。ルソーの作風そのままであり、パロディでもあるのだが、ルソーの作品にあった、幻想的、不安定、そしてどこかモチーフに対して冷淡(ルソーは自分の勤め先を冷ややかに描いており、いいことなかったと振り返っている)な部分を見事に読み取り、それを誇張して、描く。だから、なにやら楽しげに見えるのだが、実は死、戦争、血が隠されており、技法だけでなく、思想を受容しアレンジしてるなぁと感心した。
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by stoneroses8010 | 2006-10-08 15:56 | arts全般
2006年 10月 07日

そして常設展へ

常設展。

ここの常設展は、4階から2階のフロアに渡って展示されており、20世紀美術の絵画が楽しめる。
日本近現代美術が圧倒的に強い。
2階は「バラバラになった身体」をテーマとして、顔、手などにクローズアップしたキュレーションがなされている。
戦前までの萬鉄五郎の表現主義的な作品や恩地孝四郎の戦前にして早くも機械合理主義の限界や都会の疲労感を漂わせる作品も印象深いが、私としては、戦後の日本絵画のわかりやすい展示に対して好感が持てる。
具体やもの派など、あとアンデパンダン系(高松次郎など)をよく目にしていたが、その他の表現に触れることができた点は有意義だった。

気になるものなど
AY-O(あいおう)
レインボー色で描かれたアダムとイブ。混ぜるというのではなく書き分けるというもの。視覚的な強さがある。(次の日のルソー展でも目にする)

加山又造
「日月山水図屏風」のアレンジメント版。バックの色の深さ、対照的な白線による川の流れ。山に咲く桜は夜桜を見る快感を思わせる。その手前の山にはもみじで真っ赤に染まった山。フラットと異時同図の美

オノサトトシノブ
幾何学的な文様と、視覚を惑わせるオプアート。

ばらばらになった身体
トルソから切り株、人形、手のひらとその上でゆらめく物質
手とは視覚から触覚を想起させるモチーフなのか。ありかも。
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by stoneroses8010 | 2006-10-07 23:56 | arts全般
2006年 10月 07日

モダンパラダイス

これから3連休。同僚は帰っている(と思うのだが)、私は延泊することにした。

「モダンパラダイス」@東京国立近代美術館

私はこの展覧会のキュレーションは大した物だなぁと思っている。
大雑把に言うと展覧会内容は大原美術館と東京国立近代美術館の館内所蔵品を使って、西洋と日本の近代美術の流れを概観するものである。もっと乱暴な言い方をすれば、2館の常設展が合体したようなものなのだ。
それなのに、近代美術の流れがわかりやすいし、面白く入り込める工夫が施されている。
一つは展覧会の構成が、多角的で私はかなり気に入っている。
5部構成になっていたのだが、それは絵の主題だけに分類したものではない。一部が「光」を主題として、大気や水といった存在の捉えようでまとめているが、二部は「描く」という行為を見つめなおす。3部では、内面性の追求といった20世紀美術の端緒ともいえる部分に触れ、戦争ととなりあわせになる時代の中で、宗教、死、夢について4部で触れる。そして、5部では近代美術の伏線とも言うべきか、「原始的」な力への回帰があったところまで考える。
もう一つは、演出。ただ漠然とそれを見せるというのではなく、見所をわかりやすく教えている。
たとえば、一部では「クロード・モネVS菱田春草」
何なんですか、それは?といった感じだが、そこでは、アカデミックな伝統を放棄して、自分の見た一瞬の風景のみを描こうとするモネと、同じ時間の流れを感じながらも、そのゆったりとした流れを異時同図の絵巻という伝統の中で構築しようとした春草をたいひしてみせている。
一番最初に出てくるのだが、私はここでかなり感心して見入ってしまった。
三つ目は、絵画のみならず、彫刻、写真とジャンルを超えた構成である。写真びいきだからそういっているのではなく、一つの表現はそのジャンルのみの既存の表現だけに影響されているのではない。そうでなければ、G.リヒターのような表現は生まれないし、ピクトリアリズムもありえない。写真展を語るときに絵画の流れを無視するとか、絵画展をやるときに写真の流れを無視するのは、近視眼的といわざる得ない。

そして、大型展覧会は数年前は、様々なところから貸し出しを受け、各方面から後援を受け、莫大な予算をかけて集客を図ることが常であったが、これはそうでもない。なにせ見せる物自体にそれほど金をかけていない。

さて、作品についてだが、大家のことあれこれ言うのもなんなんで、とりあえず気になったものから。

山中信夫 
ピンホールカメラを太陽に向けて、太陽の光を乱反射させた世界の風景を撮る。中央のみ光の輪を携えながら、風景を撮り、周りは黒。光を扱いながらも不気味さを感じる。ピンポイントの風景と周辺を黒で落とす構成が最近好み。

瀧口修造
デカルコマニーによる表現。オプ的でありながらも、触覚に訴えかける。絵具と水が混ざり合ったモノクロと一部彩色の表現なのだが、それが山林に迷い込んだような不安と、川の流れのような潔さが複雑に混ざり合っている。視覚から触覚に訴えるというところがよい。フォンタナの「空間概念」もそう。キャンバスを切り裂くことで、二次元から三次元を表現させる。そういや、京都芸術センターでモノクロの花や草をこんもりしたキャンバスに貼り付けて、三次元化させたような絵があった。

