2009年 04月 05日

連絡

とんでもないところに、職場が変わった。
折みて、触れていければと。なにかに巻き込まれそうな予感(恐ろしいや)

操上和美さんが、監督、撮影監督をしている
「ゼラチンシルバーLOVE」を観る。
魅せる映画。「花様年華」を思い出す。
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# by stoneroses8010 | 2009-04-05 21:27 | その他
2009年 03月 25日

山 フィルム 身体性

いろいろ多忙だったわけで、長く期間があいてしまった。
山が本格化しはじめて、2月末には初雪山に挑戦。
先日の連休では九州の山々(高千穂峰、久住山)のダブルヘッダーに完勝。
と、自分でも不思議なくらいやめられんようになってきてます。我ながら狂ってると思う。

○京都にあるタカ・イシイギャラリーと小山登美夫ギャラリーに初めて行ってみた。畠山さんが個展やっていたため。東京にあるギャラリーと同様の雰囲気。どちらかというとニューヨークにあるチェルシー地区のギャラリーの雰囲気に似ている。

○友人が東京芸大の大学院に行くとのこと。しかも通学。深夜バスで通うらしい。健闘を祈る。

○とあるギャラリーの方から個展の依頼があった。ものすごく嬉しかったが、どう考えても間に合わないタイミングだったので、パスした。残念。こういうときの機動力が本当に今欲しい。それでも、今後付き合っていけそうなギャラリーではある。すいません。

○単独で山に登るといろいろ考えるわけ。自分がなぜ、コストもバカにならないフィルムを使っているのか。ずっと考えていた。
写真はデジタルになっていく。杉本博司さんは銀塩は終わったと言った。それでもフィルム。
フィルムは、ビジュアルとして階調や硬さなどがデジタルとは違うといわれるし、実際に私はカラープリントを暗室でもやるし、デジタルでも出力したりするので、それはわかる。でもそういった目で見える点を指摘しても、自分のなかでは違うなと思う。
フィルムは痕跡という人がいる。つまり、ひとコマひとコマが自分の足跡であり、物として残ると。じゃ、なぜ足跡を残すことがフィルムにすがる理由になるのかと考える。
足跡の読みやすさ、身体のフィット感がフィルムが優っている思えるからかな。
写真に無駄なものはなく、最後はセレクトによって作品として成立することがある。セレクトするということは、自分が撮ったものの履歴を読むということである。読むことで自分の記憶、体験と向き合って、ビジュアルとして再構築して他者とコミュニケーションを取ろうとする。デジタルでもやろうとすれば可能なんだろうけど、撮る、観る、読む、セレクトという過程がフィルムのほうがやりやすく、頭でっかちにならずにすむ。デジタルは読む前に、自分の考えが入り、読むことなく自分のなかで違う自分を発見することなく、勝手に取捨選択してしまう。
そう考えると、自分という身体性と密接であって、よりフィットするものを求めてのフィルムなんだと思う。身体から湧き出るものが残り、それをなんとか伝えようとしている。機器の選択もそうだし。
私小説的な写真を撮らずに、ベッヒャーやらグルスキーのような写真であったとしても、それを撮るきっかけは、世界と向き合って、受け止めたものがあって、それを形にしようとした結果だと思う。身体から出てくるという根本は一緒。
デジタルのほうが合うという人もいるんだろうけど。でも、私はフィルムの時代に生まれて、そして遊べてよかったと思ってる。

○身体性つながり。
この間NHKでやってた「日本のこれから」というテレビ番組を見た。
お題は「テレビのこれから」というタイトルで、テレビ業界のプロデューサやディレクターらと、一般の方、糸井重里などが生で3,4時間近く「テレビのこれから」について、語る番組。
ここの番組でも指摘されていた若者の「テレビ離れ」に入る私も、テレビのことなんかどうでもいいと思っていたけど、つい見入った。
そこで面白いことに気づいた。一般の人は忙しいから見れない。オンデマンドでやっているからいつでもどこでも見れるコンテンツを求めている一方で、業界の人は、そのとき、その場でやっている番組を見てくれと純粋に思っている。つまり、この時間帯、このタイミングや予算という制約のなかで作り手が試行錯誤して制作しているものを受け取ってほしいと。いい例えかどうかわからないけど、DVDでいつでも見れることよりも、映画館で2時間暗闇のなかで拘束されて、見る側にじっと入り込むことを求めるようなものがあって、それに対して、一般視聴者はメディアやネットでもっとコンテンツやらチャンネルやら増やしてやってよ。ドキュメンタリやら感動できるやつもやってよとのこと。
業界の人は、今までテレビが不特定多数の視聴者により添いすぎたため、無難に可も不可もないような二番煎じの番組を大量生産して、テレビが面白くなくなってしまったという。

情報を伝える手段がもう多様になったから、伝えるだけではテレビの独自性はもうないわけで、そうなるとテレビとしての表現が欲しいなと思う。ネットの即時性やらニッチに入ったものに勝てるわけないので、そこで争ってもしかたないので、寄り添いすぎたというなら、離れて自らの表現を見せてほしいと思う。スポンサーのこともあるだろうから冒険なんだろうけど。
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# by stoneroses8010 | 2009-03-25 01:38 | 我思ふ
2009年 02月 15日

