確証はない。それを信じるしかない。

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2006年 12月 30日

忘年会

年末は忘年会が続く。職場の関連一つと、友人たち。
職場の忘年会はともかく(まあ、それはそれで、ハラ割って話せる後輩がいるので楽しめたが)、昨日の忘年会は、独演会状態となってしまった(Sたち、ごめん)

なぜ、そういったことになったのかというと、芸術に全く興味がない友人が、芸術の「価値」のつけ方がわからない。そもそも「アート」なるものがよくわからない。という、「アート」に対する一般的懐疑でありながらも、こういったことは自分でも常に考えておきたい事柄だった。
私は、「アート」は何かということを定義することは、ほぼナンセンスか不可能なものと思っていること。そして、「芸術」と考えてきた西洋美術史観、(主にヘーゲル)デュシャンの意味、ディッキー、ダントーの理論など酒と舌がまわるままに話したような気がする。
こういう話は望むところ。いまの写真のクラスは、刺激にはなっても、こういった話ができる、深く入り込もうと考えている人が少ない。もっと知りたいと思う。
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by stoneroses8010 | 2006-12-30 18:36 | その他
2006年 12月 28日

さて、どうしたものか。

担当教授より第一稿の査収の結果が知らされる。おおむね問題ないらしいので、このまま進むこととする。が、字数オーバーしているにもかかわらず、ひとつ盛り込んだらいいかもと思う論点を思いついた。もうこのまま出しちゃってもいいかもとも思う。さて、どうしたものか。

公開するだろう作品群のインクジェットとラボプリントを見比べる。
どちらがイメージに近いか。ディテールをとれば、ラボなんだけど、インクジェットのウソっぽさもコンセプトに合う。この間観た「写真の現在」でもインクジェットが多くなっていた。無論これはドラムスキャナなどを駆使したもので、家庭仕様ではないんだけど。
さて、どうしたものか。

気がつけば、ブログ始めて3年目か。読み返すといろんな人と会って来たなぁという印象。
自分とも、他者とも向き合う姿勢が大事。
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by stoneroses8010 | 2006-12-28 01:06 | マスターへの道
2006年 12月 25日

続けること

「のだめカンタービレ」が終わってしまった。見終わったあと、いつも考えてしまうなぁ。
続けることの難しさとその意味、人と関わることで変化する自分、それを支える人、刺激しあう人。自分の好きなことに対して、どうあればよいかということ。

私は大学から写真を始めているのだが、その時のクラブの人たちは、プロになるか、辞めてしまったかのどちらかだ。私よりもずっと上手かった人たちばかりだった。が、今、「表現」をしようとしている人は知る限りいない。が、私は続けている。すくなくとも「表現」しようと企んでいる。その意味をずっと考えていた。私は続けている人を今年求めた。それはそれで、時間をとるのに往生しているけど、正解だったと思う。もっと、自分がいろんな人と関わっていこうとすれば、自分の「しょぼさ」もいやというほどわかってくるし、見えてくるものもある。見てくれる人もでてくると思う。そういうことで続けている。
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by stoneroses8010 | 2006-12-25 23:41 | その他
2006年 12月 24日

写真の現在3

「写真の現在3」@東近美
行きたいと思っていたから、ムリヤリ都合つけていってしまいました。
開館と同時に入館。いま、自分がやっていくことにどう肉付けしていったらよいか参考のために。
伊奈英次は「視覚的、制度的、政治的タブーの視覚化」をコンセプトとして謳っているように、都市の中に、見えているのに見えなくさせられている何かを暴露していく。それが「cover」の奇妙さであり、「watch」の不気味さである。
小野規は、「周縁のフィールドワーク」と題して、住むパリの芸術家の名前をつけた通りと、その通りの現実のあり方に「脈絡無き接続」を提示するものもあったが、私が面白かったのは、「塔を眺める」と題されたもの。これはエッフェル塔を中心とした周辺地域の風景であり、写真にはかすかにエッフェル塔が見えるのだが、その周辺の風景の捉え方が、わかるかわからないかの程度にその地域に(パリを含んでの)内在するものを表現している。
ここは、パリ周辺地域であり、住民はパリの社会活動を支える労働者で構成されていながら、生活水準はパリ市内より低く、移民者が多い。中心からは疎外されている立場にもある。
「一見平凡きわまりないローカルな空間、しかしここはヨーロッパ植民地の歴史や移民、都市への人口集中といったグローバルな諸問題へと思考が展開していくきっかけになりそうな微小なささくれというかざらつきがある」
と、小野がいうように、凝視すればするほど、その場の空気の渦というか、重さというものが伝わる。私はこの小野のコメントを作品を観たあとで、目にするのだが、これを見たとき、感じていたものはこれだったのかとコトバと視覚体験が符合した気持ちよさを覚えた。