それを見ながら進むと、松江泰司、金村修、石元泰博にたどり着く。松江は、2次元回帰の写真でコントラストや影は一切つけない。金村もこういったキュレーションでなけりゃ、ノイジーな都会とステレオタイプでみてしまいがちだが、ここでは、都会の猥雑な黒い風景は、ドロドロした感覚を与える。いかにいつも写真を視覚的に見てしまいがちだったかがわかる。いや、純視覚的じゃないな。社会的というべきか。
むしろ、触覚+純視覚、その底流にある日本の芸術感(たとえば、芭蕉のいう「見立て」)これが合わさったものが今の私の中で最も好み。

ルオー
ステンドグラス職人。太い輪郭線とその間にきらめく淡い色。「道化師」というテーマの絵。たしかキリスト回帰の人だったと思うけど。人は道化師にすぎないというアプローチは、それとは逆にニヒリズムを感じる。

岸田劉生VSマチス
細部まで描こうとする劉生と平面かつ簡略なマチス。互いに自分の娘を描いているのだがこうなると劉生の暗く、細部にこだわった絵(なんか旧派っぽい)のほうがウソっぽく見える。私はやはりフラットが好み

モロー
夢に出てきた女を耽美に描く。装飾的でありながら、印象っぽくもなく、アカデミズムに傾倒するわけでもない。それでありながら、マチスなどを育てる。

古賀春江
日本のシュルレアリスト。この人の絵は、いつも見ても面白い。シュルレアリスティックでありながら、魚介類が浮遊しているところは、若冲を思い出す。モチーフの本草学に出てきそうなぐらいリアル。超現実を志しながら、現実的。

土田麦僊
美女と花鳥の取り合わせ。四曲一隻という展示形態でありながらも、ルノワールの芸術観が臭う。印象を知りながら、伝統美に転化する。(次の日のルソー展で土田麦僊の柔軟な受容を知る。今回の東京で、この人を気に入ってしまった)

常設展へつづく。
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by stoneroses8010 | 2006-10-07 13:30 | arts全般
2006年 10月 06日

思いもしないところで誰かと飲めるからおもしろい。

日中は仕事。朝からものすごい大雨と風でホテルを出て、15秒で傘が粉々に砕け散る。
ここまで来るとかなり疲労していたが、この日の夜は大学時代の後輩と飲む約束になっていたので、出かける。後輩はこの日残業しないために、朝早く出勤して、早めに仕事を切り上げてくれたのだそうだ。感謝感謝。

いろいろ話をする。その後輩は英語ができるので、どうやったらマスターできるのかとか、仕事でチームとしてやっていくことの方法とか。
後者については、私もそういう立場であったことがあるので、それとなくアドバイスする。
チームで仕事をする場合は、リーダーは最悪のことを想定して、計っておかなければならない。他の人に仕事を任せていても、できなかった場合、自分がこのタイミングで入って、こうフォローすればいいとかを想定しておく。自分でやったほうが早いことも多いだろうが、チームでやるということは、他のメンバーに当事者意識を持たせることが必要になってくる。そのためのモチベーションを維持させることと、そして、それに対するリーダーとしての自分の言動はどうあるべきかなど。
彼女はちょっと悩んでいたみたいなので、(偉そうに)自分の経験も含めて話した。

それにして、大学時代に、東京でこうした形で飲むなんて思いもしなかった。人生はおもしろいもんだなぁと思ったりした。
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by stoneroses8010 | 2006-10-06 23:49 | その他
2006年 10月 05日

パビリオン山椒魚

日中は仕事。夜は昨日と同様に渋谷で映画を見る。ここまでくると日中の疲れがかなりたまっているのだが、ホテルで休むのもなんだか癪なので出かけることにした。

パビリオン山椒魚。

とあるレントゲン技師がパリ万博にも出展されたという生後150年を誇る山椒魚が本物なのかどうかを確認してほしいと依頼される。その依頼主は、山椒魚を管理している財団の敵対組織であり、山椒魚ごとその財団を乗っ取ろうとしている。
レントゲン技師はその財団に忍び込んで、山椒魚を強奪しようとするが、その財団の理事の妹と出会って・・・。

私がこの作品で言いたいのは、オダギリはやはり3枚目も演じきれるすばらしい役者だということ。
香椎由宇が複雑な人間関係を抱えていようが、シリアスな演技をしようが関係ない。

とくに、段ボールを頭から被せられたにも関わらず、自分が外で裸足になっていることに気づき、何事もなかったかのように、足袋を取り出し、履こうとするシーンは秀逸である。

レントゲン車のなかでの、高田純次との会話も身がなく面白い。
「もう、僕レントゲン技師をやめようと思っているんです。」
「じゃ、私を助けてくれないかな」
「いや、でも僕、レントゲンという仕事がありますし」
「いま、辞めるっつったじゃん」
というノリがずっと続くのである。

そして、何よりもオダギリが主役にも関わらず、話を全く牽引させていないのである。
オダギリは相手がどう思おうと自分が何か困っている人を助けることができるヒーローであり、その使命があると思い込んでおり、勝手にその組織に乗り込んだりするのである。
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by stoneroses8010 | 2006-10-05 23:02 | 映画