確証はない。それを信じるしかない。

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2007年 04月 27日

都市学 ベルリン

前回の都市学は、ドイツ、ベルリンをテーマにしたものだった。
ナチスドイツの都市計画。古代ギリシャ様式(建築、人物像)へのリスペクト。
⇒ヴィンケルマンの新古典の芸術観
ヒトラーは、220メートルもの巨大ドーム(新古典主義的)の建設を目論んでいたらしい。実際は計画は敗戦により頓挫したんだけど。

ドイツは戦後の都市計画として、全体の景観から、一つ一つの建物のまで、皆で議論し、都市風景を形作る傾向がある。
ホロコーストの記憶などのネガティブな遺産さえも、加害者である記憶、被害者でもある記憶を風景に落とし込んでいき、自国のアイデンティティをそこに見ているとのこと。

そういった記憶に依拠したものだけでなく、近代建築にも一つ一つに意味を見出している。
たとえば、巨大ガラスの使用は、「民主化の透明性」という意味づけがなされており、政治的建築の記号の一つとして多用されているとのこと。

首都ベルリンは、周りを散歩する気軽な距離に、戦争の記憶、民主化への志向といった建築物か大小さまざまにひしめき合い、それがナショナルな意識を高揚しているとのこと。

クリストの議事堂梱包についても、ライヒスタークという近代ドイツをともに歩んだ建築物を包むことによって、そこまでの歴史を観る人間が、各々の観点から捉え(そこには戦争に対する反省的な意味もある、また、包まれた建物が議事堂として使われる新しい歴史への期待という意味もある)、今後のドイツをそれぞれどう考えていくかという意味づけがあったという。クリストがそこまで考えていたかどうかは知らんけど。

確かに、近場の風景でも、そこに大きな覆いがかかっていると一体何ができるのかという期待とか、それまであった建物への哀愁とかいろいろ感じてしまう。そういったものを撮ってた人もいたっけ。

ナショナルなものが都市に現れることってこういうことを言うのかな。ちょっと違う気もするけど。
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by stoneroses8010 | 2007-04-27 02:16 | arts全般
2007年 04月 22日

メディアアート

メディアアートについて

http://plaza.bunka.go.jp/museum/mediaarts/200506fujihata/interview/index.html

メディアアートが結局何なのかがわかりづらいけど、作品を掘り下げていくものの見方ってのは参考になる。
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by stoneroses8010 | 2007-04-22 14:38 | arts全般
2007年 04月 21日

出勤 グルスキー

午前中休日出勤。
なんともならんものやろかぁ~。来週もだし。
その後、大学図書館に本を返して、研究関連の資料を集める。まだ、方向性が固まらない。
前の職場に行って、仕事関連の情報を聴取しようと思ったけど、気が乗らなかったのでやめる。
で、写真のクラスへ行って、今年度もよろしくお願いしますと挨拶。
併設されている図書館で、グルスキーの写真集を見直す。
「線」がきっちりというキーワードがここ数日アタマに残っているからだ。
グルスキーは、線がどうでもいいような写真に見えても、きっちりしている。物事の骨が見えてくる。単なるフォーマリズムじゃなく、そこに「内容」をちゃんと乗せて来るから写真が深い。松江泰治の「JP」とあわせて借りる。

明日が雨らしいので、日本橋に向かって(重い写真集2冊抱えながら!)レンズを買うことに急遽決める。(もとから買うことは予定していた)。
値引き交渉でかなり踏み込めると予想していたけど、結局予定よりも3千円多く払うことになった。まぁ、それでもかなり値切ったほうだと思う。
これで「新世紀」に間に合うかなぁ。
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by stoneroses8010 | 2007-04-21 23:07 | photo
2007年 04月 17日