伊奈と小野の都市を見る目というのは深い。とくに小野は完全に思考から入っている。日本で流行っている「クールな風景」とは一線を画するものだ。だからモダニズムでない。というか、そういった純視覚性にこだわっていない。

中心との連続性なき周辺でありながら、その周辺は「中心」を色濃く写す。それを暴露している。そう思う。小野は日本の郊外写真に対して、そういった意識が見えないといっている。が、私はそれは、日本の独自性であって、連続性なきものでありながらも、「逃避」でもあると考える。なんというか、なくては困る。けど深く関わるのはちょっと、というような距離感。

北野謙。「our face」という、ある一つのグループに属する人のポートレートを重ね合わせ、そのグループの独自性を表現する。この人、1999年からやっているのか。私がニューヨークで見たatta kimと同じコンセプト。手法も似ている。Kimの作品を観た時は、こんなやり方もあるのかと驚いた。が、北野のものを見たときは、ああ、もう日本でもやっているのかと少し残念になった。Kimはグループの独自性を出そうとしているよりも、人の身体性に重きを置いているような気もする。
鈴木崇。私は大阪のギャラリーで一回この作品を見たことがある。本人にも会った。少し佐藤可士和に似ていたような気もする。
「見る」ということの知覚は、同一性がなく、差が生じる。そのジレンマを利用したもの。目にしたものの定義づけ、明確化、そしてそれから生まれる共有を求めることの強迫観念。それらをもっと流動にして個々の見る体験を大きく引き離すことが狙い。
説明を聞くとああ、なるほどと思ってしまうけど、ビジュアルと提示方法が際立っていて、そこで、作成意図をどう想起できるか、もしくは自分がどう思うかという思考が止まってしまう。人と会話しながら、みたら面白いかもしれない。「見る」という作用を深く勉強してみたい。

そのあと、別の企画展「揺らぐ近代」を見る。がレビューは割愛。簡略すると、日本近代美術への西洋の流入の状況をマチエールから、モチーフ、画材、表現におけるまで探ろうとしたもの。見ごたえは十分にありますよ。ただこういうのは、岡倉天心の日本画への尽力や、黒田清輝の西洋画の展開、文展への批判から生まれる岸田や国画創作協会の村上、土田などなど、歴史的文脈を知っている方が楽しめる。
セザンヌ、キュビズム、表現主義の影響もあるから、当然、それらの作家や作品も知っていたらなお楽しめる。今回は、萬鉄五郎の表現の多様性というか、いろんなものを吸収しようとするバイタリティがもっとも伝わった。

その後、写美に行って、「細江英江 球体写真二元論」を見る。細江は被写体との関係性こそが写真という人で、三島や土方巽、大野一雄らとの作品をはじめ、関係性を重んじてきた代表作が並ぶ。
細江の写真は、私のものとはかけ離れているが、それでも、被写体と作り上げようとする息づかい、細江が搾り出そうとするもの、被写体が伝えようとするものがひしひしと伝わってくる。当初は身体に重点化したシュルレアリズムを想起されるものが多いが、土方との共作とも言える「鎌鼬」は、ドキュメントなのか物語なのかわからないものを可視化されたようなもので、何度も見返した。

もう一つの特別展「光と影」は、文字通り光と影を見直すというもの、マンレイ、森山大道、瑛九など。
杉浦邦恵の「影」が面白かったなぁ。影は輪郭の「具体性」と中身の「抽象性」を含有しながら、一つのアイデンティティを表すものであるということの表現。
吉田重信の赤い写真は、おそらく赤フィルターをかけた日常写真なんだけど、そこには日常の意味と切り離された別の見方が出来るモノが存在している。トーマス・ルフの、暗視スコープを想起される緑の写真を思い出した。ルフのほうが、そういう手法がなぜ、有効なのかという意識が強いような気がする。そこには、湾岸戦争や、我々が今見る戦争という意味が含まれていたように感じる。このあたり、吉田はモダニストなんだな。

