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2008年 05月 06日

液晶絵画展、もうひとつの写真表現

GWは、撮りながら、公募の準備しながら、観ながら。
国立国際美術館「液晶絵画展」
要は映像である。

やなぎみわさんや鷹野隆大さんの作品は自分のスティル作品の延長であって、他の作家に比べ、ジェンダーやら老いやら、メッセージ性が強い。
ドミニク・レイマンは「Yo Lo Vi」で、少し時間をずらして、鑑賞者を映し出す作品がある。
ただ、観ている我々を映すのではなく、締め上げられた裸の男性(?)がおり、我々がその締め上げられた男性を見世物を見るように見ているという映像を映す。(なかなかややこしいな)そして、それを現実の我々が見るという構図になって、なかなか目が離せない。
因みに私の知り合いの写真家はこのレイマンと飲みにいったそうだが、英語のやりとりができずに歯がゆいといっていた。
サム・テイラー=ウッドの映像作品は初めて観た。写真なら何度か観たことはあるのだが、映像もなかなか面白い。というよりわかりやすいのである。「スティル・ライフ」「リトル・デス」では動物、食べ物の腐食して行く様を高速で撮り経過を見せて行く。
一方「ピエタ」では、超スローで、キリストを抱くマリアを模したものを映す。
チウ・アンション。水墨画タッチなのだが、展開がアニメーション的で鳥獣戯画を思い出した。タッチが軽いにも関わらず、ドリーのクローンなど倫理的、政治的なテーマを扱うので、かえって水墨画のにじみみたいなものが不穏に思える。

京都芸術センター「もうひとつの写真表現」
版画やら、絵画やらをやっている人たちが写真を使って、より深くなにか表現できないかという試み。
桜井裕子さんの2枚のポートレート写真を短冊状にして、互いを編みこみ、新たな人物(?)を作り出す作品は興味ぶかい。そこに民族性とか人と人との関係性なんか盛り込んだりしたらとか考えると、いくらでも発展できそうな作品だと思う。
藤永覚耶さんはブツ撮りしたものの、ディテールを撮ったあと、なんらかの加工によって自分の表現したい部分を際出させる方法の作品。
写真は撮る、観るだけでなく、自分の中をさらにくぐらせる意味を持って、(自分のフィルタを通すともいえる)再構成することも一つの方法である。
写真家とされる人も、こういったスタイルでやっている人もいる。新世紀の高木さんもそうだった。

Artzone 頭山ゆう紀「さすらい」
うって変わって、モノクロのストレートスナップフォト。なんだか新鮮でした。
作品とかもうヨコに置いて、35にモノクロ入れてフラフラ撮ってみたい。
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by stoneroses8010 | 2008-05-06 00:01 | arts全般
2008年 05月 05日

飲んで飲んで

なんだかんだで忙しかったので、写真以外やってないようだが、そうでもないわけで。
4月下旬はよく飲みが立て込んだ。

たとえば、職場の歓送迎会。まぁ、普段はネタになるようなことでもないのだが、今回は、中抜けして、プライベートでも飲まない後輩となぜかサシ飲み。
結構冷めたヤツだと思っていたのだが、仕事観をそれなりに持っており、経年によって位が上がっていき、外から人材を入れずに、封建時代の村社会のような組織文化に嫌気が差してきているようだった。私は、こういった類の不平に対しては、最低でも自分がどうしたいかを明確にしない限り、まともな議論にならないことはわかっている。だから、そういってやると、8割がたの若手は黙る。彼はそうでもなかったので、なかなか面白い話が出来た。

前述したけど、大学の先輩の2次会。みんなちゃんと大人になっていくんですね。私はいつも学生っぽいと言われる。
その次の日も、大学の同期に誘われて京都を一日車で連れて行ってもらったが、なんだかかなりゆったりとして心地よかった。下鴨神社は行ったことがなかったのだが、そこでたべた団子がなかなかおいしかった。
その夜は、大阪に戻り友人とサシ飲み。ああ、たのし。

5月いきなり週末は、職場の友人らとの飲み。私が気の許せるいつものメンバに+1名の友人(私は初対面)。
ここでも、仕事観の閉塞感に対する迷いみたいなのが出てきたので、まず自分が何をどうしたいのかはっきりさせるよう伝える。こんなシンプルなことなのに、まずあれもしたくない、これもしたくないと言う。じゃ、何がしたいの?というと「別に」という。
何がしたいというのは、仕事のディテールでもいいし、人生における何かでもいいのだ。それに対して、自分の仕事観、将来設計とどう整合性をとるか、である。最低でもこのあたりを考えておかないと、この場は切り抜けても、またどこかで躓きますよと言っておいた(かなり、上から目線だな。というか、これぐらい誰でも考えているから、こんなこと言わすなよと思う)。
そんなこと言いながらも、私もいかんともし難いものがあるもので、なんとかもがいていて苦しい部分がある。
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by stoneroses8010 | 2008-05-05 22:58 | その他
2008年 05月 04日

見るということ

まぁ、年度替りというのはいろいろあるもので、そしてやっかいなもので。

この時期は、シゴトがやはり混んでまして、それなりにやられながらも前進です。
公募も募集が多いのがこの時期で、創りながら仕上げながらを繰り返す。
4月末の土曜は、午前中にシゴトして、午後から作品の上がりをチェックして、発送。いったん家に戻って着替えて、大学の先輩の結婚式の二次会に行くというなんとも忙しい日であった。

今年度は、とあるギャラリストの方に写真を観てもらうことになった。いい加減早く打って出たいのだけど、その方は最初がいかに肝心であるかを説く。
確かに、最初に確たるスタイルを持つ場合は、ほぼ一生それを繰り返して、世を渡っていくことが出来る。石内都さんとか金村修さんとかもそうだ。しかし、焦る。いよいよ正念場か。

この間、竹内万里子さんのレクチャを聞いた。大変面白かった。
どんな話かというとまずは「見る」ということについて。
「見る」とは「目」というハードを使って、脳というソフトで変換することによって、「見る」が成立しているということ。
つまり、人間は見たいというものしか見ず、たとえ「目」というハードでものを見ていたとしても(科学的に可視であったとしても)、脳で変換されないと「見る」ということにならない。
人間は、経験、環境によっても影響を受ける「脳」の働きが「見る」ということと相関的と言える。

写真は、平面に落とされたとき、すべてが可視となって現れる。しかし、ものを見て撮ったときは、そのすべてを見ているわけでない。ここで「見る」と写真を「見る」ということには大きなズレがある。
人間の「見る」ものが、脳の選別によって振り分けられるなら、すべてを露わにする写真は、「見たいもの」からの逸脱といえる。

竹内さんはブレッソンの「目と心と頭の照準を合わせて撮る」というコトバを出して、目はフォルムを見るということ、頭は知識、心は共鳴。そのすべての照準を合わせて撮ることが、いまやなんでもかんでも映ってしまう写真と「よい写真」との差異ではないかと言っていた(ように思う)。同感である。

加えて、私は「見る」ということについて、同然だが、構造的にもカメラとフィジカルの「目」というのは差異があると思う。
目で「見る」というのは、ある部分にしか注意していないが、どこか感じている部分があるものだとも思っている。(つまり、すべてがはっきりと同時に見えているわけじゃない)
カメラは、注意している一点だけでなく、その周辺すべてをシャープにさせ、リアルタイムで「見たもの」とのズレがある。
そんなことを考えていた。

そのレクチャの後、写真のクラスで飲み。
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by stoneroses8010 | 2008-05-04 22:37 | photo