仕事観

職場の歓送迎会が続く。他の職場に異動して、早速その仕事を嫌がっている人もいる。
なんなのだろ。こういうとき、この間も話した仕事観についていろいろ考える。
独立することや自分で事業をやることをスゴイスゴイと連呼している人がいた。そりゃ、並大抵でないと思うけど、結局そのシゴトが自分にとってどうなのか、人生の時間と資力と労力を捧げてもいいと言い切れるものなのかどうかのほうが、サラリーマンだか、独立だかの形態よりも重要だ。だが、そういいきれる人なんてそういないだろうから、形態にこだわらず、自分にとってシゴトとどう向き合うかというスタンスとその実践の確立こそが重要なんだろう。

この間の飲み会で、とある人が、シゴトが面白くなってきたといっていた人がいた。その人は趣味の充実の時間が得られるため、その仕事を選んだものと思っていた。そんな人がなぜ仕事が面白いといっているかと質問したら、論理性と答えた。つまり、様々なパーツがあって、それを組み合わせて整合性を持たせるといった意味である。
それが性格にあうと言われればそれまでなんだけど、どうなんだろうと疑問に思った。つまり、決まったことのパーツを組み、整理整頓し、説明能力を担保するということになってくるんだけど、じゃあ、それはなんのためなのか?どういった将来性のもとの論理性なのか?仕事に面白いと向き合うなら、自分のやっていることの全体的な立ち位置みたいなのを把握し、それがどの方向に向いているものなのかが明確ならずとも自分で理想をもっていないとなんだかさみしい。その上で、オペレーションレベルの論理性じゃないのか。
ましてや、ヒエラルキやロジックのソリューションじゃ、幅広い対応なんかできないのはもはや明らかなのに。

私も自分の仕事はきちっともちろんやるし、論理性ももちろんとる。そう、それは当たり前であって、それよりも、そうあった上で、どう将来に向き合えるか。自分が理想、ビジョンをもって試行錯誤できるか、夢中になれるかということが、面白いといえる向き合い方なんじゃないかな。
そりゃ、そううまくいかないから、ネガティブなものでも、ポジティブな面を見つけて、面白くしていこうという考えもありだし、精神的には健全だけど、ネガティブだからこそ、それ以外のものにバイタリティのすべてを費やせる過ごし方を今は選ぶ。そっちのほうが、つまらん妥協をせずにすむ。

部署が変われれば、自分の細やかな論理性などすぐに消し飛ぶ。後のだれかがラクになるのはプラスだけど、自分にとっての仕事ってその場合なんだったのか。どうせ時間をかけるなら、オペレーションのスペシャリストじゃなくて、マネジメントやガバメントレベルのスペシャリストの視野や実践力を養成できる仕事に向き合うべきだ。そのほうが汎用性が効く。以前、他部署からのスペシャリストが来たのだけど、その部署のみの論理性とオペレーション能力のみで、言ったら悪いけど役にたたん人材がいた。そういった人は、自分の立ち位置すら簡単に見失う。
そうはなりたくないのだ。
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by stoneroses8010 | 2007-04-17 00:14 | 我思ふ
2007年 04月 16日

視点

今日はテスト撮影しに行く。試行錯誤もいいところ。
ずっと昨日言われた「視点」の意味を考えていた。
文脈から身体的な視点を指していると思えるけど、日本人の身体って1億人以上もいるのだから、似たりよったりで、やはりそれだけでオリジナリティがあるとは思えない。撮る主体が被写体にどう向き合うか、主体がどういった社会的な文脈に乗った上で、そうなったのか、それが、美術史的に写真史的な流れにどうぶつかり合えるのか。それがオリジナルの「視点」じゃないかなぁ。と思ったりする。

シンディ・シャーマンは、自らがB級俳優になりきって、映画の一場面のようなセルフポートレートを撮る。見たままなら、それは俳優気取りの単なるセルフになるだろうけど、そこには、男目線による女性への視線。ファッションによって自分自身を幻想に惑わせるような消費社会。といった時代的背景とそれに呼応した作者の視点(コンセプトにも近いものなのかな)というのがあって、ビジュアルのみにプライオリティをおく視点とは異なる。

写真の話は、やはり写真を観ながらじゃないと抽象的で、あまり写真を見ていない、もしくは考えていない人、もしくは写真に懐疑的でない人は、実績ある人の意見に無条件にのまれてしまうように思える。
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by stoneroses8010 | 2007-04-16 00:44 | 我思ふ
2007年 04月 15日