雪山行けたら

1か月ぶりに写真を見ていただいているギャラリストの方に、個展をするならこのシリーズという写真を持っていき、アドバイスをいただく。
その後、友人たちと食事。
今年度の木村伊兵衛賞の話、不況から見る写真業界の話などなど

去年から山に目覚め始めていて、ついに雪山に行きたくなってきた。
しかし、実際に行ったこともないし、装備もない。なので最低限の用具を揃えた。
雪山と行っても、2000メートル以上の山々を縦走しようという気などなくて、
雪原をトレッキングする程度から始めようかと思い、アウトドアショップで相談して揃えた。
今年度中に練習程度でどこか行けたらいいなぁ。
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# by stoneroses8010 | 2009-02-15 23:33 | その他
2009年 02月 13日

光のフィールドノート 

2月上旬。関東地方へ出張したついでに、またまた散策。
とりあえず、仕事終わりに年末にあった後輩と飲むことにした。
今度は後輩の仕事場兼住居に行く。
暗室で少し埃をかぶり気味のCP32が妙に欲しくなる。
やはりデジタルなのね。その後飲み。

翌日。
東京国立近代美術館で高梨豊「光のフィールドノート」展を見る。
60年代から都市をずっと見続ける高梨の視点を追ったものだが、「都市へ」や「街」のように劇的な経済成長のもと、変わる続ける都市をとらえること、そしてそうした変化のなかも変わり続けず、固有のものとしてありつづける信仰根づく土地を撮り続けた「初国」
変わりゆくものと取り残されたもの都市の様をとらえる「地名論」「囲市」
など、高梨自身がずっと都市と向かい続け、そして感じたことを大判カメラ~35mmに至るまで手段を変えながら追っていく。
ここまでくればひとつの時代を渡りきった長編でスケールが違う。

新宿のニコンサロンでフォトシティさがみはらの展示を見る。
朝海陽子さんの「Slight」は、自宅で映画を見ている人々のユニークな姿を撮影した作品で、その人が住んでいる場所と見ている映画のタイトルが写真のタイトルとなっている。
その人が見る映画とその人のイメージの合致やギャップが面白かったり、見ているときの格好、生活空間の様々な情報に目がいき、見入る。
写真にしかできないことだなと思う。

六本木ヒルズのスカイデッキに出ることができたので、そこから東京を眺める。
スモッグがひどく、遠くが見えない。
年末に見れなかった森美術館の「チャロー インディア」というインド現代美術展を見て、自宅へ。
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# by stoneroses8010 | 2009-02-13 23:19 | arts全般
2009年 02月 01日

ありがとう、ドアノー

先日、暗室で焼いていたら、とあることに気づいた。
一枚一枚はじっと見入るほど面白いのに、まとめようとすると、とたんに面白くなくなる。
これってどういうこと?
編集の大切さはもちろんのことながら、なにかズレてるような。

試行錯誤して、3点ほど課題をもって改良していこうと思いながら、
えき美術館KYOTOでやっている「パリ・ドアノー」を見る。
ドアノーに関しては、ただ息抜きで見ようと思っていたのだけど、
内気なせいもあって人に踏み込めない分、背景に情報を込める方法とか、
見せるときのスケール感の統一方法など、染み入るものがあって、
タメになった。

最近、自分の最終地点をよく考える。
そりゃ、限界定めずいけるとこまでいくぜ!という「かっくいー」こと言えれば
いいけど、やはりある程度のポイントはそろそろ見とかないと。
時間は限られているわけで、とりあえず、それに対して自分がどういった
手札を持っていて、なにを持っていて何が足りないのか。
足りないものをどうやって集めるのか、交換するのかなど考えとく必要はある。
そう考えるとき、先がぼやける。
ぼやけるというよりもある程度絞られるのだが、
それらが相入れないものであって、どちらかを切り捨てることを強いられてきそう
な不安があって迷う。
とりあえず、頭だけでなく、行動。なんとか現場を知る方法がないものか。
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# by stoneroses8010 | 2009-02-01 22:16 | 我思ふ
2009年 01月 20日

さて、大山崎

「さて、大山崎」山口晃展
山口晃が山崎山荘美術館で、山崎やその美術館ににちなんだ作品を展示する。
「惟任日向守図」「羽柴筑前守図」のように山崎といえば天王山というように土地にちなんだ武将図に、実は兜がワインオープナーというようなちょっと現代的な考証を盛り込んだものや「大山崎交通図」のように山崎の近未来の妄想を、洛中洛外図のような風俗画のテイストで、近未来と過去が入り組んだファンタジーのような絵が並ぶ。

その他の絵にもいろいろ仕掛けがあって、見入る。
「邸内見立 洛中洛外図」では、洛中洛外図のように、京の寺など記した図を俯瞰的に描いているが、仁和寺には「みんなぢ」とあってそこには「ぢ」と思しき方々がトイレに列を成している。
といったように「ダジャレ」といってしまえばそうなのかもしれないが、ユニークさを日本風俗画のなかに盛り込んでおり、いろいろ探してしまうのである。