JPS展も観たが、とくコメントはなし。ただ、私のやりたいこととはかけ離れているような気がする。
写真に限らずなんだけど、筋が通っている現在の文脈を踏まえ、それにぶつけるようなもの、西村風にいうと「アートの定義に関わる、ルールを更新することに関与する」というものがないといけないと思う。
その文脈があって、それでも作品を提示する理由付けを持ちうるものが。だから、もっと知らなければならないことは多いと思う。
リリー・フランキーは、自分を超えるものに積極的に触れることで、「自分がしょぼい」と思うことの重要さについて、テレビで説いていた。それに足りうるものだったと思う。
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by stoneroses8010 | 2006-12-24 23:53 | arts全般
2006年 12月 21日

ひどく疲れた

論文第一稿送信。担当教官から来週早々にも返事の予定。ちょっと文字数オーバーしているので、微調整が必要。

今日は、某お偉い人と同期とでミーティング。
なぜ、この業種って、こうもビジョンやら野心やらがない人が多いのだろう。
エッセイ風に自分の経験述べたあと、「いずれはこうなれたらいいなぁ」じゃなく、経験からの課題を明確にし、「こうしたい、すべき」を主張しろよと思う。
あとで、同期になにを頑張りすぎているの?みたいなことを言われた。
力の入れ方がちがうのかな?なんだかよくわからない。
少し絶望的な気分になった。ひどく疲れた。
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by stoneroses8010 | 2006-12-21 20:20 | その他
2006年 12月 17日

やばい

論文。
かなり、字数切り詰めて書いたつもりだが、(注)入れてたら、字数オーバーの予感。
これからは、整合性の勝負。ぬぬ。

東近美でやってる「写真の現在3」展に無性に行きたくなってきた。
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by stoneroses8010 | 2006-12-17 15:59 | マスターへの道
2006年 12月 16日

身体の拘束性

金曜まで、論文にとりかかり、今日は写真を撮る。
1月にまた、ある程度のものを見せないとならないのだけど、それまでに撮りに行く機会が今日入れて、4回しかないことに気づいた。しかも、それは論文がうまくいったらの話である。
というわけで、朝から用事を済ませ、日中は写真。夜からは前の職場で私が担当していたボランティアの主催事業があるので顔みせ&差し入れ。

子どもたちがグループになって、施設の各ポイントを周るというゲームがあった。
リーダーが先頭になって、グループの子どもたちを誘導するのだが、それがゴムひもを使い、列車をイメージさせるような一列縦隊になって進むものだった。(昔やったなぁと思いながら)
しかし、これは身体を拘束しながらも、皆が行動をある程度シンクロさせないと先に進めない身体の同一性を強調するものと気づいた。
道も暗いし、子どもたちの年齢も小学校3,4年ということもあったので、ゲーム中どこに行くのかもわからない。ペースもまちまちになるのが、普通だし、飽きる子どもも出てくる。しかし、この工夫により皆がゲームや行動に集中し、しかも互いに声かけながら、協力し合うようになっていたように思う。
また、ゲームの中でも、皆で、身体をつなぎ合わせて、トータルで腕3本、足4本というものをつくるゲームが盛り込まれるなど、身体をある程度拘束しながら、協力に自発的に導く工夫があったりした。
これってそうした「身体」を意識したものなのか。聴くのをわすれてしまったが、とにかく少し感心した。
また、美術やPCが得意な人はその分野で自分の能力が活かせるような活動になっており、そういった能力の発揮の場と楽しみがリンクしているような気もした。このへんは私の研究テーマと少しだが似ている。

あと、現役だけでなく、私が担当していた時のOG,OB連中が続々参戦。積もる話あり、ようしゃべって長居してしまった。
前の職場の経験は本当によいものだったと思う。働きながら「友人」ができたのだから。(それにひきかえ今は…いや、いうまいて)
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by stoneroses8010 | 2006-12-16 23:32 | その他
2006年 12月 14日