違いを知り、動くことあるのみ

人の立ち位置の目線によって、面白さというものが、伝わる。
たとえば、身長の低い人の目線のオリジナリティ、高い人のオリジナリティ。
つまり、辺にあおったりするのではなく、その人のオリジナルの目線(?)が重要。

どのようなモチーフにおいても、線をきっちりしていることが大事。それは、顔ならば、目のライン、鼻のラインがきっちり通っているということ。

提示する写真に対して、共感するか、違和感を感じるかどちらか、または面白いと共感させること。写真作家は、自分だけが面白いとする視点の提示でなく、それを説明することが必要。

上記は、今日の飲みいったカメラマンの友人が言っていたコトバ。それなりにデカイシゴトをしているらしく、色々写真について語っていた。自分のなかで半分共感できたり、半分違和感を感じたり。

「面白い」ってコトバの意味がよくわからなかったけど、ようはシゴトとしてやっていくには、クライアントにどう共感してもらえるかが重要なわけでその意味でのクライアントが「面白い」と共感してもらえるもののことを言うのかなと勝手に思っていた。

共感させるか違和感を提示するかは、そのどちらかを提示することしか表現をやっている意味がないわけで、その二者択一の提示はどうかと思った。自分はどう思っているのかと考えた時、皆の既存の知覚で共感してもらうというのは、もうみんなわかっていることなんで、それよりも表現として成立させるには、彼のいう「違和感」が適当だと思う。それは「違和感」というよりも、見えなかったものの可視性であって、それを提示したときに生まれる今までの知覚をブレさせることであろうと思う。
それは見たら伝わるもので、説明すべきといっていたけど、説明したら、写真としての表現の意味がないと思った。まあ、それは作家がなんかを撮れば、すべてまかり通ってしまうネームバリューの抵抗感が見え隠れしたりしたんだけど。

線のきっちりというのは、なんか響いた。一見凝っているアングルやつくりに見えても、何が表現されているか根本が見えないとそれが写真や絵画であれ、ただ凝っているだけで、なにも伝わってこないと思う。モンドリアンなんかは、突き詰めて線の表現になったけど、それは、物事の必要最低限の構造を露呈したスタンスであり、そこから様々な空間を想起させる。

あと、かなりビジュアライズ優先的な発言が多かった。(つまりはコンセプト不要論)それで面白いと言わせたら勝ちという考えである。商売としてはそうなんだろうと思った。けど、幸い私は商売としていないので、ビジュアライズで写真をやっていたら、すでに辞めていたと思う。自分が何を考え、どう捉え、何を伝えたいのか、それを写真で表現し、第三者に見せる。それが写真による身体性と思っているからだ。その後のビジュアライズという手段であって、私の場合それが先んじると本末転倒もいいところになってしまう。

なんにせよ、彼は自己の思想をもって、それで地位をもち、身を立てているのであるから、賞賛に値する。彼と私の違い、それはどれが間違っているとかではなく、あくまで「違い」である。評価なんて時代が決める。
私はその場で反論はしなかった。すれば、互いに不快になりそうだったから。というよりも、一人が考える程度はしれているので、彼からなんか色々吸収したほうが得策だと思ったからだ。
議論を交わすことも時には必要だけど、それよりも今はどんな小さなことでもヒントはもらう。
そして、自分がそれに対しどう思っているかをそのあと考える。時間が無いので、余計なことを省いてショートカットで思考しよう。

なんでこういった展開になったかというと、九州に住んでいる友人が関西にやってきたからだ。そのため、大学時代の友人集めて飲み会をする。
まあ、皆それなり、結婚したり、仕事に勤しんだりしているので、悲喜こもごもの話をする。自分の仕事観と友人の仕事観の相違がわかって、まだ自分の仕事観はコドモかもと思ったり。まあ、それが何か?って感じですが。