「見立て」もこの展示の特徴で、新館では、美術館の壁のシミや傷をなにかに見立てて、そこを四角のスポットライトで浴びせ、作品とする。
たとえば「二十面相」のように、山口本人が「二十面相がマントを翻したところ」のように見えたということをタイトルにし、作品としているのである。
強引かもしれないが、なんだかそう見えてしまうのはなぜだろうか。
ここでしかできない展示。見立てによるもの。から出てくる面白いアイディア。
「見立て」で、思い出したが、「門前みち 軍艦」という鉛筆書きのものがあって、一方に軍艦を、一方には門前町のなかで「軍艦のように見える」ものを切り出し並べている。
自分の視覚的興味をいじっていき、それをなにかに見立てて作品として成立させている。
ちょっと考えさせられた。

大山崎版の「すゞしろ日記」
軽いタッチで、思ったことや行動をつらつらと書き連ねていくもので、大山崎で展示するにあたってのエピソードが主題となっている。鳥獣戯画や北斎漫画を思い出してしまうのはなぜだろ。

やっぱり「見立て」というのは、面白くて、ようは自分が「こう見える」ということを抽出したものだ。
それは、まず、意識されないイメージ(見え方だけでなく、この花はこんな匂いするんだろうなという五感にかかわるもの含め)が自分の中にまずあって、実際に目にしたときに、「こう見える」という交信が自分の視覚経験とイメージの間でなされ、それを形にしようとする作用なのかもと思ったり。

Tシャツと図録を買っておく。
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# by stoneroses8010 | 2009-01-20 22:20 | arts全般
2009年 01月 13日

年末は映画でした。


年末にやったことと言えば、写真を焼くことと映画見ること、大掃除、忘年会。

暗室で友人と一緒になり、お互いたいそうに考えてもないのに、来年の抱負を言い合う。
ほぼ妄想に近い。焼きおさめ。

映画は「未来を写した子供たち」「トウキョウソナタ」「青い鳥」
「未来を写した子供たち」では、インドの赤線地帯に住むこどもたちに写真家がワークショップ形式で写真を教え、
表現することとその可能性を教える。
教わった子供の一人(彼は、その後ニューヨークの大学で映像を学ぶことになるのだが)が、写真の国際大会みたいな
ところで、一枚の写真について、感じうるところを語りだすシーンがあって、その表現の巧みさに凄味を感じた。
そんなに教わって、年月もあるもんでもないし、子供のいうところだが、リテラシーの瞬発力というのか、反応というのか
そういったものは必要で、一枚の写真を強くしたいなら、一枚にどれだけ感じうるところがあって、それをどう言葉にして表現できるのか
ということは筋肉としてつけておくことも大事と思った。

「トウキョウソナタ」は年末でレイトとあってか、私一人。はじめてじゃないのか、独占。
経済や社会の変化によって、一戸建ての核家族のそれまでよしとされてきたような価値観が揺らいでいる現在を
見ているような気がした。それはある意味痛快であり、ある意味外因的なもので簡単に揺さぶられる怖さをはらんでいる。
いや、違うかもなぁ。仮に父親が、リストラされずに給料もらって、家に帰ったとしても、長男は海外に行っただろうし、
次男はこっそりピアノをならい、母親も同じような気分だったかも。
どうであれ、家族はお互いを知らなくなってきているのだな。そして、お互いのことを話せなくなってきているのかな。
俺はこう思うとか、言い合うんじゃなくて、ああ、もうわかんないだろうなぁと言って、話すことをショートカットして
コミュニケーションをシャットアウトしちゃう。
でも、ミクシィとか、バーチャルなコミュニケーションの場では、結構ぶっちゃけたりする。
SNSは話す相手が、実物を知らない限り、イメージでしかないのに、そのイメージの相手に対して、ぶっちゃける。
でも、そばにいる実体ある相手には、ショートカットしたりする。
たぶん、長男もイメージだけで、海外に行くものだから、実際に異なる現状を見て違和感を覚え、最後に実態と向き合うために「海外に残って考える」ことを選択する。

「スクラップヘブン」という映画で、オダギリジョーが、想像が足らないために、どうでもいい事件が起こると言うシーンが
あった(ように思う)
これは、(実体どうしの)コミュニケーションで、互いのことをもっと想像しないために(まあ、こういったら怒るかなとか、
こうしてほしいのだなとか)、フリクションが起きるということをいっている。

実体どうしのコミュニケーションでは、イメージがおぼつかないのに、どうしてバーチャルなコミュニケーションではこうも
イメージをもって、コミュニケーションするんだろう。いいか悪いかも含め、よくわからなくないけど。

黒沢清さん、アエラのなかで、面白い予言してたな。

「青い鳥」
事件の起こった後、先生のとった態度によって、生徒たちの心が揺らいでいく、動いていく。
これといったことは起こらないのだけど、心のゆらぎだけで表現できる映画っていい。
間に挿入していく映像が空気感を作る。
「天然コケッコー」もそんな感じだった。
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# by stoneroses8010 | 2009-01-13 23:16 | 映画