第一稿

論文第一稿ができた。ただし、本文だけ。
註と図の整合性をあと、2,3日の間になんとかして、形にしたものを担当教授に見せて・・・。
年末はその修正をする。

なにも考えず、しこたま映画が観たい。「クリムト」がこのままではおわっちまう。
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by stoneroses8010 | 2006-12-14 02:14 | マスターへの道
2006年 12月 10日

今日という日は忘れられない

写真のクラスへ、3ヶ月前から構想を練り直した作品群を持っていく。
午前中は、ギャラリストの方中心に見てもらう。テーマ性は明確にしつつ、かつ表現意図、時代性も踏まえながら話し見てもらったので、おおむね、方向性を理解してもらった様子。
視覚的表現については、テクニカル面で注文がついたが、これは想定内。
ただ、ダイレクトプリントでは、アンダーっぽくなるのが心配。

午後から、幸運にもレクチャに来てくれた森山大道に写真群を観てもらう機会が持てた。
持ってきた写真群を見てもらいながら、午前中と同じ要領で、作成意図を話しする。
まわりに大勢のギャラリーがいたのだが、あまり大勢を目の前にして、話すことは苦ではない。それよりも、いかに目の前の「daido」に意図を伝えることが出来るかに集中したら、もう体中は汗だらけ。

今撮っているものが、彼の作風とかなりかけ離れているものでもあるので、正直、どうかなと思っていた。R.フランク系の写真を目指すなら、それなりにいいアドバイスになるのではと思っていたが、やはり、この方はモノが違う。

「こうこう、こうしたら面白いと僕は思うんだけど」と言いながら、持ってきた写真をササッとセレクトすると、私が予想もしない違った流れの写真群が出来る。作成意図としかも合致している。これには、感動した。私はセレクトされた瞬間、自分がやりたかったこと、今回伝えたかったことが、クリアになったような気がした。しかも、それが第三者のセレクトによってである。

あと、他に数名見てもらっていたが、そのときも、話を聴いて、ササッとセレクトすると、その作品が一気に変わる。この瞬間の凄さは、まさに衝撃的。

森山さんは、「こだわりというものを明確に持て」とアドバイスされた。
そして、「ここで、自分はどんな気分だったのか」、「見たあと、どういったこだわりがあると思えるのか」ということをやりとりした。「こだわり」というのは撮る「癖」によって現れると指摘していたように思える。自分の「癖」をどう客観視できるか。
それを人に見せるということはどういうことなのか。人に見せるということを意識化すること。

ここでは、「自分のなかの内なるもの」を探るような感覚的なやりとりが続いているように思えるが違う。実に理論的。
つまり、テーマ、コンセプトという流れのなかで、場所に立って感じ、純視覚的にまずどう捉えるか、そして、それを突き詰めたあと、もう一つの捉え方を確認しなさいということだ。それが、最後にアドバイスしてくれた「写真を多面的に見ていく癖をつけなさい」ということにつながる。
また、それを必要最小限のコトバで話す。そして明確に伝わる。(ちなみに、森山さんは文章も恐ろしく上手い)

あと、「オレが撮るような路地裏とかどう?」とか笑って気さくにお話される方ので、かなりクダけて話ができた。そこで思わず、私は「森山さんのように大胆になれない」と失礼千万の返しをするも、笑って「オレも(君が撮るような)こういったところには撮りに行かないなぁ」とやり返してくれた。

今日という日は忘れられない。
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by stoneroses8010 | 2006-12-10 22:49 | photo
2006年 12月 09日

ニュー・トポグラフィックスからサイトグラフィックスへ

個人的好みの「ニュー・トポグラフィックス」

その関連の備忘録
http://www.dnp.co.jp/artscape/exhibition/curator/sf_0506.html

http://www.valis-declinaison.com/day_by_day/txt050605.html

http://offtrap.client.jp/j/textarchive/serial/nc_er9603-j.html


一歩離れて表層をなぞるやり方とも言えるかも。以前から思ってたけど、こういうやり方ってウォーホルと似てる。ウォーホルは商品やメディアを意味とビジュアルから切り離した。ニュー・トポは、風景と歴史性、風土性を切り離した。
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by stoneroses8010 | 2006-12-09 22:19 | photo