さらに、その会よりも前、一緒に参加する友人と事前に待ち合わせして、色々話す。
彼女も自分のフィールドでいろいろ動いており、自分のアイディアでデカイところ相手にプレゼン仕掛ける様子。うーん、残業だのなんだので止まってられない。人を賛美したり、コケ下ろしたり、自分のなんともならん状況を卑下する前に、自分でまず、動いてみよう。
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by stoneroses8010 | 2007-04-15 01:01 | 我思ふ
2007年 04月 11日

杉本博司、都市学

更新不調。それもこれも異動のせい。

先週の土曜。
今もなお、後悔。
国立国際美術館でやっている「杉本博司」展の初日に足を運んだ時のことである。着いた時、14:00より杉本本人がそこで講演会をやっていることに気づいた。時間はすでに1時間半をオーバーしていた。講演は質疑応答が終わろうかという状況だった。ひと目すら見れず。
杉本は、自分の観念や思想、先人の観念をビジュアライズさせる写真家である。8×10により表現がどうこうよりも、見るたびに水墨画を見ている心境にもなる。

今日。
「都市学」なる講義を聴いた。週一で、講師は1回ごとに変わり、「都市」について、各々の分野からアプローチする。が、取りまとめの教授は、その専門性を捨て、問題解決型のチーム体制でないと、学際どころではないと言っていた。
講師の紹介があり、印象に残ったのは、ドイツの現代都市をレクチャしてくれる予定の教授だった。文化というのは都市にしっかりあらわれる。今の都市は、共同体が崩れ固有性を失い、均質化しているが、ナショナリズム的な面も表面から見て取れる。それが進んでインターナショナルな側面すら持つというのである。
ちょっと面食らって、半信半疑なところだが、今日はイントロということなので、詳細は、講師がレクチャしてくれるまでということになった。クリストの議事堂梱包芸術論争も扱ってくれるというので、楽しみなところ。
都市の視覚に興味がある。
都市創造は、その地域の文脈や地勢、住人に委ねられるところがある。その点を考えると、都市創造は、歴史やそこに住む人間の知覚、知覚を揺さぶる常識的感覚によるところが大きいように思う。それは表面的にあらわれ、伸縮を繰り返す。その様をかつては、「都市風景」として視覚化し表現してきた。そこには、見えるものの奥にある現実の社会構造を膨大に暴露する性質を持っていた。が一方で、松江泰治が示すような、そういった意味の枠組みを外すもう一つ「風景」も現れてきている。そういったものの見方すらも、都市という環境とそこに住む人間により生み出されたものである。
表現する主体(人間)も住まう都市(環境)により、知覚を揺さぶられる続けたきた結果が都市の多大な表現のアプローチを生み出したように思う。
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by stoneroses8010 | 2007-04-11 23:30 | arts全般
2007年 04月 01日

交換レンズ

梅田でレンズを見に行く。狙いはmamiyaの N50mm 4.5とN65mm 4。
見せてもらったが、室内でファインダーを覗いても違いがはっきりわからない。そこの店員は、50mmはビューファインダーが必要なんだけど、65mm対応のファインダーを覗いて自分である程度のフレームをイメージすることもできますよという。そりゃ、かなり慣れが必要だ。50mmはビューファインダーでフレームを決めたのち、ファインダーでピントを合わせる。

心斎橋で紳士服の安売りをやっていたので購入して、オフィシャルの対応も整う。日本橋まで歩き、大学時代よりよく通っていたカメラ屋で再び、上記のレンズを見る。新品なのに値段がなかなかリーズナブル。そこでは、屋外でビューを試すことができた。屋内で見たのとは違い、格段に差がわかる。こりゃ50mmだな。あとは値段なんだけど、もうちょっと押せそうな雰囲気。

アセンスで写真集物色。
この間の写真展の出展物に対して、後にある人から、建築をやっている人ですかと言われる。その途端、ああ、失敗かなと少し落胆した。観る人のなかである程度のカテゴライズをされ、その人の既知の風景でまず認識されたら意味を成さないからだ。
そんなことを少し思い出しながら、松江泰治の写真集を見ていた。購入。
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by stoneroses8010 | 2007-04-01 22:39 | photo